身体化された心 仏教思想からのエナクティブ・アプローチ

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  • 本 ・本 (408ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784875023548

感想・レビュー・書評

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  • システム理論の第3世代らしいオートポイエーシス。これに至るシステム理論、認知心理学、進化理論、哲学の流れをレビューしつつ、仏教思想、特に中観派の思想との関連を論じる本。

    このへんは、ずばり私の関心ど真ん中のはずなのだけど、なかなか手強い、難しい本だった。読んでて、自分の未熟さを感じるとともに、あー、自分はまだまだシステム理論でいえば、第一世代的な認識論にたっているのだなー、と思った。

    で、そのオートポイエーシス、ここでの説明を読む限りでは、ナーガルジュナの「空」に確かにそっくりだ。(と偉そうに言うほど分かっているわけではないが)

    世界は、無根拠、すなわち空である。それはニヒリズムでなく、全てのものは、他の全ての存在を前提として存在する相互依存関係のなかにある。よって、私も実在せず、世界との依存関係のなかで生じている。その相互依存関係への慈しみを持つこと。

    西洋の科学や哲学も、プラトンやデカルトの長い影響を脱し、さらにはニーチェを乗り越えつつ、仏教思想にたどり着いた、ということか。

  • タイトルから本の内容がわかりにくい。
    中道的な空/無根拠主義で、ニーチェやデカルトの考え方とは違う。自己への執着からの解放。
    知覚は環境に影響されるギブソンの考え方とは違う。
    知覚は認知・経験に依存していて、認知システムから具体化されたものが行為。

  • エナクティブ・アプローチ(行為から産出される世界)を通して、現象学的アプローチの問題点を、多くの事例を示して指摘している。

    なお、本書の真髄は、瞑想経験のように、行為、実践を伴ってエナクティブな感覚を会得するものだ。理論はその後に付いてくるものであり、この点において、通常の読書(なにかを理解すること)とは異なる。いわば体験の書である。

    仏教の経典のように何度も読みながら、エナクティブ・アプローチの輪郭を感じ取ろう。

  •  仏教思想なんだけれども、デジタルというか論理的思考により導き出される身体感覚。たぶん1/3も理解できていない。

  • (2007/1/14)

    感想は・・・・・評価難しいです.

    ヴァレラは例のオートポイエーシスの提唱者でしてシステム科学的には重要人物であることは確かなのですが,

    この書ではよれ哲学的な視点から認知主義の問題などを語っていますが,

    とくに西洋思想の中に仏教思想をとりいれることで克服を目指したのは分かるのですが,

    まとまりきっていません.



    しかし,科学的探求の中で不問に伏されている諸問題をクリアに見せるという面では中盤は確かにいいかんじです.

    ただ,”昔の人”であるので,内容については現在の知能研究に基づけばもう少し進んだ見方ができるのではないかと

    思う面もありました.


    エナクティブ認知科学といった言葉を提唱しているのですが,本書からは,
    それがどれ程の破壊力を持った探求手法なのかが伝わって来がたいのは残念です.

  • 再読要。

  •         -2009.02.18記

    副題に、仏教思想からのエナクティブ-行動化-.アプローチとあるように、認知科学の前提に根本的な疑問を投げかける著者が、仏教思想の「三昧/覚思想」を手法とし、認知を「身体としてある行為」と捉えつつ、世界認識のパラダイム転換を問う書、といったところか。そのなかで、色知覚の問題から視覚システムについて論考した箇所から、以下抜粋紹介しておく。

    色知覚の完全な喪失について考えてみると、色知覚が他の視覚的モダリティと感覚モダリティの両者と協同することが痛感される。事故によって完全に色盲になった患者、いわゆる後天性色盲というこの特定の症例がきわめて興味深いのは、これが特にカラフルな抽象画で知られた画家に起こったからである。自動車事故によって、この人物はもはやどんな色も知覚できなくなった。白黒テレビにも似た視覚世界のなかで暮らすことになったのである。彼の言説から、色知覚に他の経験モダリティが関与していることが明らかである。色が失われたために、彼の経験の全体的な性格は劇的に変化した。
    見るものすべてが「味気なく、薄汚い様子だった。白はぎらつき、無色でも灰色っぽく、黒には空虚感があった。すべてが間違っていて、不自然で汚染されていて、不純だった。」食べ物にはうんざりし、性交は不可能になった。もはや色を視覚的に想像できず、色のついた夢を見ることもなかった。音楽鑑賞力も損なわれた。楽音を共感覚的に色の戯れへ変換して経験することができなくなったからである。徐々に「夜型人間」になるにつれ、彼の習慣、振舞い、行為が変化した。彼の言葉によると、「夜が愛しい‥惹かれるのは、日の光を見ることがなく、そのことが満更でもない、夜働く人だ‥夜は別世界だ。広い空間があって、街や人に縛られることがない‥まったく新しい世界。私は次第に夜行生物になりつつある。かつて、私は色を心地よく感じていた。それがとても楽しかった。はじめのうちはそれを失って悲しかったが、今やその存在すらわからない。幻影ですらない。」

