物が落ちる音 (創造するラテンアメリカ)

  • 松籟社
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  • Amazon.co.jp ・本 (314ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784879843449

作品紹介・あらすじ

ガルシア=マルケス以後の、新世代のラテンアメリカ文学を牽引するフアン・ガブリエル・バスケスの小説翻訳。
コロンビア―アメリカ合衆国間での麻薬取引を背景に、英雄に憧れたひとりのコロンビア人パイロットと、彼の妻となるアメリカ平和部隊隊員の過去を、コロンビア麻薬戦争の時代を体験した語り手が再構築する。

感想・レビュー・書評

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  • 「物が落ちる音」
     別のひとりの人間が、長い間の刑務所暮らしという、何も発見せず何も学ばずの人生を送るという考えに、平気でいられる者などいるはずがない。生きられざる生。指の間からこぼれ落ちていく生。自分のものであり、自分で苦しんだのに、同時に他人のものである、それに苦しんでいない者のものである。
    (p22)
    このリカルドという人物は、語り手が初めて会ったビリヤード場に現れた時は、20年もの刑務所暮らしの開けたときだった。自分が6歳くらいの時からずっと刑務所に入っていたということを聞いてそう考える。
     たぶん現在というのが現実には存在しないからだ。すべては思い出なのだ。今し方書きつけたこの文章も、もう思い出だ。読者よ、あなたが今読んだこの言葉も、思い出なのだ
    (p23-24)
    (2020 12/09)

    ひとつの長い影
     打ち上げ花火も飛ばしたが、花火はこの街の黄色がかった空に、派手な色を炸裂させた。この街の空は一度も完璧な漆黒になったことがないのだ。一度も。一度も私は、リカルド・ラベルデがそのころ何をしているだろうかと自問したことがなかった。
    (p44)
    コロンビアのクリスマス、ノベーナ。ボゴタが「一度も完璧な漆黒になったことがない」とはどういうことか。単に都会ということか、ボゴタの住民が暗闇嫌いなのか、あるいはピストルの炎とか救急車とかそういう意味か。今のところは謎をかけられている。そして段落変えることなく、リカルド・ラベルデの想起に移る。
     私の頭の中では、ただ私の頭だけでは、シルバが詠んでいた。そしてふたつはただひとつの長い影だった。雑音のない私の世界では、ただバリトンの声とシルバの言葉、それにふたつを包む退廃的なピアノの音だけが鳴り響き、そのまま時間が過ぎたのだが、それは私の記憶の中で長引く時間なのだった。
    (p53)
    この文の少し前(p50)、語り手とリカルドは、リカルドが持っていたカセットを聴きたいというので、詩歌会館なるところへ行く。物語の筋を追うのを中断して(笑)、この詩歌会館というのはホセ・アスンシオン・シルバという詩人のかつての住居だった建物で、ここに語り手は通いつめていた(特に大学生時代)という。ボルヘスやガルシア=マルケスが自作を読んでいる録音をじっくり聴けるという…というのはこの小説中の語りだが、実在の施設なのだろうか…とにかく(と、ここで物語に戻る)ここで語り手が聴いていたシルバの詩句「そしてふたつはただひとつの長い影だった」(ちなみにこの第1章の表題でもある)が追跡劇と追想物語に被さってくる。
    リカルドのカセットに何が録音されていたのか、そちらは謎のまま…気づけばリカルドの姿はない。語り手は彼を追い始める。
     その狭い歩道を歩く人びとをよけ、必要とあらば車道に下りて、先を急いだ。考えるとはなしにそしてふたつはただひとつの長い影だったと考えていた。いやむしろいつまでも耳にこびりついて離れないメロディのように、絶えずその詩行を繰り返していた。
    (p55)
    ふたつの影がひとつになった時、彼らは狙撃され、リカルドは殺され、語り手も重傷を負う。
    この小説の最重要テーマは詩なのではないだろうか。

