思考としてのランドスケープ 地上学への誘い ―歩くこと、見つけること、育てること

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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784864800389

感想・レビュー・書評

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  • (01)
    良心と驚異の書物としても読んだ.
    驚異の予感は既にある.まず装丁が眼に入る.点があり,隣と連なる点もあり,ムラ(村?)のような粗密もある.薄目でみてもステレオ視しようとしても何かの像が結ばれるわけでもない.あきらめて頁をめくる.表題や目次は意味をなしている.
    しかし,驚いたのは次に飛び込んでくる見開きの白黒写真である.パースが効いており,画面中央を焦点とする構図ではある.焦点のすぐ左にアイストップのようにこんもりと小山が盛りが見えている.画面中央奥へと伸びる舗装道路は,市町村道レベルであろうか,道路側溝も含め幅員4mほどのように見える.しかし,画面の大半は,画面外側から画面を侵食するカシ類らしき照葉樹に占められ,樹陰に暗く満たされている.右手には一時停止らしき逆三角の標識の裏側(!)が掲げられ,それに応じるかのように路面には,道の向こうからやってくるなにものかの動きを指示するような「止まれ」の文字もページの境を中央線として見えている.その一時停止の停止線は路面には白く描かれることはなく,その代わりといってはなんだけれども,と言っているような横断方向のグレーチングが画面の水平要素として走る.この道は谷へといったん下り,ふたたび上る真っ直ぐな道なのであろうか,下りきるあたりの右手に垂直要素が見え,カシ類らしき叢林から神社の鳥居が想起されてみえる.同じ右側には,奇しくもこの夏の地震で話題となったブロック塀が,笠木を載せて危うく垂直を保っているが,すぐ右手まで見届けると,おそらくブロックは部分的に崩壊している.
    以上の写真の中にも,本文への示唆や暗示は読みとることはできるのかもしれない.他のすべての写真や図にはキャプションがあるが,この冒頭の見開きの写真だけには何も付されていない.それはなぜか?という問いを考え続けるのはきついので,先を読み進める(*02).

    (02)
    読み進め,読み終えそうになったところでも,驚きがある.「ランドスケープ」がなさすぎることに驚く.
    タイトルには「思考としてのランドスケープ」とあり,「はじめに」でも「地上」という見直すべき概念と並んで「ランドスケープ」が掲げられているにもかかわらず,最終章ともいうべき第8章まで「ランドスケープ」という語がほとんど使われていない.このようにランドスケープの皆無といっていいほどのストイックな叙述になっていることに,震えるような驚きがある.
    瞥見によれば,ランドスケープアーキテクトの宮城氏や氏の論文が引用されるくだりでのみ「ランドスケープ」が使われている.
    なぜ,(おそらく意図的に)ランドスケープというやや響きのよい用語を避けたのか?
    この問いには,著者自身が最終章となる第8章で応えている.初学者,入門者は,この問題の第8章を入口として,あるいはさしあたって第8章だけを読む方法もあるのかもしれない.素直に最初から最後まで読み通した読者としては,しかし,それでも,順々に読む事をお勧めする.
    本としての構成は,一見するとばらばらな話題を扱った章立てや各章の中の節レベルの位相にも,構成的に現れるものである.本書の章節の前後関係にも構成が認められる.
    本書が特異なのは,各章を私性が通底していることである.その点で,工学的でもなければ学術書でもないとする乾いた読みもあるのかもしれない.が,地上学においてこの私性こそが問題にならざるをえないのではないか.本書を一読すれば,この私性をめぐる姿勢について,環境や文脈や事情により,いかに変化させつつ,いかに保ち続けていくかの要諦を垣間見ることができるのではないだろうか.
    アノニマスでいて資本や消費にどっぷりとも揶揄されそうな100均商品から,著者の長女氏の手や眼というプライベートを媒介して,一気に徳島県名西郡神山町の老練たるスキルまで飛んでいく第1章も見事である.第2章でも,仮想空間と制度のあり方をテーマとしているのだから,ネット上や法規上での検索や記述のみに徹することも可能であったにもかかわらず,噂の現場に足を運び,禁止看板を記録採取し,尾瀬ヶ原での牛首への構図や燧ケ岳への私的なショットを援用している.
    以下,第3章では高崎での現地踏査での発見や平城京遺構の南北軸,朱雀大路の延長を自身で徒歩することでの発見もある.第4章は飛ばし(*03),第5章はひとり西漸運動のような徒歩の運動によって日常に思われていた東京西部を,被害時被災時のアウトサイダーとして非日常的に,そして開拓的に発見しているし,第6章では,私的領域でもある深大寺からの発見と想起(つまり発想)が展開される.第7章も,本書の肝になるパートであるが,公的な造園と共的な園芸が,私の問題と絡みつき,植物的で横断的な思考が開陳されている.
    風刺的に本書を読めば,いかに私の領域や事情(今風にいえば居場所)が公的に管理され,また「より広域的に」脅かされているかという問題提起とも見受けられるが,それは本書の良い読み方ではないようにも思える.

