廃棄の文化誌 新装版―ゴミと資源のあいだ

制作 : 有岡 孝  駒川 義隆 
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本棚登録 : 41
レビュー : 9
  • Amazon.co.jp ・本 (317ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784875024095

作品紹介・あらすじ

増えつづけるゴミの山、核廃棄物、ヴァンダリズム(破壊行為)、老化、死…廃棄や衰退にはマイナスイメージがつきまとう。だがゴミもリサイクルすれば資源に変わりアンティークやゴミアートとなれば新たな価値を生む。自然の循環、生命活動の循環に思いを馳せれば廃棄が不可欠なプロセスであることも見えてくる。モノ、人間、都市-廃棄のイメージを総合的に探り廃棄や衰退プロセスを上手に取りこんだライフスタイルと都市デザインを提案する。

感想・レビュー・書評

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  • (特集:「ゴミ問題から環境問題を考える」)

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  • 「都市のイメージ」で高名な、ケヴィン・リンチが廃棄について書いていた原稿を、弟子のマイケル・サウスワースがまとめた本。

    まず、廃棄という言葉/概念の定義の難しさから、廃棄を通じ、文化・都市を見直すことに挑んでいると思いました。
    持続可能性という近年のはやりの概念とも繋がりはあると思いますが、場所の廃棄、時間の廃棄の章では、「廃棄」≒「ムダ」とも考え得る。そして時間スケールを変えてみれば、廃棄物の概念は変わる。
    多くのモノが氾濫する21世紀の都市において、どう答えを見いだしていくのか、未完の本書にその答えはないですが、事例の検証、遺跡となった都市の考察など、興味深い点も多く、もっと読まれるべき本だと思います。

  • プロローグのカコトピアが面白い。その他の章も示唆に富んでいる。しかし、ではどうしたら?という肝心のところはもう一歩踏み込まないといけないようで、趣味として読むと不安感が残っていけない。そういう気分の時はちょうどいいな。読みやすくはあった。

  •  この本は、ケヴィン・リンチの遺稿をまとめつつ、写真をつけくわえたもので、読み物としてもよみやすい。

     これもかばちゃんの推薦。

     読み方は人によって様々だろう。自分は、人口減少、少子高齢化が進むなかで、どう廃棄される郊外の土地利用を考えるか、例えば、震災復興で集団移転したあとの土地の利用をどう考えるかなど、問題意識が喚起された。

     もちろん、この本にそのダイレクトな答えがあるわけではない。

    ①土地のリサイクルは経済性の計算によるばかりではなく、コミュニティの誇りによって動機づけることが多い。廃棄物の山を動かさずにそのまま歴史的なランドマークとして甦らせた方がよい場合もある。(p145)

    ②だが、人類という種を宇宙の中心からはずしてみれば、ものごとの意味は拡がるだろう。廃棄はすべて生命系の本質的な過程であり、廃棄が阻止されたり、吸収できない量ないしはタイプの物質を産出することにかぎって、望まれないものになる。(p202)

    ③国の政策としては、人や企業や資本の流動を直接管理することはせずに、成長や衰退を和らげ、利益の何割かを必要な地域に振り向ける。(p222)

     なんとなく、都市がシュリンクしていくなかでの復興対策については、放棄された土地、移転して公共の手元にのこった土地などは、地域共同体の管理にゆだねていくというイメージがあるのだが、どうだろうか。

  • 新装版が出たが、中身だけを求めるなら古い版を中古で求めても問題はないように感じた。

    都市のイメージ という印象しかなかったから廃棄なんていうキーワードがここから出てくるとは思っていなかったのと、ライトの弟子にあたり、アレグザンダーの先生いにあたる人物でありMITの教授をやっていたという人物像を全く知らなかったという事実に驚いた。
    都市のイメージが持っている数学的な特性からもアレグザンダーとの繋がりは理解できるが、「都市はツリーではない」以降のやや文学的なアレグザンダーの言説の流れとこの本が扱う内容は類似する部分が多いことからも理解ができる。それがパウロ・ソレリのようなライトの系列のエコロジストたちとも連続性があることが見えてくるのはおもしろい。そしてライトに含まれていた数学が展開していくとリンチやアレグザンダーへ繋がっていくというのもまた建築の思想の関係を整理する上でおもしろいと思った。

