- Amazon.co.jp ・本 (48ページ)
- / ISBN・EAN: 9784865011074
感想・レビュー・書評
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ほぼ日で連載が始まったので、積読していることを思い出して取り出しました。第二刷。確かほぼ日で販売された時にすぐ買ったので、予想以上の売れ行きだったのだろう。しかし絵本を積読って自分、よっぽどだなー。
死を「始まり」と捉えることに目新しさはないけれども、なんとなく腑に落ちました。松本大洋氏の絵にも特に執着はなかったけれど良かった。逆上がりをしているところが気に入りました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
きょうせんせいが いつもとちがうこえでいった。
「かないくんが亡くなりました」
いきてれば みんなといっしょだけど しんだらひとりぼっち
幼いころのクラスメートの死。
これは”私”の祖父が創作途中の絵本のお話し。
「死を重々しく考えたくない、軽々しくも考えたくない」
「この絵本をどのように終わればいいのか分からない」
人は死んだらどうなるの、命がなくなるってどういうことなの。分からない故に死を恐れもするし、生に固執することもある。死んで向こう側にある人は何も感じないし何も伝えられない。自分では決して経験できない死を考え、案じるのはこちら側の人だけ。
絵本を書き終えぬままホスピスに入る祖父。
「金井君の絵本、まだ書き終えていないのに」という”私”の言葉に、「死んだら終わりまで描ける」と囁く祖父。
とても根源的な命題に、絵本を読んだ子供たちはどのように感じるのだろうか。
向こうの世界で金井君と絵本のラストを描いている? -
私にとって初めての身内の死は小学4年のころの父方の祖父でしたが、正直、あまり記憶にありません。ただ、父親が目を真っ赤にしていたのが強く印象に残っています。なんてことを思い出したのは、こちらを手に取ったから。
“Gunosy”で知った一冊となります。糸井重里さん・プロデュース、谷川俊太郎さん・文、松本大洋さん・絵と、なんとも豪華なコラボで、ある日突然に“友達がいなくなる”、そんな始まりの物語です。
“終わったのではなく、始まったんだと思った。”
日本人にとっての「死生観」に一つの答えを与えてくれているのかなと、感じました。
「死」とはなんなのだろうと、そして「死」と向き合うとはどういうことなのかと、久々に意識することになりました。世代を飛び越えて“伝えていく想い”、そんな見方もあるのかなと、なんとなく。
淡々とした言葉の積み重ねと、淡い色合いの絵のマッチングが何とも印象的で、そしてなにより、雪と桜の対比は、日本人の心奥にスルっと入ってくるのではないでしょうか。息子が手にとるかどうかはわかりませんが、しばらくリビングにおいておこうと思います。
谷川さんがやさしく紡ぎだしている言葉と、松本さんの静謐な絵が、なんとも静かに染み入ってくるな、そんな風に感じた絵本です。 -
谷川俊太郎さんの文章に、Sunnyの松本大洋さんの絵。
淡々と、「しんゆうじゃない、ふつうのともだち」のかないくんについて語られ、途中でさらっと新たなシークエンスになるんだけど、それまでも、それからも、とても静かなのにページを捲る度にドキッとした。
差し色の赤が効いている。
本の、絵なのに、何故かアニメーションのようなリアリティをもって、それでいてどこか幻想的に、松本大洋さんの絵が心に迫る。
とても不思議な感覚。
ほぼ日。 -
今や、老詩人の谷川俊太郎とちょっと行け照枝の、松本大洋のコラボです。糸井重里のプロデュースというところが、まあ、出来すぎというか、ちょっと、小憎らしいのですが、よくできていますね(笑)。
ブログにあれこれ書きました。覗いてみてください。
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202204300000/ -
人の命の終わりを大切に見送るときもあれば、事実としてただ通り過ぎていくこともある。
親しみ深い人が亡くなった時に、終わりではなく、はじまりを感じられるだろうかと思った。 -
泣きそうになった。
これは多くの人に読んでほしい絵本。 -
「「いる」じゃん」が結構残念な仕上がりだったので、本作もあまり期待せずに手に取ったのだけど、谷川俊太郎が偉いのかほぼ日が偉いのかわからないけど心に残るもののある作品だった!
