純化の思想家ルソー

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  • 九州大学出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (303ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784873789446

作品紹介・あらすじ

著作から思想家としてのルソー像を描く

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  • 従来矛盾し論理的明晰さを欠く思想家として解釈されることが常であったルソーを、人間と市民という両立し得ない選択肢を純粋なかたちで提示する思想家として解釈する研究。ルソーが提示する人間の理念型を人間・市民・孤独な散歩者の三つにしぼり、さらに鍵となる概念として幸福・自由・秩序・神の四つが挙げられる。人間の理念型を提示するのが『エミール』であり、ここで自然の秩序=自然法における正しい人間の姿が明快に示される。市民の理念型を提示するのが『社会契約論』であり、ここで人為の秩序=国家法・実定法における正しい人間=市民の姿が矛盾なく明晰に示される。しかし、ルソーの示す人間像はこの二つにとどまらない。最後に、こうした人間にも市民にもなれなかったルソー自身の写し絵として、「孤独な散歩者」の姿が描き出される。ここに至りルソーの思想の全体は、世界の秩序の創造者たる神の正しさを問うものとして立ち現れる。統一的ルソー像を探りだす研究として、非常に読み応えがある。ルソーに真剣に取り組むすべての人にとって有益な一冊であろう。

  • 人間と同時に市民を育成する教育

    人間と市民の二律背反⇔良心と一般意思の統一

    社会⇔自然

    万物の創造主の手で作られたばかりの時にはすべてがよい。人間の手の元ではすべてが変質する。自然の傑作は自然の破壊者である。

    自然は人間を幸福で善良なものに作ったが、社会が人間を堕落させ惨めにする

    人間は相反する二つの目標に同時に向かうことはできない。中途半端は矛盾を生み出すだけであり、人間を引き裂き、不幸にするだろう。それゆえ思いのままに捻じ曲げるとすれば、それを中途半端に終わらせず、徹底的にすべきである。それは純粋な人為の道である。自然の破壊者となるとすれば、完全に自然を破壊するべきであり、社会契約論は脱自然の道を選ぶだろう。

    法は一般意思の表明

    倫理学・・人類社会の内に生きている限りでの人間が考察される哲学の部門
    政治学・・市民としての人間

    市民・・政治的・国家的な社会から開放された経済人(私人ブルジョワ
    しかしルソーにおいては、特殊な限定された国家に服従しその国家法に従う限りでの人間、国家人

    国家人の対比は自然人、人間

    自然人は自権者でありほかの権力に服従していない限りでの人間。

    人間を作るか市民を作るかを選ばねばならない
    家庭教育か公教育か
    人間愛か祖国愛か
    ・・これらは人間をひとつにせよ、人間への依存から事物への依存へ、という同じ志向を持っている。

    人間を彼自身のために作るのが家庭教育、人間を作る、自然の教育
    ほかの人間のために作るのが公教育、市民を作る、社会の教育、プラトン国家、脱自然化

    善き社会制度は人間を最もよく脱自然化し、人間に相対的な存在を与えるためにその絶対的な存在を奪い、自我を共通の統一体の内に移しいれることのできる制度である。

    ひとつの人民に敢えて制度を与えるものは次のことができると自覚すべきである。つまりいわば人間の自然本性を変えること、自分だけでひとつの完全な単独の全体である各個人を、この個人がいわばその生命と存在をそこから受け取るひとつのより大きな全体の一部へと変容させること、強化するために人間の構造を変質させること、我々すべてが自然から受け取った身体的な独立な存在の代わりに、部分的で精神的な存在を置き換えることである。自然的な力が死に、消滅すればするほど、それだけ一層獲得された力は大きく、持続的となり、制度も一層強固で完全となる。

    人間の脱自然化=人間の自然本性を変える=人間の構造を変質させる

    公教育はもはや存在しないし、もはや存在することもできない。何故なら祖国が存在しない所に市民は存在し得ないからである。祖国と市民と言う二つの言葉は近代語から削除されねばならない

    スパルタのある婦人は五人の息子を軍隊に送り、戦いの知らせを待っていた。一人の奴隷が到着する。彼女は震えながら戦いについてたずねる。「あなたの5人の息子は戦死しました」「卑しい奴隷よ、私はあなたにそんなことを尋ねたか」「我々は勝利を得ました」母親は神殿に駆けつけ、神々に感謝を捧げる。これこそ女の市民である。

    ⇔人間よ、人間的であれ。それがあなた方の第一の義務だ。すべての身分の人に対して、すべての年齢の人に対して、人間にとって無縁でないすべてのものに対して、人間的であれ。人間愛なしにあなた方にとっていかなる知恵が存在するのか。人間を社交的にするのは人間の弱さである。我々の心を人間愛へ導くのは我々の共通の惨めさである。我々が人間でないならば、我々は人間愛に何も負うことはないだろう。すべての愛着は不足のままである。

