ラインズ 線の文化史

制作 : 工藤 晋 
  • 左右社
3.76
  • (7)
  • (9)
  • (6)
  • (2)
  • (1)
本棚登録 : 241
レビュー : 9
  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784865281019

作品紹介・あらすじ

人類学とは、人間がこの世界で生きてゆくことの条件や可能性を問う学問である! マリノフスキーからレヴィ=ストロースへと連なる、未開の地を探索する旧来の人類学のイメージを塗り替え、世界的な注目を集める人類学者インゴルドの代表作、待望の邦訳!
文字の記述、音楽の棋譜、道路の往来、織物、樹形図、人生…
人間世界に遍在する〈線〉という意外な着眼から、まったく新鮮な世界が開ける。知的興奮に満ちた驚きの人類学!
管啓次郎解説・工藤晋訳(原著LINES a brief history, Routledge, 2007)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
  • 楽しく、発見に満ちた本であると思う。

    線の文化史ということだが、多種多様なラインが紹介されている。
    地図のライン、建築のライン、物語のストーリーライン、裁縫のライン、旋律のラインなどなど。

    洋の東西を問わずに並べられていくが、
    手振り身振りそのものであるラインとそれらの記録であり、
    身振りを呼び出すための設計図は意識的に区分される。

    ただ、これは理念的な区分であって、
    同時に双方のものであることはふつうに起こりうる。
    むしろ、これらが移ろうからこそ、記述そのものにも意味がある。
    (それにしても、この著者はそういう操作概念をためらいなく2項で作るが
    どれもMECEなものとはかけ離れていて、いっそすがすがしい)

    また、線の話をしながら立ち現れていく面の話は
    人がそれらを「扱う」ということの可能性そのものなのだと思う。
    線のままではおそらく人は触れることもままならない。

    多くのストーリーラインが混線している現代にあって
    それが刺々しい突起を持つのは避けられないかもしれない。
    しかしラインは終わらない。伸びていく。
    その先にゆるやかな広場を持てますように。


    >>
    筋を追うことは、地図をもって後悔することに似ている。しかし地図からは記憶が消し去られている。旅人たちの旅の記録と彼らが持ち帰った知識がなかったら、地図をつくることは不可能だったであろう。ところが出来上がった地図自体は彼らの旅の証言を留めていない。(p.52)
    <<

    これ自体は正しい。そして貧しさをイメージさせるところはあるが、むしろ読み手の旅への余白を残してくれたと見ることもできる。地図を見て脳内旅行など誰しもしたことはあるだろう。

    >>
    オロチョン族にとって、生が終わるべきものではないように、物語も終わるべきものではない。物語は、鞍に乗った人とトナカイが一体となって森を貫く道を縫うように進む限り、続いていく。(p.146)
    <<

    他にも物語に終わりはないのだという部族のあり方はいくつか例があるが、
    この点はギリシャ哲学が、特異なものとして思想史に存在する理由でもあるだろう。

  • 歴史

  • 音楽は言語芸術として理解されていた。

    記述そのものの理解の仕方の変化、すなわち手を使う刻印行為から言葉を組み立てるわざへの変化

    ※記述・・「世界」の中に、「痕跡」を記す行為。無文節的でしかない【世界】の中で、自分が見た/見られた、そうした「世界」の体験を、刻印する行為。その人間の身体を通じての「世界」との関わりの痕跡。

    記述がその元の意味である刻印行為として理解される限り、線描と記述、あるいは製図工の技と、写本筆写者とのいあだに絶対的な区別はない

    発話と歌が分離した経緯は、現代に置いて記述と線描とが分離し、技術と芸術という二項対立を生んだことと同様 →「具体」と「抽象」という言い換えができると思う。本来の「記述」は、この「具体」と「抽象」の間で「刻印」されることで成立していたんだろうと思う。パロール、エクリチュール、シニフィアン、シニフィエの議論と同様


