信長が見た戦国京都 ~城塞に囲まれた異貌の都 (歴史新書y)

著者 :
  • 洋泉社
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  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784862485922

感想・レビュー・書評

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  • 戦国時代の京都というのはどんな都だったのか?応仁の乱で灰燼に帰したように見えて、その復興はどのように行われていたのか?城塞都市京都に大きな役割を果たした日蓮宗と、支配者信長が京都にどのように関わろうとしたのか考えさせられる一冊。

  • 戦国期と現在の京はその範囲も作りも姿もまったく違う。応仁の乱で荒廃した京が復興していく中で、信長の時代にはどのような区割りだったのか等を町衆や寺院との関係も含めて描いており、とても興味深い内容でした。

  • もう1か月ほど前になりますが、仕事で京都に1週間ほど宿泊しました。駅の近くの品の良いホテルに泊まったのですが、京都の町を初めてある程度時間をかけて楽しむことができたと思います。

    他の街との違いは、いまだに歴史のある専門店が多く残っていて、品の良いデザインであるうえに、価格も東京と比較するとかなり安い印象がありました。

    この本は、信長が京都に入った今から400年以上前のことについて書かれていますが、今の京都の繁栄とは異なった世界があったようです。

    信長と京都とのかかわりは、比叡山の焼き討ちや、自身が部下に暗殺された本能寺があったりとしますが、信長が京都をどのようにとらえていたのかについては、今後も類書で観ていきたいと思いました。

    以下は気になったポイントです。

    ・京都といえば、千年の都というイメージが強く、平安京の形がそのまま受け継がれているように思っている人がいるが、実際は、現在の京都は秀吉の時代に原型が作られている(p6)

    ・平安時代の中頃から、左京と右京に分かれた都市域のうち、西側の右京がしだいに都市域として使用されなくなり、人々が東側の左京に集まるようになった(p22)

    ・洛中とは、平安京の「左京(東京)の中」を意味する、左京のことを「洛陽」右京のことを「長安」といったことに由来する(p30)

    ・惣町、町組、町(5つの町組に各々年寄がいて、5人の年寄により惣町が形成)というものが、信長の支配と対峙できるほどの能力を備えた社会集団であった(p106)

    ・応仁・文明の乱によって洛中は焼け野原になってしまったかのようなイメージがあるが、実際はその後の大火や戦乱による被害のほうがはるかに大きい(p113)

    ・信長の頃の信仰のありかたは、師檀関係といって、ひとりの宗教者とひとりの信者との間の1対1の関係で成り立っていた、江戸時代以降に見られるように、寺院と家と言った集団同士で成り立つ寺檀関係ではなかった(p120)

    ・信長対策として京都の寺院が集めた銭(喜捨)は、1200貫文、米1石=1貫(20万円)とすると、2億4000万円であり、これが10日ほどで集められた(p135)

    ・義昭御所は、石垣が用いられた二重の堀をもつだけではなく、天主と呼ばれた「三重櫓」も備えた、近世的な城郭の先駆けと評価できるもの(p157)

    ・信長が最も頻繁に宿所として使ったのは妙覚寺、本能寺は1580年頃からのわずかな時期(p160)

    ・信長は本拠地を京都におくことなく、美濃の岐阜城や近江の安土城であり、京都と一定の距離を保つことのできる場所であった(p161)

    ・信長の方から見れば、乱暴狼藉とはいっても、それは延暦寺大衆や上京など、敵とみなした者たちに限定される、下京など敵対しないものについては行っていないが、信長とその軍勢と京都の人々の間には埋めることのできない溝ができていった(p194)

    ・1576年頃の信長は、源頼朝や室町将軍と同様に、武家の棟梁として京都の人々に臨むことになった(p202)

    ・本能寺の変の頃の信長は、すべての官職を辞任していたが、官職や位でいえば信長よりも上位の公家も「礼」に参上していたことから、このころの信長は武家の棟梁を超えた状態(天下人)という言葉にふさわしい地位になっていた(p205)

    2011年10月2日作成

  • 著者の河内将芳氏はこの本で永録2(1559)年から天正10(1582)年の京都を扱っています。著者は『天文法華一揆-武装する町衆』(今谷明)の復刻版の解説を書いています。
    P29の図1の上杉本洛中洛外図屏風では内裏の右側に麦畑があるのですが、白黒ではちょっとわかりにくいので、カラーの屏風絵を出してきて理解できました。図の絵解き本があるとよいです。

  • メモ

    「洛中洛外」という言葉の「洛」は平安京の左京(東京)のみを意味する。平安時代に左京と右京に唐名がつけられ、左京のことを「洛陽」、右京のことを「長安」といったことに由来する。
    平安時代中頃より、右京は廃れて、左京に人が集まるようになったため、「洛中洛外図屏風」というように「洛」で京都を表すようになった。

  • 平安京や現在の京都市に比べ、戦国時代の京都はきわめて狭かった。
    この地理を頭に入れておかないと、戦国時代の京都の様子を誤解する。

  • 惣構というエッジによって上京・下京に二分され、町というディストリクトがその内部を細かく仕切り、ランドマークとなる日蓮宗寺院が林立。こうした都市京都の景観をまぶたの裏に描いてみると、たしかに新鮮。それにしても、ついにその住民とならなかった信長は、果たしてどういう心持ちであの屏風を描かせたのだろう。

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著者プロフィール

1963年生まれ。京都大学大学院博士課程修了。京都大学博士(人間・環境学)。奈良大学文学部教授。主な著書に『中世京都の都市と宗教』『祇園祭の中世』(以上、思文閣出版)、『絵画史料が語る祇園祭』(淡交社)、『戦国仏教と京都』『室町時代の祇園祭』『信長が見た戦国京都』(以上、法藏館)などがある。

「2021年 『改訂 祇園祭と戦国京都』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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