    (03)
    第4章は驚天動地とも譬えてみたい驚きの章でもある.「地形はどこにあるのか」という問いから本章は始まる.この問いの行方は,読み方にもよるであろうが,地形はどこにもない,という結論も可能なのかもしれない.より正しくは,図上にある地形は,私のいまこの地面にはない,が,図上に地形を認識する私と地上にいるいまこの私とが「ひと続きの経験として記述」(例えば私たちの地図を描こうと)されることではじめて,地形と私たちの地上(*04)が現れるのではないかという仮説が本章から想定される.
    この章は,例外的にエピグラフが掲げられ,GPSドローイングの第一人者であるウッド氏の述懐が訳文で示されている.このエピグラフ中の「庭」は重要である.おそらくウッド氏にとって「自分」の「庭」をフィールドとすることによらなければ,「世界を作り出し,理解する」ことができなかったようにも感じる.
    果たして「自分の庭」とはどこにあるのか?どこまであるのか?
    権力の問題として,ある空間における他者の所有ないし利用の権利を,強力なプライベートがその拡張に応じて制限するという,ジェントリフィケーションにも通じる弊害が,本書で取り沙汰されていないわけではない.
    他方で,本書に多用される「ままならなさ」というのはどのような状態であり,どのような事情によるものだろうか.思うがままにならない状態と事情,それが「ままならなさ」に違いはない.ままならない空間の様子を見たとき,そこでは,私権の直接の発動が容易でなく徒労として反応され,境界を保つことが困難で,いつも「厄介」が発生している.私の事情よりも,外側の事情がいつも優先される領域でもある.
    こうした「ままならなさ」やその空間への応対として,建築や土木ではなく,思考としてのランドスケープを滑り込ませる可能性を本書は説いている.

    (04)
    地上という言葉は,どこかで楽園をも想起させる.
    ところで,本書において,公正さとはどのような問題となるだろうか.公や正という語が権力に近すぎるのであれば,フェアネスや公平さと言い換えてもいいかもしれない.社会的な強者と弱者,経済的な富裕と貧困が本書ではきわどくほのめかされているし,著者の立場は,しかしながら,どちらによろぶ(傾く)ことなく,間に立つこと,文字通りの中立であるというよりは,左右どちらにも属さない尾根をきわどく歩きながら,その移動速度によりバランスを保ち,また,そのわずかな尾根線を見極めようという試みとも読める.
    また,記述に関しても,恣意的な抜粋を避け,時には羅列的に(都市公園法の施設各号を見よ),網羅的に(防災グッズのリストを見よ),細大(現代のししおどしの描写,物干し台の観察を見よ)を漏らさず書きつけている.この視線には,フェアネスとともに「必死に見ること」が賭けられている.
    学問的にはどうだろうか.本書は,ランドスケープがこれまで身を置くべきと見られていた造園学あるいは園芸学,緑化工学,庭園史学からは一線を画してある.その一方で,人類学,認知科学,社会学,教育学,建築史学,都市計画学といった領域の成果を引用し,学際的な行き方をしている.この方法,行き方について,最終章で著者による展望や指針が示されている.
    つまり,本書は,日本のアカデミックなランドスケープの学,とりわけ造園学会の分野(フィールド)の限界を暗示してしまっている,とまでは言わないまでも,アカデミーが今後において研究の対象とすべき未踏な領域はいまだ広く,未経験の調査や方法はいまだ多く残されてあることを示しているようにも思える.