    あらゆるモノは、ラインがが集ったものである

    歌とは、人が偉大なる力によって心を動かされたときに呼吸とともにつむぎだされる思考なのだ、私たちに必要なことばがことば自体としてほとばしるとき、新しい歌が生まれる

    純正な音楽とは本質的に言語芸術だった。音楽から言葉を引き抜いてしまえば、音楽はただの装飾か伴奏になってしまう

    歌の音楽的本質がその構成要素である言葉の響きにあったとすれば、書かれた言葉もまた書かれた音楽の一形式であったはずだ

    言葉の記述は音楽の記譜法とはかなり違ったものにみえる。しかしすぐあとで明らかになるように、どこに両者の違いがあるのかを正確に指摘するのは容易いことではない。

    記譜法の歴史ではないような記述の歴史はあり得ない。

    記述物の読解は認識作用、テキストに取り込まれた意味を取り込む。一方、音楽を読む行為は演奏、楽譜に書き込まれた指示を実行にうつす。

    記述物が演劇の上演のために書かれるとき、それは楽譜への変貌の途上にあるということ

    詩人が話される言葉の響きを使用して意図を実現しようとする場合、その詩は言語よりも音楽に近い。しかしあくまで言葉の構成物にとどまっている詩は、音楽よりも言語に近い。このように詩的テクストは、記述物でありながら、楽譜である。あるいは純粋にはどちらでもない。

    構築された制作物としての作品という観念自体、18世紀にあらわれた作曲、演奏、記譜の概念に由来しており、音楽が自律的な芸術として識別されるようになったのと同じこと

    音楽作品は、演奏に先立つ作曲においてではなく、その都度の演奏という行為において存在すると理解されていた。すべての演奏はあらかじめ記譜に示された子細な指示に従うべきという考えはなかった

    音楽と言語がこのように厳格に分けて扱われると、それらの境界線上に必ずあいまいな事例があらわれる

    近代において、音楽が言語的要素を拭い去り、言語が音声的要素をぬぐいさって純化された
    →本来的な記述においては、おそらく、この言語と音楽との絡まり合いに「伝達」されるべきものがあった

    読者は聖書の記述が語る声を聞き、そこから学ぶねきことが求められていた

    もし記述が語るとするならば、そして人々が彼らの耳でそれらを読むとすれば

    記述が語るものであるとするならば、読むことは聴くことである。読む-忠告や助言を与える。

    ★読むことは、一種のパフォーマンスであった。声に出して読むことであった。

    →臨書は、一回性のパフォーマンスともいえる。その記述に内在する「声」に、身を浸すこと、そこから「ロゴス」を聞きとること

    身体的実践と知的了解とは、摂食と消化のように分かちがたく結びついている

    もし記述が語るとするならば、それは過去の声で語るのであり、読者はまるでその声たちのさなかに居合わせているかのようにそれらの声を聞き取るのだ

    言われたり為されたりしたことの完全で客観的な報告をおこない、過去を孤立させることではない。過去の声たちが復活し、生き生きとした現在の経験のなかに再び連れ戻されるような経路を用意すること。その経路によって、読者はそれらの声との対話に直接参加しそれらの声が言わんとするメッセージをそれらの声が活きている世界へ結びつける

    ★つまり記述は記録として読まれるものではなく、復元の方法であったのだ。
    →つまり、記述(記録)それ自体では、記述物に刻印されているものは、現前しない。その復元の方法が、今問われているということだと思う。その一つが、「演奏」であり、臨書であろう。あくまで、記録物それ自体は、「指標」というか、そういうものに過ぎない。


    ★古代と中世の読者は徒歩旅行者であって、航海士ではない。彼らは、ページ上の記述をすでに組み立てられ自己完結したプロットを表したものであるとは解釈しなかった。記憶の地形のなかで彼らの行く道を教えてくれる一連の道しるべ、方向表示、飛び石だと考えていた。このような道の導き-場所から場所へと導かれる流れ-をさすものとして、中世の読者は<運び>という用語を用いた。文章を貫く道の途上において思考する精神をともに導くもの

    ★【運び】が言わんとするところは運動、すなわち文章を貫く道の途上において思考する精神をともに導くもの

    ★読むことにおいて、ひとは物語を語る事、旅することと同じように、前進しながら何かを記憶する。つまり、記憶という行為はそれ自体が一種のパフォーマンスとして考えられていた。テキストは読むことによって、記憶され、物語は語ることによって記憶され、旅は実行することにより、記憶される。あらゆるテキスト、物語、旅は見いだされた対象ではなく、踏破される行程である。そして、一つひとつの行程が同じ土地をめぐるものであったとしても、それらはみな他とは異なる運動である。

    ★書かれたものが朗読において読まれ、音として経験されていたとするならば、それを楽譜とみなすべきなのだろうか。答えは否である。書かれたものは記述物でも、楽譜でもない。