    「廃棄物」ではなく「廃棄」という物に限らず時間や文化といったものも含んだ広範の内容にスポットを当てており、都市計画を専門とする人らしい内容になっている。

    表紙裏の解説にも書いてあるが、廃棄は人が忌み嫌うものでありつつも生命活動において必要不可欠なものであるという重要な特徴を持っており、廃棄が阻止されたり、吸収できない量ないしタイプの物質を産出するときに限って、望まれないものとなる。もし仮に都市において真夏にゴミ収集がストライキになり一週間行われなくなったら、下水が止まったら、電気が止まるのとは比にならない危険性がそこには含まれていることからもそれは認識できる。また検便や検尿といった方法が体内を知る上で大きな手掛かりとなるように建物から出る廃棄・排泄物を調べることはその建物内を知る上で大きな手掛かりとなるという情報としての役割も担っていることがわかる。それは考古学にとって貝塚がその村の歴史を知るうえで重要な役割を果たすことからも理解できるだろう。

    本書の中で取り上げられるスティーブン・グリーンブラッドの中世と近世・近代(ラブレー、トマス・モア、ルター)との排泄と身体機能に対する態度の比較もおもしろい。生命の一要素として両義的に受容されていた死、廃物、損失の概念が失われ、自己嫌悪の感情によって狭められた、ヨーロッパの社会秩序が出現へと繋がっていく。この比較はグーテンベルグの銀河系における時代比較とも共通するものがあり現代の廃棄の在り方へと再投射する上で興味深い。

    1980年代に書かれたこの本において「豊かなくらしとは、生産の増加に支えられた消費の増加である。どんどん消費して生産を促せば裕福になる。このような仮定事項が、モノの廃棄に深く根差した恐怖感と衝突を始めた」と経済性優位のアメリカ社会における廃棄とくらしの関係を単純明快に解き明かす。廃棄物への恐怖感は死の否定とも関連する。死ぬことが当人や親類の問題でなく、医師、僧侶、葬儀屋の手中に委ねられ社会的に管理される対象となる。
    2000年を越えて、豊かな暮らしが量ではなく質にあるという価値観に変わり 情報技術、情報ビジネスによって大量の情報を生産し消費することが裕福になる近道へと変わる。情報の廃棄は質を担保するために日常的に意識的にハードディスク内のいらない情報を処分してパソコンの処理速度への影響を最小限にしようとしたり、無意識的に人は大量の情報の廃棄を検索というオートメーション化された過程を通して行っていく。見かけ上、廃棄は個人の手に再び戻ってくる。情報の廃棄は個人を知る手掛かりとなり、様々なところでそれに基づいてパーソナルなサービスの提供による質の向上と売上の向上の二つを担おうとする。


    現代において、廃棄は再び個人の責任と管理を必要とするものとなっている。近代が形成した専化された諸分野と繊細な反応と行動を可能とする個人レベルでの活動との混合が最も必要な分野の一つがこの廃棄の分野であることは間違いないだろう。そして、それが動的な都市や建築を形作る大きな役割を担う。
    いわゆる大量生産・大量消費の時代 なにが叫ばれていたか?そして現在も同じような本がいかに出回っているかを凄く実感できる。そしてそれらがどれだけ過去の問題であり、また現代にも通じるものかをそれぞれの視点で判断できる本だと思う。本書の事例の列挙の豊富さはその点で非常に役に立つ。扱うものは古代から始まり、時には人類以外の話にも及ぶ。それらを所謂エコロジストが語るのではなく、都市計画の専門家が語るがゆえに一風変わった冷めた視線が生まれているように思えた。

    メモ

    街中のポイ捨て→近代都市では、廃棄物は「玄関の外」にある。

    ごみ投棄の管理 都市→専門業者 地方→市民一人一人

    リサイクルと不安定な需要と供給→高度な情報管理とマッチングの必要性

    素材が重要、労働力安い→高効率な素材の再利用/素材が余る、労働力高い→廃棄物の集積、有用な廃棄物のみ備蓄

    廃棄物が廃棄物を呼ぶ スケールフリーネットワークモデルにおけるハブの形成と同じ感覚

    古代都市と年月を経た記念碑や建物の原料化

    衰退した場所への補助金は、移動し裕福になりうる貧困層をその場に留めることになるので、かえって逆効果の可能性もある。

    都市を死滅させる主な要因→戦争、無秩序、通商交易の転換

    永続性/連続性 廃棄への態度の違い 脅威/活用

    資源回収とは、混ざりものを分別することである。廃棄物に毒性がなければ、純粋状態で貯蔵した方が、将来の活用には好ましい。手に入れやすい空間は、たとえ廃棄されても将来の成長の余地を残す。将来の支脈への配慮とは、こうしたものだ。
    p.208