    (05)
    以降はネタバレになってしまうのかもしれない.
    最後の記述で,「楽な」また「楽にする」という「楽」という審級がやや唐突に示され,私ではなく「あなた」へとここまで論じられてきた問題が差し向けられる.
    その少し前段では,芸術的に「美しいもの」という,そこまで巧妙に避けられていた,美の審級も現れている.
    それら,(おそらく,「ままならさ」にともなう苦の中にあると考えられる)「楽」や,「美」に来歴はあるのだろうか?
    偏執的な深読みをしなければ,サブタイトルの「育てること」は,主に,第7章と第8章に振り分けられる.第7章は,植物やその環境に築かれる関係を「育てる」問題を扱った章であり,第8章は,学問や実務におけるランドスケープ(アーキテクト)教育を論じている側面もある.そこでは,人や組織やプロジェクトを「育てる」なかでのランドスケープ的な思考が説かれ,大学の教養と研究それぞれの環境における個々の育ちを表した最終の図式には,おそらく植物を,あるいは樹木を育てることをアナロジーとして用いている.
    古代中国において園芸は社会との比較て論じられ,近代西欧において植林や造林は,やはり社会や資本との類比を認められていた.植物の育成や管理をめぐるこうした一連の隠喩は,経済的な言い回しや芸術的なレトリックと結ばれる言葉の戯れとして,群をなす傾向があるのかもしれない.思考としてのランドスケープは,それらの名残あるいは再考として楽(と苦)や美の問題に収斂していくのであろうか.それともそれら周辺の諸問題に拡散していくのであろうか.
    本書は,また,倫理的には,良心の書であるようにも感じる.なぜそのように感じるのであろうか.
    ひとつの理由として,楽や美と親和性のある価値に善や良があるからかもしれない.本書には,悪あるいは悪意が感じられない.昨今の書物を見渡せば,科学や技術の記述には,善悪の判断や倫理的価値が挟まれないために,悪意すらも消えてしまうのだ,とも言い切れない.
    本書において,良し悪しの価値判断の手前(またはその先)で,価値判断は,いわば「調停」されている.つまり,対象となるランドスケープや風景に良し悪しがあるわけではなく,その価値どうしの互いに排他的な判断こそが悪意なのであって,良心とは,そこに滑り込み,何かをセーフ(セーブ?)しながら,割って入る「調停」そのものであると考えることはできないだろうか.
    ランドスケープの(思考の)人である著者が試みているであろう良心を,本書に読んでみたいのは,確かに読者の勝手な感慨なのかもしれない.
    冒頭の奇妙な写真,その中央には舗装された道路が配されてあったが,こうして読むとき,それはどこへかは分からないけれどもどこかへと通じているよりよき道であるようにも見える.その道は,その先,どこへいってもままならない植物や地形や風光にともなわれているだろう,だとしても.

  • 独特のクドさがある。なにかと遠回りをする。
    ずいぶん読み進めたはずなのにやっと来たのはまだここか!と驚くほどような、しかしその道中にこそ楽しみがあるような、ところがある。
    短く書かれた文章を「接木」して書かれた章もあるように感じるが、この根っこから来てこの花か!と驚くほと遠くまで来てしまうようなところがある。
    途方もないと思える迂回と、ありえないと思える接木とで、地を這いながら、海の魚、空の鳥のまなざしを一挙に得る。これは著者のいう、地理学的視点と生態学的視点(p,242)をあわせもつ、ランドスケープアーキテクトの語りということになるのだろうか。

  • 石川さんの講演を4年ほど前にきいたときは、その面白さに感動したもの。
    ツイッターも、だじゃればかりでユーモアマンだと思っていたが、本書はわりとまじめな論考だった(扱うテーマや切り口に突飛さはあるが、かえってそれも緻密に狙っているような感じられる)。

    まちをみるにも、いろんな「スケール」があるということを、思い知った。
    加えて、土木というもののスケール感が、まちとの関係、地形(地図)との関係の中でどうなのか、といった論点は面白い。

    また、こういう、都市解析的な話はけっこう自分は好きだし、人文科学的な、研究とか分筆とかは将来携わってみたいなとも思った。

    あと、本の紹介本的な雰囲気もまぁよかった。
    ・若林幹夫『地図の想像力』(河出文庫)
    ・かとうちあき『野宿入門』
    ・宮本常一ら『調査されるという迷惑』
    といったあたりは読んでみたい

  • 地上学という耳慣れない学問の本。ランドスケープをとっかかりに、フィールドサーベイ、テクノロジー、メガストラクチャー、ジオグラフィー、作庭、防災、公園、農耕、土着的土木工事など、多岐にわたる筆者独自の思考が面白い。

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