    近代的思考が言語と音楽を区別するために設けた意味と音、認識と行為といった項目は、古典期や中世期の写本筆者の書いたものにあっては全く対立していない。


    読む行為とは、実行に写すと同時に、取り込むこと

    テキストを読むものは、牛が動かして食べたものを反芻うするかのごとく、言葉をつぶやきながら、記憶の中でテキストを繰り返すようにと。反芻的に熟考するべき。

    言葉の記述と音楽の記譜とを分離する理由がなかった

    現代の読者にとってテキストは白いページの上に印刷されたものとして出現するが、それはまさに世界が既成の完成された刊行地図の表面に印刷されたものとしてあらわれるようなもの

    ページの表面は、足跡や道しるべを辿ってある土地を旅するように、文字や言葉を辿ることでその地理を把握すること。

    地図はそれを生み出したすべての実地踏査の軌跡を消去し、地図の構造が世界の構造に直結しているような印象をもたらす。しかし、地図に再現される世界は住民不在の世界である。誰もおらず、何物も動かず、いかなる物音もしない。刊行地図から人々の度が消去されているのと同様に、印刷されたテキストからは、過去の声が消しとられている。

    ▼本来の地図やテキストというのは、誰かによって形作られ、その人が生において確かに実感された、身体によって確認された【世界】、その解釈、足跡、歩んだ道である。本来、人間は<現世界>というべき、無文節的世界に住むことはできない。身体を通じ、関り、その人間の独自の解釈においてのみ成立する「世界」にしか住むことはできない。そして、その「世界」に住むには、誰かの残した地図やテキストといった<世界>の痕跡に、その都度の自らの<運び>を見出していくという、そのことしかないのではないか。そういう風にしてしか、つまり誰かの残した【軌跡】と絡まり合うことでしか、自らの<世界>というのは、実感されえないのではないか。つまり、自分の世界の増幅、運ばれには、<他者の残した世界>、つまり、すでに他者がその身体に置いて把握し、解釈した<世界>に、自らの新たな<世界>を見出すということ、そして、その世界に内在する「いのち」を、引っ張り、伸ばし、引き継いでいくということが必要なのではないか。これをもう少し解釈すれば、このような<運び>の契機となるもの、その機会が、<アート>だということになる。つまり、何か<運び>となるか、どの【いのち】や<世界>を、その人は引き継いでいくかが、個々人によって違うわけだから、客体としての<アート>というのは存在しない。個々にとって、<運び>となる、そういう場所、もの、記述物があるだけだ。その意味で、アートというのは本来は徹底して主観に依拠するものだと思う。<その人にとってアートに成る>、そういうものしかないし、もう少し拡大すれば、ある個人の人生や記述物も、誰かの生命にとっての【運び】となれば良いのだということ。

    ▼そして、個人の生命活動、創造活動が真に独自的である所以は、個人の生命が接続する個々の記述物が、誰一人として、同じような組み合わせを見せないからである。つまり、その人間の<生命>を引き延ばし、道を紡いでいくために関わってきたそれぞれの他者の記述物が、まったく意図せぬ形で、それぞれ結びつき、その個人のいのちを運び、その人独自の<記述>の形態を形づくっていく。そのコンビネーション、そしてその連結における全く予期しなかった結びつき、その結果編み出された独自の「記述」の形式。そしてその「形式」によって記述されたものに、おそらく<生命>は宿るのであろう。なぜなら、その「記述」の形式が生まれ出たその出自にはまぎれもなく<生命>の通過が確認されるからだ。その人自身、その人独自の<人生>、その人と世界との関わりにおいてしか、<生命>などありはなしない。そうした意味ではその人間にとっての独自の「記述」を編み出していく、見出していくということが、<人生>なのだといえるのかもしれない。創造というのは、こうした意味で、<連結>や<コンビネーション>であるといえるのだが、重要なことは、その連結やコンビネーションを統制し、結び付けているものが<生命>であることだと思う。

    ▼テキストというのは、それ自体において、何かを意味し、指示し、明示しているものではない、つまりそれはいつでも<誰かに読まれることを望んでいるもの>なのである。つまり静止や完結など全くしていない。言い換えればそれは<世界によって書かれた言葉>でありながら、<世界が書かれた言葉>であると言えるのであろう。<世界が書かれた言葉>は読むものは、その言葉を通じて自らの<世界>を見出していく。

