- Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
- / ISBN・EAN: 9784864880138
作品紹介・あらすじ
被差別芸能者の禁足地(アジール)に重なる流離の足跡を追って、日本演劇史の劇的な光景、鎌倉・南北朝・室町という激動の時代を生きた民衆の共同幻想、そして、死後に誕生したとも言える「実像」を浮き彫りにする。図版31点書き下ろし。
感想・レビュー・書評
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<民衆の想像力の源泉を探る>
篠田正浩という一世を風靡した映画監督がこんなに凄い評論をものする評論家でもあったとは!
この本は、民衆の想像力の破天荒で荒唐無稽な豊穣さと、現代日本人の根底に脈々と流れる想像力の源泉が、実は「浄瑠璃」にあることを教えてくれる。
浄瑠璃を知らずして、我々の想像力の可能性も限界も探ることは出来ないのだ。
しかし、なぜ「路上」の義経なのか?
それは九郎義経が兄頼朝に追われ、京都から平泉までの逃避行した「路上」を示すと共に、義経の物語を作り語り広めた人々が「路上」に生活する者たちだったからだ。
想像力の源泉は「路上」にこそあったのだ。
それが本書のタイトルの意味だ。
義経を描いた史実は実に素っ気ない。
それは、彼が敗者であったのであるから仕方がないことだ。
史実を作り上げるのは、常に勝者なのだから。
素っ気なく、少ない上に、牛若時代と、京を追われ地下に潜む時代の史実は明らかになっていない
その史実の欠落こそが、人々の想像力を激しく刺激し、「常盤(母親)-牛若」というキリスト教の「マリア-イエス」に匹敵する母子物語を日本に成立させたのだ。
そして、義経神話は巨大なうねりとなり、日本中を巻き込んで席巻し、日本芸能の源流となっていく。
何という壮大で、魅力的な流れだろう。
義経を支持する「判官贔屓」という日本人の心性は、虐げられた下層民の鬱屈したルサンチマンの作り出したものだ。
義経という敗残者に自らを重ね、自らのルサンチマンの発散を図った熊野比丘尼、盲目の瞽女、琵琶法師、証文坊たちは、義経のレクイエムを語り、義経の怨霊を慰謝した。
これこそ、折口信夫の言う「芸能の発生」のメカニズムだ。
歌(和泉式部)〜物語(判官物語)〜演劇(人形浄瑠璃、歌舞伎)へと言う芸能の展開を義経神話から探る、日本芸能史
芸能とは、ルサンチマンの物語を、民衆が理解できる形に演出してみせ、また、反対に民衆のパワーを導入することで発展していくものだ。
映画監督として、物語りを紡ぐことを仕事とした篠田正浩だからこそ、初めて解明できた境位だと言える。
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日本人の『判官贔屓』がどのように醸成され伝播して行ったのかを遊行僧や傀儡と言われる人々から歌舞伎や浄瑠璃と言った芸能まで幅広い視点から探る本でした。
『平家物語』、『吾妻鏡』と言った古典での取り上げられ方の違いも分かりやすく、読み応えがありました。 -
日本史のスーパースター、源義経にまつわる伝承の多くは、資料的には明らかではない。平家物語、吾妻鏡など、代表的な資料でも相互に食い違うところは多々あるし、異本や異説を取りあげれば伝承のバリエーションは数限りない。
篠田監督は判官びいきという key word を手掛かりに大胆にその迷路に分け入り、義経と同じく安住の地を持たずに流浪する遊芸の世界に生きた人々の心根に根差した喜怒哀楽、希望、憧憬等々が義経伝説となって結晶したのだろうと解き明かす。
もちろん異論はあるだろう。しかしながら、すっきりとした話の筋の展開で飽きさせず、しかも能や歌舞伎、浄瑠璃等のプロットを援用した説得力豊かな語り口は、さすがは偉大な映画監督の作にふさわしい。
議論百出は篠田監督のかつての映画と同じく、大歓迎であるように拝察した。