    国家の秩序のうちで自然の感情の優位を保持することを望む者は、彼が望んでいるものを知らない。常に自分自身と矛盾し、常に彼の性向と義務との間を揺れ動き、彼は決して人間でも市民でもないだろう。彼は自分のためにも他人のためにも決して役立たないだろう。それは我々の時代の人間の一人、フランス人、イギリス人、ブルジョワだろう。それは無だろう。

    人間を全部残らず人間自身に引き渡せ

    この考察は重要であり、社会制度のすべての矛盾を解決するのに役立つ。二獣類の依存状態が存在する。ひとつは事物への依存であり、自然に基づく。ほかのひとつは人間への依存であり、社会に基づく。事物への依存はいかなる精神性も持っていないので、自由を損なわず、悪徳を生み出すこともない。人間への依存は無秩序なものなので、すべての悪徳を生みだし、これによって主人と奴隷が相互に相手を堕落させる。もし社会の内にこうした悪を防ぐ何らかの方法があるとすれば、それは人間の代わりに法を置き、すべての特殊意志の行為に優越する現実的な力を一般意思に持たせることである。若し国民の法が自然の法のように、いかなる人間の力も打ち破れない強固さを持ちうるならば、そのとき人間への依存は事物への依存に再びなるだろう。人は共和国のうちで自然状態のすべての利点を国家状態の利点と結びつけ、人間を悪徳から免れさせている自由に、人間を徳へと高める精神性を結びつけるだろう。子供を事物への依存の内にだけとどめておけ。そうすればあなた方は子供の教育の進展において自然の秩序に従ったことになる

    人間への依存が生み出す悪に対抗するために、自然状態へ後戻りするのでなく、人間の社会において事物への依存を再興しなければならない。
    この再興は人間の代わりに法を置くのが社会契約論、自然の秩序に従うのがエミール。
    人間の代わりに法を置き、すべての特殊意志の行為に優越する現実的な力を一般意思に持たせることにより、人間への依存は事物への依存に再びなる。これが社会契約論のねらい
    社会契約論は正義と功利が分離しないように、法が許すものと利益が命ずるものを結びつける事を課題とする。それは共和国のうちで自然状態のすべての利点を国家状態の利点と結びつけると言う課題である。そして人間を悪徳から免れさせている自由に、人間を徳へと高める精神性を結びつけることは、自然状態から国家状態への移行によって人間の行動に、以前にそれに欠けていた精神性を与えること、それのみが人間を真に彼の主人とする精神的自由をかのうにすることである。
    人類は万物の秩序のうちにその位置を持っている。子供期は人間の生の秩序のうちにその位置を持っている。

    ああ人間よ、君の存在を君の内部に閉じ込めよ。そうすれば君はもはや惨めでないだろう。自然が存在の鎖の中で君に指定する位置にとどまれ。何者も君をそこから抜け出させることができないだろう。

    彼は子供時代の成熟に達した。彼は子供の生を生きてきた。彼は自分の幸福を犠牲にして彼の完成を手に入れたわけではない。反対に完成と幸福は相互に一致していた。子供期の理性を獲得することによって、彼の構造が彼に許す限りにおいて、彼は幸福であり、自由であった。

    少なくとも彼は彼の子供時代を楽しんだ。われわれは自然が彼に与えたものを何も彼から失わせなかった。
    生きることと楽しむことは彼にとって同じことになるだろう。

    自然の秩序にしたがって子供を教育することは、人生のそれぞれの時期にふさわしい完成を子供に獲得させることである。これが自然の秩序のうちで位置を持つことの意味である。しかしこのことが可能となるのは消極教育においてである。

    賢明な人間は自分の位置にとどまることができる。しかし自分の位置を知らない子供はそこに自分を保持することができない。子供はそこから抜け出すための無数の出口をわれわれの元で持っている。子供をそこに引きとどめておくことが監督するもの、教育者の仕事である。その仕事はその出口を閉ざすことにある。その出口は悪徳が入り込む入り口なのである。教育こそが子供が自然の秩序のうちに位置を持つことを可能にするが、それは消極教育である。最初の教育は純粋に消極的でなければならない。それは徳や真理を教えることでなく、悪徳から心を、誤りから精神を守ることにある。

    われわれはいわば二回生まれる。一回目は存在する為に、二回目は生きる為にである。一回目は種のために、二回目は性のためである

    秩序・・身体的な/モラルな

    われわれは自然と協力して働いている。そして自然が身体的な人間を形成する間に、われわれはモラルな人間を形成しようと努力している。しかしわれわれの進行は同じではない。身体はすでに頑健で強いが、魂はまだ力がなく弱い。人間の技術が何をしようとも、体質は常に理性に先行する。