    ▼私という存在は、誰かが世界に残した痕跡・記憶を、ある意味では<内面化>して、それをあたかも自分の延長にあるものとして、自分の<物語>の一部として、自分の<一部>として、身体の<延長>にあるものとして、引き継いで、そうして生命活動を継続させて生きていく存在なのだろう。だから、<わたし>というのは、この身体、それ自体のことではない。この身体の中を流れる生命、その生命がその都度の<現出=運び>において必要とするどこかの・だれかの・いつかの<世界・痕跡>との関わり合い、そしてその関わりの総体をして、<わたし>というのだろう。

    ▼臨書というのは、その意味で、誰かののこした【世界】をなぞりつつ、そこに潜伏する自らの「運ばれ」を、その都度見出していくということなのだろう。だから、全員の臨書をやることが大事なのではない。その臨書の過程で、<運ばれ>や<ざらつき>を見出して、実感していく、そして<わたし>を見つけていくことが大事。




    ▼誰かの残した「世界」の痕跡(=場所)、身体を通じて世界との関り、そこから紡ぎ出されたもの=記述に、自らの生の流れを見出し、接続するということ。他者としての、<運び>、生命の連関を見出すということ。

    印刷されたテキストは、苦労してそれを生み出した人々の活動の痕跡を残しておらず、あらかじめ組み立てられた制作物としてあらわれる



    ★つまり、表面は、そこを通って進む領域のようなものから、それを眺めるスクリーンのようなものへの変化し、その上に他の世界からやってくるイメージが投影されるということになった。
    →身体で読んでないということかな。文字と関わるということは、自分自身の潜在他者=意識との接触、その現出を試みる行為であったのだと思う。それはいうなれば、もう後戻りはできない、<生命の運ばれ>、つまり未知や旅へと、自らを追いやっていくということ。

    記述とは、少なくとも、手仕事であり、写本筆者の技である。

    ページに刻み込まれたラインは、文字、ネウマ、句読点ないし記号のいずれであり、手の巧みな動きを目で追う事の出来る軌跡であった

    目で辿ることと、声で辿ることは同じプロセス。すなわちテキストのなかを積極的かつ注意深く進んでいくプロセス。

    書の大家-世界のリズムや運動を彼らのみぶりのうちに再生すること

    現代の学者は、言葉の組み立てについての知的苦労ばかりを強調し、過去の文字記述の前提だった純粋な身体行使を省みない



    おそらく手で書写されたラインはうねりながら、伸び続け、視覚の監視によってもの化を強制されて沈静化することを拒否していた。

    →つまり、<記述>物というのは、それ自身において、<生命>であるということだ。ある時点において記述され、固定化(されたように見える)されたものは、決してそれ自身において、完結していない。あるタイミングで、ある誰かに<読まれる>ことを、いつでも欲している。誰かの<生命>の想起へと関与することをいつでも欲している。生命は、記述され、何かしらの形で「もの」になったとしても、しかしその「もの」は決して固定的な物質ではなく、あくまで流体として機能するポテンシャルを備えている。


    言葉が書かれるのではなく、印刷されるとき、文字生産物からそれに技術的に影響を与える身体動作が断ち切られることによって、言葉をものに変わる。

    ★写本を読むことは、テキストの言葉を発音する際の声と結びついていた。手によってしるされた道をたどることである。しかし印刷されたページには、辿るべき道がない。
    →ベンヤミンの複製技術ではないけれど、大量印刷技術以前における<複製>は、純粋な形態を留めることが目的ではなかったのだと思う。重要なことは、先行するオリジナルのテキストに内包する「イメージ」を、身体的動作・身体的接触を伴いながら、個々が形態化していくことだった。そこには「解釈」が成立する。しかし印刷業における<複製>はその「外部的形態」のみを、大量に流布・氾濫させることに成功しただけで、実際的にその記述物において引き継いでいくべき<イメージ>や<ロゴス>は、一向に身体化されえない。つまり、そこでは<ミメーシス>が成立しえない。つまりすでに完成されたものを、スクリーンとして享受し、そこに自分が映るなどとは一向に考えられないようになる。現在において問題にすべきはここだと思う。既に氾濫している<文字>を、いかに身体的接触を伴いながら、自分自身の生命と関連付けていけるか。

