葉書でドナルド・エヴァンズに

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  • Amazon.co.jp ・本 (165ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784878933707

感想・レビュー・書評

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  • 詩人の書く文章が好きだ。たとえば長田弘。一つ一つの言葉に、日々鑿を入れ、ざらざらとした紙で磨き上げ、油をさし、光沢をたしかめ続けている職人たちが、詩作というハレの場の幕が下りた後のほっとした日常の瞬間に、大切な道具をいとおしむように、その手触りや機能性を楽しむ瞬間、それが詩人の散文のようだ。


    神保町の東京堂の平積みに、ひっそりと、しかし凛とした存在感のある縦長の本があった。「葉書でドナルド・エバンズに」。真っ白な装丁に小さく銀色の活字で書名が彫りこまれている。ドナルド・エバンズ、平出隆。ぼくには未知の名前だ。手にとってぱらぱらとめくると、こんな文章が飛び込んでくる。


    「ワシントンの地下鉄は恐ろしく清潔で、ニューヨークと比べてみようという気も起こらないほどです。彗星のように銀色に光りながら暗い軌道をめぐっていく車輌を見ていて、世界のひとつの中心地の地底がこんなにも静粛な宇宙になっていることに驚きました。社内放送の男の声も無機的な低音で、未来的といっていいくらいです。」


    ミュージカルの作曲家が自分の曲を歌う肉声を聞いたことがある。90年代の初めの、マンハッタン。スィート・チャリティ等の作曲家であるサイ・コールマンを讃える小さなパーティだった。勤めている会社が寄付をしたため、慣れぬタキシード姿になった。キャバレーなどの振付で有名なボブ・フォッシの奥さんのグエン・バードンが、一曲披露したりで、年齢の高い音楽家たちのアットホームな雰囲気が高まった時だった。一人の痩せた老人が、ピアノに近寄った。司会が、Burton Laneと紹介すると会場に大きな拍手が湧き起こった。ピアノの前に座った老人の長い指先から強く、しっかりとした音が流れ出た。晴れた日には永遠が見える。耳に親しいスタンダードナンバーを、老人はぶっきらぼうな、ちょっとしゃがれた声で、いとおしそうに歌った。隣に座った大手弁護士事務所のパートナーが、「私は、作曲家が自分の曲を歌う時の声が大好きだ。不思議なんだが、どの作曲家もどこか似ている。」と誰に言うともなく呟いた。


    ドナルド・エバンズは1945年にアメリカに生まれ、1977年にオランダのアムステルダムで死んだ画家だ。彼は、生涯、現実の切手とよく似た切手を描きつづけた。蒐集用のシートにならべられたり、葉書や封筒に貼られて作品化されたという。切手という狭い空間に、彼は架空の国を想像し、豊かなイメージを描きつづけた。架空の切手だけを描きつづけるという芸術的人生。平出隆という詩人が、1985年から1988年の間、彼の人生の場所であるモリスタウン、ニューヨーク、ツーソン、シアトル、アムステルダム等を訪ね、その場所から、エバンスあてに書いた手紙のような日記。少年の頃の切手のコレクションが、架空の切手を書くへと変化し、それ以外のことに全て背を向け、小さな窓の中で新しく生まれなおそうとした画家の人生と、詩人という人生を選択し、かけがえのない友である渋澤龍彦を失い、その喪失から再生しようとする作者の人生が交錯する。


    エバンスが計画していて果たせなかった、そこだけで通用する切手のあるイギリスの島、ランディ島を離れる船の中で、詩人はこんな言葉で美しく自分の再生をうたっている。


    「さようなら、ドナルド。ぼくはいま旅立ったところだ。世界へ、世界から。すべてはまるで違っていて、親しいドナルド、ぼくにもすべてがあたらしい。」


    詩人のしゃがれた肉声が聞こえるような気がした。

    2001-05-26

  • 詩人が死後の友人へ想いを伝えるための百通を超える葉書。地球のあらゆる場所の中から、ただ一つの場を選ぶのではなく、一つの場を創造して切手に描き出されたドナルド・エヴァンズが生きてきた観念の世界に連れて行かれる。それぞれの見ている景色が溶け合い、新しい旅の道標ができる。自分の放った言葉のはるか先に親愛なる人がいるという不思議な確信。
    読み終わったあとには不安定で無秩序な世界から放り出され、余韻となって響く音が頬にしみこみ、別れで緊張した表情はだんだんやわらかくなり、頬をつたった離別の涙が癒しの方向へ導いてくれる。

  • 切手ほど小さくて甘やかで遥けきものは思い当たらない。

    読了した日、友だちから送られた結婚式の招待状に返信した。返信用葉書にはピンクのハートを散らしたデザインの切手。

    片方は友人を喪くし、片方は友人らから喪われたというふたりの男の生が、重なりあう。旅によって。そして切手によって。

  • 架空の世界を作り出す作家は短命な人が多い気がする。この世界に別れを告げて、自分の世界に帰っていくように思える。

  • 『猫の客』で一躍「好きな作家」上位(当社比w)に躍り出た平出隆氏の本をさっそく手に取ってみる。1頁ごとに作者からエヴァンズへ、優しく、美しい日本語で綴られた恋文のような便りが続く。エヴァンズの生きた跡を辿る旅。紀行文のようで散文のようで詩集のようであり、ノンフィクションのようでもありフィクションのようでもある。堀江敏幸の『その姿の消し方』のよう。何とも不思議な旅をお供させてもらったような気持ちで読了。入手困難なようなので図書館で借りたが、手元に置きたい。できれば東京パブリッシングハウスの叢書crystal cageの絵葉書版で。

  • 再読。小さな矩形に世界の果てを描き夭折した画家と、彼の軌跡をたどる詩人が滑らかに気取りなく且つ深々と語りかける言葉のハーモニー。印刷された文字に、そして余白にも世界が広がる。空気が流れ甦る。書物がモノであることに意義があるということ。大事に愛しむ。

  • ジョゼフ・コーネルを観に行った美術館で出会った小さなマッチ箱。その後、偶然行くことになったドイツの小さな村で作られていることが分かったその箱。そして今、ドイツ語を勉強している。人生に理由や目的などない。唯々、何かに動かされるがまま一生懸命それを追い求める。

  • 架空の切手を描きつづけた画家ドナルド・エヴァンズへの詩人からのオマージュ。

  • 平出隆の小説って、ふうと風が通るように終わってしまう。その意味を汲み取れていないようで、風の抜けた先を目で追ってしまう。一頁ごとに一葉の葉書のリズムが気持ちいい。

  • エッシャーが低地を去った者なら、エヴァンズは低地に自分の世界を求め、そして平面の世界へ閉じこもった。
    悲しき事故で彼はこの世にはいない。
    けれど、一人の詩人が画家と彼を思う者たちの軌跡を追った時、画家とその思い出は永遠のシュプールを描くだろう。
    静謐な時間を与えてくれます。

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著者プロフィール

多摩美術大学教授

「2011年 『私と世界、世界の私』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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