    補足
    その1 アウラ(語り手の子供をみごもる)の紹介のところで「カリブから来た」と書いてあった。最初はコロンビアではなく、カリブ海の島国のどこかだと思っていたけど、どうやらコロンビアのバランキーリャ辺りらしい。同じ国土だとは思えないほどの、地理的または心理的差異はまだ自分には理解が及ばないところ。というわけで、マルケスが「生きて、語り伝える」で再三述べていたようなカリブの人々にとってのボゴタ、あるいはその逆(バスケスはボゴタの生まれ)を思い出す。
    その2 1996年という年代設定において、ガルシア=マルケスは生きているのだが既に神格化されてたのか。聴いていたのは詩なのか、小説なのか、あるいは時事エッセイなどかもしれない。語り手、あるいはバスケス自身がガルシア=マルケスに寄せる思いというのも想像してみると意味深いかも。
    その3 で、最近ラテンアメリカ始めとするところで現代文学の主流になっているかのようなオートフィクションについて。といっても、自分自身このオートフィクションというのが何なのか、いまいち把握できていない。ただの私小説でないことは確かだと思うけれど、ではどう異なるのか。私という物語を意味づける、物語る、その過程の物語なのか、という気が今はしている。ウリベの「ビルバオ、ニューヨーク、ビルバオ」や、ハルフォンの「ポーランドのボクサー」などが今まで読んできた中ではそうした作品とされる。
    あと、もう一つの現代ラテンアメリカ文学の潮流、戦争や抗争、事件などをテーマとした作品。実はこの二つの流れは一つの長い影…ではなく(ないのか?)同じものの違う側面ではないだろうか。ここもどのようにそうなのかがよく言えないのだけれど。一見理解を超えた信じられないような悲惨な出来事でも、所詮は平凡な一人の人間の平凡な行為の積み重ねからできている。ならば、そこに書き手の自分を書き込んでいくことができるのではないだろうか、という探究心からかと想定するのだが。
    (2020 12/12)

    タオル掛けのタオルのような宙づりの音
     私はすっかり宵っ張りの習慣を身につけてしまった。音がしたり、あるいは音がしたと思ったりして眠りの途中で目覚めると(そして脚の痛みに囚われ、もう眠くなくなるのだ)、松葉杖を取り出し、リヴィングへ行き、リクライニングの椅子に腰かけると、そのままの姿勢でボゴタの周囲を取り囲む丘での夜のうごめきを、晴れた夜には飛行機の赤と緑の光を、気温の下がる未明にはまるで白い影のように窓に結露する水滴を眺めていた。しかし夜だけが掻き乱されるのではない。起きていても同じなのだ。ラベルデの一件から数カ月たってもまだ、排気管が炸裂するだけで、ドアがバタンと閉まるだけで、あるいは分厚い本がある仕方である場所に落ちるだけでも、私は不安に震え、妄執に駆られるのだった。
    (p63-64)
    第2章「わが死者にあらず」。小説タイトルの「物が落ちる音」の初出。スペイン語では「落ちる」は「倒れる」でもあるようだ。
     こうして街の一部を失った。あるいはこう言った方がいいかもしれない。私の街の一部が奪われてしまった。通りや歩道が少しずつ閉じていって、しまいには私たちを追い出してしまう、まるでコルタサルの短編小説の部屋のような都市を想像した。
    (p72)
    語り手は、第1章のラベルデと出会ったビリヤード場には行かなくなった・・・この小説はひょっとしたら、ブーム世代のラテンアメリカ作家や作品へのオマージュといった性格もあるのかもしれない。
    1998年、アウラとの娘レティシアが生まれて一年後、語り手はその「奪われた」街を訪れる。第1章最後の襲撃が起こった角の喫茶店に入った語り手。
     そして記憶を手繰って何かの名前を思い出そうとしたが、できなかった。学生時代を通して通い詰めたカフェだというのに、勤務中にはいつでも給仕してくれた女性の名前を思い出せないのだった。「質問していいかな?」
    「何でしょう」
    「リカルド・ラベルデをご存じ?」
    (p77)
    恐らく当初は給仕してくれていた女性のことを聞こうとしていたのだろう。でもどこかで、それがラベルデのことに入れ替わる。そして、この時1年半前のことを誰も記憶していない(ように生活している)ことに驚き、語り手はある決意をする。
    さて、その他に、この小説には「記憶しているままを言えば」とかそういう表現の繰り返しが目立つ。これは公然の真実を描いた小説ではなく、語り手という人物個人の「真実」を書いていこうとする、前に言ったオートフィクションの特質が見える。そうした記憶や真実が各個人別にあるとするなら、その共同体は決して「一」ではない「多」の世界となるだろう。そこには当然齟齬が生じる、生じなくてはならないのだ。あとは肉体表現の細かさもこの小説の特徴の一つだろう。
     断続的な叫び声がする。あるいは叫び声に似たものだ。何の音だかわからなかったし、今もってわからない音が聞こえる。人間のものではない音、人間以上の音、消えゆく生命の音、そして同時に壊れる物体のものでもある音だ。高みから物が落ちる音だ。遮断された、そしてだからこそ永遠に続く音。いつまでも終わることがなく、その日の午後から私の頭の中で鳴り続け、鳴り止もうという気配を見せない音。私の記憶の中で永遠に宙吊りにされ、タオル掛けにかかったタオルのようになっている音。
    (p95)
    先の決意のもと、語り手はラベルデの家に向かう。出てきたのはコンスという家主の女性。そこでラベルデが銃撃される直前に聞いたカセットの中身を聞く。それはラベルデの妻エレーナも乗っていたアメリカン航空カリ行きの飛行機がカリ近郊の山に墜落する際の航空通信だった。
    「鳴り続ける、止まない音」というのは、もはや音でもない、音は断続するから音として認識できるのであって、鳴り止まない音というのは、音を超えた何かだ。
     ひとりの人間の最後の瞬間を盗み聞きすることほど淫らなことはない。本来なら秘密のはずだ。何があっても侵されてはならないはずだ。本来ならその瞬間は死んだ本人とともに死ななければならないはずのものだ。
    (p95)
    第2章の最後で、リカルドとエレーナの娘であるマヤから留守番電話があり、次の第3章で、高地を降りマヤの村へ向かうことになる。

