- Amazon.co.jp ・本 (182ページ)
- / ISBN・EAN: 9784877143893
感想・レビュー・書評
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ドキュメンタリー映画である「六ヶ所村ラプソディー」を撮影する上での苦悩、この映画へのテーマ、そもそものドキュメンタリー映画としての在り方から、六ヶ所村に住む人々を通じて、鎌仲ひとみ監督からのメッセージが伝わってきます。
ここに描かれた問題はとてもとても深く、簡単に答えを提示できない問題です。それでも、ドキュメンタリーとはこういうものなのでしょうね。「公平さ」を意識したものであればなおさら。
印象的な言葉がたくさんあるのですが、「人間は生きるために誇りを必要とする」という言葉が特に印象に残りました。
後半のインタビューも重みがあります。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
映画「六ヶ所村ラプソディー」は06年に青森県六ヶ所村に建物が完成した核燃料の再処理工場をめぐる人々の姿を描いたドキュメンタリー。
同書では、文章ならではの特性をいかして掘り下げ、六ヶ所村の歴史と政治的な背景、映画公開後をめぐる上映運動などを綴る。原発とは何か、日本のエネルギー行政の現状や根本にある日本社会の問題点が分かりやすく書かれており、興味をそそる。
しかし、この本を読んでみたいと思ったのは同作には喉に刺さった魚の小骨のような何かモヤモヤしたものを感じていたからだった。
前作「ヒバクシャ」(03)は劣化ウラン弾の残留物によって、白血病を患ったイラクの子供たちをきっかけに世界に広がりつつある内部被曝の実態を描くもの。一本筋が通ったものがあったが、この作品はなにか揺れている。
六ヶ所村を撮ろうとしたのは、イラクの子供たちを苦しめる劣化ウラン弾の元を作った原子力産業であり、原発に無知で、無関心であることに気付かされたことだったという。
六ヶ所村の原子力事業は60年代後半にスタート。80年代には漁業組合が反対するなどの動きがあったが、政治に翻弄された挙句、沈静化した。反対運動の敗北は、「圧倒的な権力と資本が周到に準備した結果であり、その背景にあるのは、メディアがその役割を果たさなかった結果としての無関心だった」と結論づけている。
撮り始めた当初、立場を明確にしていなかった。最初のカメラマンから「反原発か、そうではないのかスタンスをはっきりさせろ」と言われ、口論にもなった。結局、カメラマンは交代するが、この時になって、「反対派」と「推進派」を同じように描きたいと伝える。しかし、その理想とは別に、「対立軸の群像劇」を公平感を持って描くのは非常に難しい。
チューリップ畑をしながら、反対運動を続けている菊川慶子さんに対しては、「とてつもない困難に立ち向かいながら、そんな様子をまったく見せずににこにこと笑顔を絶やさないこの女性ほど強い人間に出会ったことがない」と評する一方、推進派にも共感できる部分が多数あったという。
彼らは推進派というよりは「サバイバル」で、家族を養うために放射線管理区域での労働をしており、同時に日本のエネルギーを支えているのは自分たちだと仕事に誇りを持って臨んでいることを知る。
鎌仲監督は編集作業について、こう書く。
「私自身がぐらぐらと揺れ動いていた。加えて全体のバランスが非常に難しい」「個人として再処理は受け入れがたいが、出来るだけ公平に全体を提示する視点で作品を作らなければいけない。単に反対したり批判するための作品を作ったとしても意味がないと確信していた。なぜなら私自身がそのようなスタンスに共感できないからだ」「自分で考える、観る人を思考へ自然に促すスタイルが必要だった」
僕が感じた「魚の小骨」のようなモノの正体は、これだったのだろう。異物のぶつかり合い、その葛藤が光と影の隙間から漏れてきたのではないか。
監督の葛藤でも分かるとおり、原発の是非というのは本当に難しい問題だ。
映画を見た方には、同書を読むことを薦めたい。より深く原発問題を理解できるはずだ。