    人は動くやいなや線になる

    徒歩旅行は絶えず動いている状態にある。歩を進めながら、道に沿って開けてくる土地と積極的にかかわる

    人は、物語や旅を記憶するのとまったく同じ方法で、テキストを記憶した。読者はコトバと言葉へと進みながら、ページの世界に住んでいたのだ
    →自分(の生命=場所)を<教えてもらう>旅

    現代の読者ははるかな高みから見下ろすように、ページを測量する

    ★グラフィックアーティストと、著述家とのあいだに強固に制度化された奇妙な対照。




























    以下引用

    どうして発話と歌とが区別されるようになったのか

    西洋では長らく音楽は言語芸術として理解されていた

    言語が沈黙した経緯は、記述そのものの理解の仕方の変化、すなわち手を使う刻印行為から言葉を組み立てる技への変化と関係がある

    ★もともとモノとは、人々が集い、人々が問題を解決するために集う場を意味していた。あらゆるモノは、ラインが集ったものである。

    紙の上にあるものとして見つめられ、じっと動かず長時間の吟味に耐えれるものとして捉えられる時、言葉がすでに音声からまったく遊離したそんざいと意味を示す

    音それ自体に神経を集中する(その背後にある意味を探ろうとしない)

    彼が書くものは文学作品であるが、しかし作曲家は音楽作品を書くのでない

    詩人が話される言葉の響きを利用して意図を実現しようとするとき、その詩は言語よりも音楽に近いものとなる

    あくまで言語の構成物にとどまっている時は、音楽よりも言語に近いまま。このように詩的テキストは、記述物であり、楽譜である

    ★★音楽-構築された製作物としての作品という観念自体、十八世紀にあらわれた。それ以前は、音楽作品は、演奏に先立つ作曲においてではなく、その都度の演奏という行為において存在すると理解されていた。すべての演奏はあらかじめ記譜に示された子細な指示に従うべきという考えはなかった

    中世の書物は、制作されたものではなく、語るもの

    聖書の記述が語る声を聴き、そこから学ぶ

    文字の音

    ネウマは音楽それ自体をあらわすというよりも、演奏を補助する注釈

    ★刊行地図から人々の旅が消去されているのと同様に、印刷されたテキストからは、過去の声が消されている
    →もともと「本」は、無数の人の「場所」が更新される「過点」であったのに

    ★表面は、今やそこを通って進む領域のようなものから、それを眺めるスクリーンになった

    ★何よりも徒歩旅行を行うことで、人間は世界に住む。
    すでにある風景や、歴史の最中である「場所」に、自分を織り込んでいくということ、自分を発見したり、運ばれていくという事

    徒歩旅行者は、世界を貫く運動の道。

    ★★進みながら知る

    ★物語りを語ることは、語りの中で過去の出来事を関係づけて語ることであり、他者が過去の生のさまざまな糸を何度も手さぐりながら自分自身の生の糸を紡ぎ出そうとするときに従う、世界を貫く一本の小道を辿りなおす事。

