- Amazon.co.jp ・本 (337ページ)
- / ISBN・EAN: 9784878933950
作品紹介・あらすじ
騒乱のなかの最終講義。1968年、学生反乱の騒乱のなかで行なわれた新入生のための入門講義。ポパーとの実存主義論争を背景にフランクフルト学派批判理論を自ら明確に解説。学生への痛切な呼びかけ。
感想・レビュー・書評
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自然科学のような予測が、(マクロ)社会学でも可能なのか?
<第2回>
・政治に対する社会学一般の態度について:
①「すべてが社会的利害に制約されている以上、元来、社会学者にとって真理と呼べるものなど存在しない」という態度は誤りである。
1.真理の否定によって、真と偽の区別が不可能。
2.虚偽意識について語ることが不可能になる。
3.個々人の主観から一般化するという方式が誤って信じられている
4.認識可能な社会の客観的構造法則を見落としている
②歴史的に成立したばかりの社会学には、<社会工学>的考えが含まれていた i.e. 一定の方法論的な技術を持つ学問的エキスパートが、社会統制を任されることで、安定的状態をもたらすことが可能だという考え。
・コントの社会原理:静態的な原理・動態的な原理(c.f.コントは後者をいかに抑えるかを考えた)
・マルクスもこの両義性にとらわれていた
③社会学はなぜ一義的学問ではないのか?
1.対象の非均質性
2.特有の性質、i.e.敵対的性格
・パレートの社会学(「エリートの循環」)では、①1.の問題がある
④社会学とは本r内どのようなものであるべきか?→社会への(批判的な)洞察
・ウィトゲンシュタインが「実際に生じていること」といった事態を、あるべき姿と比較・検証し、両者の矛盾から変革の可能性、ポテンシャルを探るべき。
※ただし、本来の在り方、あるべき姿は、それを止めることからしか生まれない。
⑤直接は社会とかかわりがなさそうなことでも、いかに社会から影響を受けているのか?内容からは自然に見えるものから、どれだけ社会が見えるのか?このことから、科学的アプローチ、精神的アプローチの2つが生じる。
後者(?):社会学は本質的なものへの関心でなければならず、どうでもよい事柄に関わる必要はない。⇔しかし、何が社会認識において重要か否か、をア・プリオリに見て取ることはできない。
つまり、本質的なものと関わることが、対象選択の決定的要因である。また、本質的なものは大きな対称とは同一視できない。単なる対象からは、それが本質的か否かを判断不可能で、実際に遂行してみることで現れる。
<第3回>
前者:そもそも本質的なものは存在しない。
・P.42 ショイヒ:「社会学の仕事はその大部分を探求方法に向けるべきであり、探求方法を探求すべきであって、対象の重要性に、~、そもそも期待され得る洞察の重要性~に向けてはならない」
→本質か現象かの決定というものが全く存在しないならば、社会学の問題設定は、他から割り振られるものになり得る。
※「本質」または「社会の本質法則」について語ることは、この法則が現象の中で明らかにされないならば、全く無益で空虚である。
・個々の社会的事実を社会的なものの暗号として目に止め読みとる術を心得ていない、また本質的なものを(歴史的な)条件に即して本質的洞察を繰り返さない人は、社会学者ではない。
・本質的なもの;社会の客観的な運動法則である。※ただし、妥当性は事実として社会的現象のうちで表現されている限りである。
・本質的なものとは、社会の行き先を示す諸法則に寄せることである。この法則は変化するもので、その妥当性はそれが実際現象する限りにおいてである。そして、社会学の課題は、①本質と現象の間の不一致を本質の側から把握する。②全く現象とは相容れず、弁証法的にさえ媒介されえない本質概念や普遍的法則性を放棄する勇気を持つ、かである。
・社会学あるいは社会科学的認識から実践が生ずるのか?それとも認識は一定の所与の実践形態へと単純に適用しうるのか?
・社会とは??
<第4回>
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