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時々死ぬのが怖くないという人がいる。
死ぬのは生まれる前の状態に戻ることだから、あるいは死んで何にも煩わされることない状態に戻ればせいせいするからと彼らは主張する。
そのたび疑問を抱く。
私達が死に怯えるのは、その生まれる前の状態を覚えてないからでは?「何もない」状態を知覚し、経験するのが不可能だからでは?
死んであーさっぱり楽になった、と思う自己がその時点で消滅してれば幸せも不幸せも何もない。それは究極の虚無だ。
そして自意識のかたまりの私たちは、絶対に無を自覚できない矛盾を抱えている。
死ぬのは怖い。だがそれ以上に怖いのは無くなることだ。こうして考え感じている自分がいなくなることだ。
子供の頃かないくんという同級生がいた。彼は死んだ。死は日常と地続きの非日常で、それを強く感じるのはむしろ遺された側、生き続ける側だ。それまで居た筈の人がいなくなったことで生まれる穴、空白。
この絵本は哲学的に死と向き合っている。視点はあくまで静的で、寂寥をこえた達観じみたものすら漂っている。
終盤で語り手の正体が明かされる構成は到叙ものミステリーも彷彿とさせるが、私は既にして高齢で、晩年にさしかかった谷川俊太郎自身に想いを馳せた。 -
親友と言うほどじゃないけど友達が死んだ。
死んだ時は同級生も泣いてたけど、そのうちだんだん話題にならなくなった。
死んだらどうなるの?終わるの?
絵本なんだけど、大人が読んでも考えさせられる。 -
「はじまった」と思った。
なんだろう。じいちゃんから受け取ったものを、今度は私が引き継ぐんだと、自覚したということだろうか。
久しく会っていなくても、「私の知らぬところで元気にやっているであろう知人」が、「亡くなった」ということを聞いただけで、心の中にぽっかり穴が開いたような気分になる。
それはきっと、その人が、今の私という存在の一部であるからだと、思う。それが少し、はがされてしまったというか、そのピースが失われてしまったというか。でもその一部は、全てではなくって、亡くなった後でさえ、私に訴えかけてくれる何かが残ることもある。言葉であったり、私が目にした部分の、その人の記憶であったり。
それが何であれ私は、私の一部として私と共にいてくれたその人の存在を、慈しみたいと思うのです。あまりそれが、良いとは呼べないような記憶であったとしても、私が今ここにいるということを、どんな形であれ肯定していた一部であることには、変りがないと思うのです。
無傷ではたどり着けなかった今を、それでもここにしがみついている自分を、「私の側」として見守ってくれている一部に変わりがないというか、ね。
その一部がぽっかりとなくなってしまった。
それは私も、そのなくなった部分に引っ張られ、少し死んだ、ということになるだろうか。
生きている状態にあることと、死んだ状態になること。そういう意味ではやはり、あいまいなものなんだと、思う。 -
大人向け。好き、というわけでもないのに、また読みたくなる。
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不安から少しの安心へ
心が広がり気持ちがちょっとほどける -
優しい本文と柔らかなタッチの絵がマッチしていました。
穏やかな世界観でした。 -
谷川氏の文章と松本氏の絵がお互いに響きあっていて深みを増している絵本です。悲しいけど悲しくない。
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ぶつ切りの感情をそのまま形にしますね。谷川さんも、松本さんも。でもオフビート。そのまま限定しない絵と言葉に、素晴らしい隙がある。
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最近5歳の息子に聞かれる。
「年取ったら古くなって、死んじゃう?」
「年取って死んじゃう人もいるし、若いときに死んじゃう人もいるよ。」と答える。
「死んだらどうなる?」
「体が動かなくなるよ。」
「その後は?」
「焼かれて骨になるよ。その後のことはお母さんにも分からない。でも、もしあなたが死んだら、お母さんはすごく悲しい。」
人は必ず死ぬのに、死についてはわからないことだらけだ。
"死を重々しく考えたくない、かと言って軽々しく考えたくもない。"
私のおじいちゃんが死ぬ前の日、夜お母さんがお見舞いに行ったら、おじいちゃんの呼吸の仕方がいつもと違ってたって言ってた。
それを聞いて、そろそろかな、って思った。
次の日、おじいちゃんは亡くなった。「終わった。」とは思わなかった。おじいちゃん、最後まで頑張ってたから。
"終わったのではなく、始まったんだと思った。"
おじいちゃんが死んだその日から、おじいちゃんがここにいない、私の世界が始まった。
私は、まだ生きてる。