- Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
- / ISBN・EAN: 9784864880787
感想・レビュー・書評
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おもしろいフフフ
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久しぶりの町田さん。
読んで心地よく、軽いようでいて深い。 -
やはり大好きです。再確認。
旅の退屈本の退屈でのオチとか、ちょと昔の文豪について語る章、芥川のやばみなんかは秀逸、の流れから河内音頭や清志郎なんかもってくるあたり、犬と猫の安定感…
作家なのだから一般人とかけはなれた思考や生活であるのだろうと思いきや、その近しいところ、離れたところと絶妙なバランスでもってくる。
まぁ金がないというのは信じないけどね。 -
新刊が出れば必ず買うのが町田康さんの著作。
もう十数年来のファン、というか私淑しています。
函館時代に道新記者のWくんから勧められ、「くっすん大黒」を読んでぶっ飛びました。
思念が生のまま溢れて来るような言葉の奔流にどこまでもどこまでも流され現在に至ります。
嫌いな人は大っ嫌い、好きな人にはたまらない。
それが町田康さんという作家。
骨の髄までパンクです。
というわけで本書は町田さんが各媒体に発表した随筆・随想をまとめた、いわゆるところのエッセー集。
まあ、笑いましたわ。
腹がよじれましたわ。
でも、ただ、おかしいだけじゃない。
「なるほど、そうか!」と思わず膝を打つエッセーもたくさんありました。
私が特に気に入ったのは、「心の浪曲」というエッセー。
というのも私も浪曲が好きで、CDを何枚も持っていてたまに聴くからです。
相変わらずユーモラスな文章ですが、「伝統とは何か」についても深く考えさせられます。
というわけで、「心の浪曲」を1編丸ごとご覧に入れましょう。
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だんだんに歳をとってくると、物事に感じ入る、心が動く、感動する、ということが少なくなってくる。なぜかというと、歳をとるということは歳の分だけ賢くなるということで、いろんなものをみて、ああ、こういうことか。とその成り立ちや理由をわかってしまう、理解できてしまうからである。
なので、若い時分にカッコいいと思って崇拝していたロックミュージシャンなどにも、もしかしたらこいつはアホかも知れぬ。と、正しい判断を下すことができるようになってしまう。悲しいことである。
できうることなら昔のように訳もなく感動し、無闇に昂奮したり、嗚咽号泣したり、悶絶昏倒したりしたい。どこかにそういうものがないだろうか。いや、ないだろうなあ。愁嘆なことだ。死のうかな。
と考えて死ぬのはしかし早計である。なぜなら世の中には浪曲があるからで、どういう訳か、浪曲を聴くと感動する。心が動く。涙がこぼれる。
なぜこのように心が動くのか。それは浪曲という芸能が私たちの心の奥に長いこと保存されていたあるものであるからである。
人間にはそれぞれの人生があり歴史があるので一概には言えないが、そのことに関してはそれぞれの世代がそれぞれの歴史的認識を有しており、例えば昭和三十七年生まれの私などは、かつて浪曲が私たちの心のなかで大きな位置を占めていた、ということを知識として知っていた。そしてそれを自らの意志で心の外に廃棄した、と認識していたのである。なので心に浪曲がないことをなんとも思わなかったし、廃棄したのはそれが不要になったからだと疑うことなく信じていた。
私たちより上の世代は浪曲を廃棄しなければならなかった本当の理由を知っていた。それは当時、私たちが私たちの心には、新しい別のものを置くべきだ、と考えたからである。
新しい別のものは、新しい分、とても優れているようにみえたし、実際、見栄えもよかった。ならば、新しい別のものを置き、いままであったものを置いておけばよかったのだけれども、新しいものと並べてみるとこれまであったものはいかにも古くさく、こんなものを心の中心に置いていたのが恥ずかしく思えた。
また、スペースの問題もあった。私たちの心は古いものと新しいものを並べておくほど広くなかった。そう私たちの心は狭かったのである。
なので私たちは古い、これまであったものを私たちの心の外に棄てることにしたのである。
しかし、仮にも心の中心に置いていたものを新しいものが来たからといって弊履のごとくに捨て去るのは心苦しいし、それよりなにより、これまであったものが古くさく、劣ったものとはどうしても思えない人たちが少なからずいた。
その人たちがこれを自らの責任において心の一角に保存したのである。
そして時代が過ぎ、かつて新しかったものが古くなってきた。表面的な塗料が剥げ、地肌がみえたその姿はいかにも安っぽく見苦しかった。
こんなものを心の中心においておくのは惨めだ、とみなが思ったが、また別の新しいものがやってくる気配はなかった。というか、新しいもの=素晴らしいもの、というのが幻想であったことを私たちは知ってしまった。
困じ果てているとき、かつて私たちの心の中心にあり、その後、私たちの心の奥に保管されていたものがあることに気がつく人たちが出てきた。
その人たちは心の一角に足を運び、かつて私たちの心の中心にあったものに触れた。
年月を経て保存してきた人の情熱と、年月を経てなお古びず圧倒的な迫力に溢れた存在が足を運んだ人たちの心を大きく動かした。
以上が浪曲を聴いて感動するその大体のわけである。
そんなものがかつて私たちの心の中心にあったことすら知らない、私より下の世代は感動しつつ、「なぜ、あなたたちはこんなよいものを廃棄しようとしたのですか」と、半ば驚き、半ば呆れて言う。
かくして、平成二十三年十二月三日、私たちは国立文楽劇場に寄り集い至芸に酔う。
そのとき浪曲は新しいものを包含して私たちの日本人の心のど真ん中にあるのである。
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痺れる。