    記憶に縫い交ぜられる匂い
     匂いは、牛糞よりはむしろ木の匂いだったけれども、それは夜のだいぶ遅い時間まで肌に染みついて残ることになる。それだけではなく、マヤ・フリッツとの長い対話と結びついていつまでも残存することになるだろう。
    (p117)
    匂い、またそれに他の感覚が入り混じることは、この小説の頻出するテーマの一つ。アウラもそうだった。次もそんな感じ。
     色に苦い味がついているような気になった。舌先に牧草を乗せたみたいだった。
    (p132)
    ここは既に、マヤの家で見せられたリカルドの父フリオとその父ラベルデ大尉(コロンビア空軍で実力と名声を得ていた)の話の記事になっている。この文はフリオのこと。
    そしてこのリカルドから見れば父と祖父が、空軍の閲覧式での事故に遭遇することになる。フリオは重傷を負った。
     世界が水槽の中からの景色に見えた。
    (p141)
    そして彼は、事故時に見た観客の女の幻覚を見ることになる。
    (2020 12/13)

    第4章「皆、逃げてきた者」
     エレーンはビールを一口飲んだ。時間が経ち、何もかもが起きた後になって彼女は、このビールを、暗い店内を、アルミのカウンターのガラスのショーケースに反射した暮れゆく午後の光を思い出すだろう。あそこがすべての始まりだったと考えるのだろう。しかしその時は、デイル・カートライトの裏のない提案について素早く頭の中で計算したのだった。
    (p166)
    この、物語の筋上の時間と、それから物語全体を再構築している語り手ヤンマラの視点と、それら二重のズレがこういうところで見えてくる。視点人物はエレーンだが、語っているのはヤンマラで、書いているのはバスケス。
    …こうして、エレーンはホームステイ先を変更する(元々のステイ先の家族にはつっけんどんにされたけれど)。そこがラベルデ家で、エレーナ(エレーン?)とリカルドとの出会い、接点がここに語られる。
     私は未来を仕事にしているんですよ、フリッツのお嬢さん。
     我々のこの社会は過去に囚われすぎている。けれどもあなた方グリンゴは過去になど興味を持たない。あなた方は前を見ている。未来にだけ興味を持ちます。
    (p169)
    と、語るのは、先の飛行場「サンタ・アナの悲劇」で出てきた息子のフリオ。ここでは、ラベルデ一家の長として、保険会社に勤めている。どちらがどうとかは言わないけれど、ただ一つ言えるのは、過去に囚われることがなければ、決してこの小説は書かれることがなかった、ということ。
    リカルドは「飛行機パイロットを目指す」という。フリオは反対するが、祖父は賛成し、祖父の名を告げて練習場に入る。祖父とフリオの間の確執が、フリオの顔の傷痕を通して描かれているのが印象深い。
    そして最後の実地研修でエレーンはボゴタを離れ、父親フリオがくれた「百年の孤独」なるとあるジャーナリストが書いた小説は「同じ名前の人物ばかり出てきて退屈」で、「グリーンの最新作を読めるのが羨ましい」とアメリカの祖父母に手紙を書いている。ここでグレアム・グリーンの名前が出てくるのは、作者バスケスが置いた標識なのだろうか(マルケスとグリーンは友達?で、一緒にパナマまで行ったこともある)。
    (2020 12/15)