    ★★物語りは、道である。それは辿られるべき道筋という意味であり、それに沿うことで人は生き詰まる事もなく語り続ける

    読書を徒歩旅行に、ページの表明を人が住む風景に繰り返しなぞらえた

    ★ストーリーテラーが話題から話題へ、旅人が場所から場所へと進むように、読者は言葉から言葉へと進みながら、ページの世界にすんでいた



    場所をなづけることは、それらの場所がそれに沿っている道の旅を語りか歌によって記憶すること

    持続する流れの中での休符点。ひとつの場所から別の場所へ向う道の途中で一息つくために立ちどまる

    ★運動の道筋に沿った休止の地点であった場所
    →これを「記述」するのが、制作ということかな

    現在は、それらが今いる場所やそこにたどりついた経路とはまったく関係がない

    自分の時間を、それらの場所のあいだではなく、それらのなかで使いたいと考える現代の人

    書家が書こうとしたのは、事物のかたちや輪郭ではなく、世界のリズムや運動を再生すること

    ラインは、生命のように終わりのないもの、重要なのは終着点ではない、面白いことはすべて、道の途中で起きる

    ★★成長あるいは移動して生きる全ての生き物は、時間の中で、必ずなんらかの線=痕跡をひいている


    ★★インゴルドは、彼の発想を励ますものとして、数多くの人類学者、哲学者などの「線」を引き継ぎ、巧みに織り込んでいく


    きみだけがもつ数々の線の並びと、それぞれの線の延長を。その線が、きみのまったく知らない誰かの線とつながるとき、何かが始まる。

    特定のひな型、スタイル、理論への適合を強制することなく

    いつもの道をはずれて、外に出てみるといい。あるいは自分の習慣をよく見直して、それによって差してくる光のもとで、たとえば本の森を見直してみるといい。

    人は誰も自分一人で考える力はない。すべての思考は他の人がこれまでに試みた線を引き継ぐものだ。痕跡を見つけ、それをたどり、延長し、糸をみつけ、それを利用し、、、

    きみだけがもつ数々の線の並びと、それぞれの線の延長を。その線が、きみのまったく知らない誰かの線とつながるとき、何かが始まる。

    見つけた線を延長し、または捨てていい。そんな風にして自分の人生の線にほんとうに役立つ者を探し、また次の一歩を探ればいい。

  • 訳者自身があとあきで「要約できないし、要約すべきでない」と書いているが、線形(Liner)に喩えられるものをいろんな角度、視点の高さから捉えて語っているので、まとめようとしても「ラインズ(Lines)」としか言いようのない本だった。

    刺繍の糸、時間、散歩、旅、書道、絵画、建築等々……議論を積み上げて大きな命題を証明するというシロモノではなく、個別のディテールを言語化して編むということそのものに力点がある。

    文化人類学って、ざっくりそういうものなのか。

    売れ線の「一点突破の結論キャッチコピー」をタイトルに据えた啓発本とは対極に位置する本。一本筋は通っているが、対象はあっちこっちに飛ぶので読みにくいのは読みにくいけれど、読書体験としては豊かな感じがしないでもない。

    個人的には「樹形図またキタ!」って思った。あとは王羲之が雁の首をしなやかさに霊感を得て、筆の運びに取り入れたとか……あとはブルース・チャトウィンのソングラインとか。

    マスな社会的インパクトという視点を除けば、語るに足る対象や切り口は、いまだ溢れているなと再確認。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784865281019

  • 「線」という究極に包括的な概念を切り口に、人類の文化誌を探っていこうという試み。

    まずは、「歌うこと」、「語ること」から、それを記述する「表記法」までを取り上げて、人間が一つの歌や物語を語ることとそれを記述することが、歴史の中でどのようにして分化してきたのかを探っている。

    その中で見えてくるのは、記述自身の持つ多様な性質である。記述自身が作品として扱われる文学や絵画に対して、音楽やある種のテクスト(修道士にとってのネウマや能楽の奏者にとっての運指)は、その上を彷徨することのできるある種の風景であって、そこから物語を拾い上げ世界を紡ぎ出していくものであるといった差異である。

    人間が様々な物事を「表記」してきた中で、この差異は明示的に捉えられることは少なかったが、確かに存在していた。そして、その差異を掘り下げていくうちに、すべての記述は「ライン」によってなされており、そのラインは何らかの「表面」に記されているということ、そしてラインと表面の関係性のなかに多様な世界が広がっているという次のテーマに繋がっている。


    表記におけるラインと表面の関係の視点から様々なラインの形態を分類すると、「糸」、「軌跡」、「切れ目」など、さまざまなラインが存在する。

    人類学の真骨頂だが、筆者は世界各地の民族の事例を挙げながら、それらの様々なラインが、それが記される表面と相まって、歴史を物語ったり、迷路を形成して魔除けの力を発揮したりと、様々な役割をはたしていることを紹介している。


    一方、ラインは、「点と点をつなぐ」、「方向を指し示す」、「領域を示す」といった機能的な側面での性質も持っている。本書では、そのようなさまざまなラインの使われ方が人間の文化にどのような影響を与えたのかも分析している。

    その中で筆者は、「何かに沿って進んでいく」ラインとしての「徒歩旅行(wayfaring)」と、「何かを横断していく」連結器としてのラインである「輸送(transport)」の二つの様相に着目している。

    徒歩旅行は常に移動しており、その移動の過程である踏み跡(trail)自体が意味を成すのに対して、輸送は出発地と目的地が繋がれていて移動が完了すること自体が本質であり、その間のラインは路線(route)である。

    人類の文化史の観点からはこれら2種類の形態はどちらかが完全に先行するというものではなく、狩猟民族の中にも狩りの移動は徒歩旅行的な形態だがその獲物を保管地に運ぶ移動は輸送的な形態をとるといった共存が見られる。