    感覚の判断に基づく身体的なものにおいては女性の趣味を参照し、知性に一層依存するモラルなものにおいては男性の趣味を参照せよ

    立法者の課題はわれわれすべてが自然から受け取った身体的な独立な存在の代わりに部分的でモラルな存在を置き換えること

    国家はひとつのモラルな集合的な団体
    市民は部分的でモラルな存在

    すべての自由な行動はそれを生み出すことに協力する二つの原因を持っている。一つはモラルな原因、つまり行為を決定する意思であり、もう一つは身体的な原因、つまりそれを実行する力である。

    実定法のみによって正当化されるモラルな不平等は、それが身体的な不平等と同じ割合で一致していないとき、常に自然法に反する

    必然性の厳しいほうに反抗してはならない。それに逆らおうとして、力を使い果たしてはならない。その力を天が君に与えたのは、君の存在を拡大し延長するためでなく、天が気に入るように、また天が気に入る限りにおいて、単に君の存在を保存するためである。君の自由、君の能力は、君の必然的な力が及ぶ限りで発揮されるだけで、これを超えるものではない。それ以外のものはすべて奴隷状態、幻想、幻惑に過ぎない。

    正義と善は単に抽象的な言葉、知性によって形成された精神的な純粋な存在ではなく、理性によって証明された魂の真の感情であること、その感情は原初的な感情の秩序付けられたひとつの発展に他ならないこと、良心から独立な理性だけによっていかなる自然法も確立されないこと、そしてすべての自然の権利は、もしそれが人間の心にある自然的な欲求に基づかないとすれば、空想に過ぎないこと、こうしたことを私は示すだろう。
    自然法とは理性の法?
    理性の声より自然の声を信頼する・・自然法は良心の法

    他人にしてもらいたいと望むとおりに他人にもするという掟さえも、良心と感情以外の真の基礎を持っていない。そこから私は、自然法の掟が理性にのみ根拠を持つというのは真でないと結論する。それはいっそう強固で確実な基礎を持っている。自己愛から派生する人間への愛は人間の正義の原理である。すべての倫理の要約は、福音書の中で法の要約によって与えられている。

    倫理の義務を免除するような宗教は存在しない

    悪人は自分を除いて世間のすべてが正しければ非常にうれしい。

    人間は社会のうちでのみ動物から精神的存在となる

    良心から独立な理性だけによっていかなる自然法も確立されない

    一般意思に服従することを拒む者は誰でも政治体全体によって服従を強制される。自由であることを強いられる。単なる欲望の衝動のままに行為することが自由なのでなく、そうした衝動に逆らって法に従うことが真の自由(精神的自由)である。

    私はあなたの法に服従したいのです。私に暴力を加える私の情念から私を守ることによって私を自由にしてください。私の感覚でなく私の理性に服従することによって、私自身の主人となるよう私を強いてください。

    わが子よ、勇気なしに幸福はなく、戦いなしに徳はない。徳という言葉は力に由来する。力はすべての徳の基礎である。徳は、その本性によって弱くその意思によって強い存在にのみ属する。ここにこそ正しい人間の功績が存する。われわれは神を善なるものと呼ぶにもかかわらず、有徳なものと呼ばない。なぜなら神は善をなすための努力を必要としないからである。有徳な人間は天使以上のものであろう。人間は自然の秩序の元で有徳であり、市民は国家の秩序の元で有徳である。

    実定法・・人為法としての国家法

    父親は、子供をもうけ養うことにおいて、彼の仕事の三分の一しか行っていない。彼は人類に人間を与える義務があり、社会に社交的な人間を与える義務があり、国家に市民を与える義務がある。
    physique-moral-civil

    人間であるとは自然と法が私に課している束縛のみを認めることである。

    この公共的な人格は一般に政治体という名称を持つ。これはその構成員によって、受動的であるときに国家と呼ばれ、能動的であるときに主権者と呼ばれ、その同類と比較されるときに権力国家と呼ばれる。構成員自体についていえば、集合的には人民という名称を持ち、個別的には、人的国家の構成員つまり主権に参加するものとして市民とよばれ、主権に服従するものとして臣民と呼ばれる。

    森の奥で生まれ他の人間と関わらない者は、善良であるが有徳な人間にはなれない。
    国に生まれ他の人々とともに社会のうちに生きるものは、自分の情念を克服する有徳な人間になりうる。
    どんな国であろうと、人間にとってもっとも貴重なもの、行為の精神性と徳への愛を国に負っている

    祖国は自由なしに存立しえない、自由は徳なしに存立しえない、徳は市民なしに存立しえない。もしあなた方が市民を形成すれば、あなた方はすべてを持つだろう。市民なしでは、あなたがたは国家の首長をはじめとして、悪しき奴隷しか持たないだろう。ところで、市民を形成することは一日の仕事ではないし、大人の市民を持つために、子供の市民を教育しなければならない。

    自然の法は真の法、実定法に優先する。
    自然法は正しい理性
    自然法は恒常的で永遠、唯一の永遠で不変な法
    神が自然法の創造者
    自然法に従わないものは人間の自然本性を軽蔑している。自然法は人間の自然本性に由来する。

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