    この言説が伝える劇的な変化は、われわれの知覚世界が、感覚運動活動の複雑精妙なパターンによって構成されていることへ思い至らせる希有な例である。
    われわれの色づいた世界は、構造的カップリング-Struktuelle Kopplung-の複雑な過程によって産生される。これらの過程が変化すると不可能になる行動形式もある。また、新しい条件、状況に対処するようになるにつれて人の行動は変化する。そして、行為が変化すると、世界の感じ方も変化する。この変化が、「彼」が色を喪失したように、あまりに劇的であると、異なった知覚世界が生み出されるのである。
    色は表面に知覚されるだけの属性ではない。それはまた空のような量感が知覚される属性でもある。また、残像の属性としても、夢、記憶、共感覚のなかでも色は経験される。これらの現象にわたる統一性はある非経験的な物理的構造のなかにではなく、ニューロン活動の創発的パターンを通して形成される経験の一形態としての色に見出されるのである。
    視覚システムは単に所与の物体のもたらすものでは決してない。物体が何で、どこにあるかの決定は、その表面の境界、肌理、そして相対的な方向性-および知覚される属性としての色の全体的なコンテクスト-とともに、視覚システムが不断に成し遂げなければならない複雑な過程なのである。これは、すべての視覚モダリティ間の能動的な対話を含む複雑な協同的過程から生じる。
    「知覚される物体をその色から分離することは不可能である。なぜなら、色の対比そのものから物体が形成されるのだから」-P.グーラスト&E.ツレンナー-というように、色と表面は相伴う。両者はわれわれの身体としてある知覚能力に依存するのである。

  • 2012.02.11
    再読中

    2011.03.10
    ◆学んだこと
    ○エナクティブ・アプローチ?
    問1:認知とはなにか?
    行為からの産出。世界を創出する構造的カップリングの歴史である。
    問2:それはどう機能するのか?
    相互連絡した感覚運動サブネットワークの多重レベルからなるネットワークを介して。
    問3:認知システムが十分機能しているときをどうやって知るのか?
    (あらゆる種の若い生物のように)進行中の存在世界の一部になるときか、(進化の歴史に起こるように)新しい世界が形成されるとき。 (P293)

    ○十分機能している状態って、事々無礙法界のこと?

    行う→認知→適応→行う→認知→進化

    ○構造的カップリング?
    主体と客体が独立かつ相互依存している。相入相即のこと?

    ○行為?
    「身体としてある行為」ということばの意味することを説明しよう。「身体としてある」ということばを用いることで、われわれは二つの点を強調するつもりだ。第一に、各種の感覚運動能力を有する身体の様々な経験に認知が依存すること。第二に、これらの各感覚運動能力自体がより包括的な生物的、心理的、文化的なコンテキストに埋め込まれていること。「行為」ということばを用いることで、感覚と運動の過程、知覚と行為が生きた認知においては根源的に不可分であることを再び強調したい。 (P245)

    ○ヘルトとハインの研究・・・行為が視覚を導く実験
    暗闇の中で猫を飼育。第一群の猫は普通に動くことができるが、車付の籠を結びつけられている。第二群の猫はその籠の中に入っている。数週間後、猫を解放。第一群は普通に振舞ったが、第二群は目が見えないように振舞った。 (P248)

    ○インターフェース=行為?
    そのような知識(文化的知識・・・民話、魚の名前、洒落など)が存在するのは、心、社会、文化のいずれでもなく、それらのインターフェースの中であるという発想は人類学の理論を触発するだろう。知識はどこか一つの場所や形態の中に前もって存在するのではなく、例えば民話が語られるときや魚が名づけられるときのような特定の状況における行為から産出されてゆく。 (P254)

    ○自由になること=三昧?
    より自由になるということは、縁起の条件と現状の状態に秘められた真の可能性に対して敏感になり、執着と自己中心的な意思によって左右されない開かれたやり方で行動できることなのだ。 (P179)

    人は自分自身の経験について三昧になるにつれて、基盤に執着する、つまり分離した真の自己、分離した真の世界の基盤となる感覚、および自己と世界との関係の基盤となる感覚に執着するように強いる力がいかに大きいかを悟るというものだ。 (P317)

    ○仏教観?
    三昧/覚伝統は、全く異なる解決策を指摘する。仏教には、無根拠性が受容され、その究極の結論へ導かれるとき、自発的な慈悲として世界に顕現する本来の善性という無条件の感覚が生まれるというケース・スタディがあるのだ。 (P355)

    ○心的因子?
    触(接触)→受(体感)⇔想(識別)→思(意思)⇔意(注意)

    ◆次に学びたいこと
    ○オートポイエーシスって事々無礙法界?
    ○エナクティブ・アプローチの仏教観の元になっているナガールジュナと中観派の教え?
    ○本書の中で一切出てこなかった「記憶」?

  • 今月中ずっとこれを読んでいた気がします。
    先月末くらいからなのかな。それくらいにペースが遅かったのです。
    半分くらい読んで思ったのは「これはあと5回くらい通しで読まないと
    分からないだろうな」でした。
    特に仏教的な用語に馴染みがなかったので、それも影響してると
    思います。

    ただ、後半はかなり面白かったです。特に「根拠のない世界」の部が。
    最近「これの意味はあるの?」「何のためにこれを?」という
    問いのループに嵌っていたので、一言「そんなの無いよ」と
    言ってもらうことですっきりしてます。放り出された感はありますけども。
    世界も自己も単体では確固とした物ではなくて、ぶつかった時初めて
    存在が明らかになる、という解釈を自分なりにしてます。

    まだ文字を表面的に追っただけで、2割も分かっていないと
    思うのですが、それだけでも十分にインパクトのある本でした。
    もう少しいろいろ読んでからもう一度読んだら、より得る物が
    多いのではないかなと思います。

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