  • 『都市のイメージ』(1960年)で有名な都市計画研究者,ケヴィン・リンチ。彼の遺稿が本書。1984年に彼が亡くなり,残された原稿をマイケル・サウスワースという同僚が編集して1990年に出版された『Wasting Away』という著作が『廃棄の文化誌』として翻訳された。地理学にとっても,認知や知覚の問題がテーマとして浮上してきた1970年代に,『都市のイメージ』は多く引用され,日本でもかの有名建築家,丹下健三の手によって1968年に翻訳されており,一時期は翻訳本が手に入りにくかったが,2007年に復刊されたくらい,今でも影響力のある著作である。が,私は読んでいない。ちなみに,本書の翻訳タイトル「廃棄の文化誌」はいかにも工作舎らしいタイトルだ。この出版社で唯一翻訳の出ている地理学者はイーフー・トゥアンだが,「landscape of fear」が『恐怖の博物誌』として,「dominance and affection」が『愛と支配の博物誌』として翻訳されている。これらは数あるトゥアンの著作のなかでも,彼の博学が十二分に活かされた素晴らしい作品だと思うが,リンチの著作も多くが建築に関わる出版社から翻訳が出ているのに対し,本書がこのタイトルで工作舎から出版された意味は大きい。
    そんなことで,『都市のイメージ』が読まなくてはいけないけど,なかなか読もうとは思わないと思う存在である一方で,本書のことはいつも頭のなかにあった。なので,たまたま古書店で発見して購入し,早速読むことになったのだ。本書のことは私が在籍していた東京都立大学地理学科の人文地理学教授であった(今でもそうですが)杉浦芳夫氏を通して知っていたのだ。多分,当時月刊『地理』の書評担当をしていて,本書を取り上げたのだと記憶している。私とは違って,ほとんどの人は趣味で読んでいる本,ましてや翻訳本を,学術雑誌などでは紹介しないものだが,月刊『地理』ということで,このときばかりはあの杉浦氏もけっこう楽しんでいたように思う。他にもジャズの歴史に関する翻訳本や『サバービアの憂鬱』なんて本も紹介していたな。
    さて,前置きが長くなりましたが,本書について書きましょう。本書はさすがに,遺稿ということもあって,きちんと構造化されている印象は薄い。どうしても廃棄にまつわる記述の断片の寄せ集めという印象を免れない。しかし,このテーマで1980年代にまとまった本を書くのは難しいということを踏まえると,書かれている個々の記述は今読んでもまったく色褪せることなく,われわれへの教訓として大きな意義を持っていると思う。リンチの本を読むのは初めてだが,彼がいかにプラグマティストかということを実感する。恐らく,本書を読んだ後に『都市のイメージ』を読めば,読み取る内容も随分異なることだろう。生物体が生命を維持すれば,必ず廃棄物は生じる。しかし,人間の場合はその廃棄の量が時代を追うごとにうなぎのぼりに増えてきて,しかも有害なまま悠久の時を耐え続けるようなものも多く生産してきてしまった。そういうものをこれからどうすべきか,悲観的なのはもちろんだが,その功罪を声高に訴えることよりも,現実的に何が出来るかの案をいくつも提示する。もちろん,廃棄にまつわる問題ばかりを指摘するのではない。廃棄する行為に対する人間の快楽。廃墟に代表されるような,廃棄物を美しいと思う人間の感情。そうした,廃棄物がもつ両面性というか,複雑性の認識も忘れていない。本書を読んで,以前同じ研究会でよく顔を合わせていた社会学者の下村恭広君のことを思い出した。彼はなぜか地理学の研究論文をよく読んでいて,親しみを感じていたのだが,なぜかある時期から日本の廃棄物処理業者の歴史的研究を始めて,イマイチその意図がつかみかねていたのだが,本書を読むとその研究テーマの重要性を理解できる。

  • lab
    519.7/L99/1877

  • lab
    519.7/L99/1877

  • 「都市のイメージ」でおなじみのケビン・リンチの遺作です。
    「廃棄」という概念に関する世界各地での一般論や、美学的検証をしています。
    僕が特に参考になったのが、「都市の廃棄」という考え方です。
    日本でよく主張される、都市の間引き、都市をたたむ、という衰退地域の終了方法と考え方は似ていますが、リンチの場合、「廃棄」が美学的に検証されている分、空間戦略として共感できる部分が多く、興味深かったです。

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