    それは、現代の都市生活でも同様である。現代の都市生活では、移動自体に意味が持たせられることは少なく、目的地までのスピードが求められる。しかし、ある場所からある場所へ瞬間移動することが不可能であるのと同様に、移動の前後で我々が精神的に全く変化しないことは在りえない。つまり、すべての移動は何らかの徒歩移動の性格を含んでいる。都市空間が徒歩移動のための豊かな「表面」を提供していなかったとしても、我々はその都市空間を侵食し、様々な「踏み跡」をその上に残しながら生活をしている。


    徒歩旅行と輸送のように、「線描(drawing)」と「記述(writing)」もそれぞれが異なる性格をもちながら、我々の文化の中に共存している。

    線描が何らかの運動性を持っており作品性を持っているのに対して、記述は発話や身体動作といったものから徐々に離れて技術的な要素を強め、発話の音声を表記する必要性に基づいて行われるようになる。しかし書道のように線描と記述が絶妙なバランスをもって共存している場合も存在する。

    人間は図示によって音声や動きを描写するが、その線描は次第に簡易化され、図示の線状化が進んでいく。そのことにより元の動きや身体性は当然ながら失われていく。人間はその中心に線描による身体性を伴った表現を持ちながらそこから様々な記述法を発明しており、そのプロセスは「文字が針のように鋭く細いラインとなって繰り出す知のプロセス」へと進んでいった。

    しかし、こうしてより細く線状のラインが形成されるにしたがって、ラインそのものは元の描写が有していた有機的な関わりを失っていく。つまり、動きや流れを伴ったラインは非線状的なものとして表現され、それらを捨象したときに生まれる線状のラインは元々の動きや流れといったライン的なものを失っているという関係にある。


    これはラインの持つ大きな特徴であろう。例えば建築家がドローイングによって計画を描くにあたって、実際には直線である壁面を波打った線で描くとき、そこには壁面で区切られた領域ではない場所性が生まれる。建築家はそのような場所性を構成しながら建築の計画を練っていく。しかし、そのようなドローイングはCADの描く直線によって位置と形状を示す図面へと変換される。ただし、面白いのは、その図面はまた物質性を持った立体的な建物へと変換され、そこには身体性を持った空間が生まれ、人間が活動する。つまり、ラインは多面性を持っており、我々は生活や文化の中で可逆的にそれらの間を行き来している。

    本書も、人類学者である筆者の持つ幅広い視野と時間を自由に行き来する視点で様々なラインを辿りながらも、けっして直線的に結論にたどり着くことなく、ラインがもつ多面性を描き出している。

  • 楽譜に書かれた線と本に書かれた線(文字)との違いから始まり、線の定義、内側へ向かう記述と外側へ向かう記述、歩行者と海洋測量、技巧と芸術の分離、というような、線にまつわる著者の思想本。知を見つけては切り開き歩んでくという進化と、既にある知と知を結んでいくという学習との、根本にある違いはとても興味深い。
    全体的に、読み進める内に、序章や1章で著者の示した思想がおぼろげに分かってくる構成で、1度ではなかなか理解できなかった。

  • 【読前メモ】まずタイトルにぐっと心引かれる。「線」だなんて、そんな森羅万象あらゆるものを構成していてまた人類も太古の昔から当たり前のように扱ってきたモノで果たして文化を切り取ることができるのか。そしてそれはどんな切り口を見せてくれるのか。興味をそそられる。

全9件中 1 - 9件を表示

著者プロフィール

1948年生まれのイギリスの人類学者。1976年、ケンブリッジ大学で社会人類学の博士号を取得、1995年よりアバディーン大学にて教鞭を取る。哲学、社会学、生態心理学、芸術学、考古学、建築学など多様な領域をクロスオーバーする人類学研究を精力的に展開している。著書にThe Perception of the Environment: Essays in Livelihood, Dwelling and Skill, 2000、Lines: Brief History, 2007(邦訳『ラインズ──線の文化史』)、Being Alive: Essays on movement, knowledge and description, 2011、Making: Anthropology, Archaeology, Art and Architecture, 2013(邦訳『メイキング──人類学・考古学・芸術・建築』)、Anthropology and/as Education, 2017、Anthropology: Why It Matters, 2018など多数。

「2018年 『ライフ・オブ・ラインズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ティム・インゴルドの作品

ラインズ 線の文化史を本棚に登録しているひと

ツイートする