    第5章「生きる望みはあるか?」。
     幸せの瞬間には悲しみのようなものが私たちの脳裡に去来するものだが、その種の悲しみも感じたものの、それが過ぎ去ると彼女は屈んでリカルドに思い切りキスをした。
    (p195)
     夜に離陸して山々の間を縫って飛んだらアドレナリンがどっと出るんだ。下にはアルミ箔みたいな、溶けた銀が流れ出したみたいな川が見える。月に照らされたマグダレーナ河は、そりゃあ印象的なもんだよ。
    (p213)
    そういえば、第4章から語り手の姿が見えなくなった。例えばp195の文で「…するものだが」と言っている人物は、果たして誰だろう? ひょっとしたら語り手を飛び越えて作者自身かも。
    p213の文はここだけ挙げれば叙情的なところだけれど、このアメリカへの飛行で積んでいるのは麻薬だからなあ。リカルドは承知で積極的に運んでいるし、エレーンはうすうす知っているのだけれど、とりあえず黙認している。そのお金で車(ニッサン)を買ったり、家屋敷(それはちょうど第3章で、語り手とマヤが話し合った家そのもの)を手に入れたり。
     この長いプロセスは、地下水脈のように、地層の細かいずれのように、普段は隠れているものだが、ついに地震が起きてしまった時には、私たちは自分を慰撫するために口にすることを学んだいくつかの言葉を想起するのだ。事故、偶然、そして時には運命という語だ。
    (p243-244)
    第5章の最後は、コカイン(たぶん)を運んで、取引の場に現れた時「当局」の捜査員に取り押さえられ(しかもリカルドは拳銃を一発だけぶち鳴らしそれが捜査員の右腕を貫いた)たところ。そしてp243は既に第6章。人は大人になると自分の行動は自分が決断し、自分が責任を持つことができる、という「幻想」を抱くが、それが崩れる時が来る。
    (2020 12/17)

    空と海、そして街
     アルマジロがもがき始めたけど、わたしはこんな風に、全体重を傾けて水槽の底に押しつけていました。
    (p253)
    このマイク(マイク・バルビエリから取った名前。人間の方のマイクは、エレーンとマヤがボゴタに行く直前に何者かに殺害されている)というアルマジロは、マヤの父リカルドが捕まった時に母のエレーンがついた嘘(リカルドが死んだという)と並行関係に殺される。パイロットが深い海の底に沈んで浮かんでこない、という話に。
     それというのもおそらくは、何を見ても各自がそれぞれに異なったことを思い出し、それぞれ異なった恐れを思い出していたはずだから。相手の過去にズカズカと立ち入るのは失礼だし、場合によっては軽率ですらあると思ったからだろう。というのも、そこにあらずしてあったものはまさに私たちの共通の過去だったからだ。
    (p272)
    語り手とマヤは、例のエスコバールの動物園へ行く。コロンビア全土でテロが頻発していた1980年代、大きな事件の時に他の人は何をしていたのか、のちの個人の物語を描く際にそれを尋ねて埋めて行く。それはオートフィクションという手法と重なり合うものだろう。
     マヤ、海に潜ったことは? と私は訊ねた。訊ねたと思う。とても深く、色が違って見えるほど潜ったことは?
    (p277)
    この最終章は「高く、高く、高く」と題されているけれど、書かれていることは逆に海の底に深く沈むことが多い。この「高く…」も前に出てきた墜落した飛行機のブラックボックス(実際には黒くないというが)のパイロット達の言葉だから実現されることはなかった。
    このブラックボックスを、p277(語り手とマヤが共に寝る)の後にまた聞くことになる。マヤはフロリダに帰っていたエレーンからコロンビアに来ることを知らされ、また父リカルドが死んだわけではなく、捕まって今出獄したところだと知らされる。マヤはその新事実を拒否し、エレーンはどうにかするためにコロンビア行きの飛行機に乗る。そして…
    (という、小説自体はとても巧みで良いのだが、ここまで明らかにしておいて、肝心の最後の一ピースが見つからない。どうして飛行機は墜落させられ、リカルドは殺されたのか?
    リカルドは「この仕事が終われば大金が入る、というようなことを、地図会社のカメラマン、イラゴーリに言っていたというが)

    ここで、語り手は突然ボゴタへ戻る。
     いったいなぜひとつの国がこれだけ隔絶した、隠れた都市を首都に選んだのか不思議でならないのだ。ボゴタ人が閉ざされ、冷たく、人と距離を置きがちなのは彼らのせいではない。街がそんな性格だからだ。
    (p294)
    ちなみにバスケス自身はボゴタの生まれ。
      ある日、夜のしじまに
      尊大にして人多き狂った街が燃えるのを見た、
     とアウレリオ・アルトゥーロの詩が謳ったのだった。
      私はまばたきひとつせず倒壊する街を眺めた
      薔薇の花びらがひづめの下に落ちるように落ちる街。
     アルトゥーロがこれを公刊したのは一九二九年だった。
    (p294 詩行分け編集有り)
    最初の第1章で、詩歌会館のことを書きながら、「この小説はひょっとしたらテーマは詩なのではないか」などと予想した。予想していたよりは詩は出てこなかったが、最後に締めくくるような詩が出てきた。
    そして、予想していたことだが、アウラとレティシアは家を出ていた。マヤという人物を守るために、アウラとレティシアを守れなかった形(マヤや自分を襲った危険に、彼女ら二人を「感染」させないように、と語り手は言っているが…)。レティシアが第二のマヤになるのかもしれない。繰り返す物語。螺旋状に。それを予感させる。
    (2020 12/18)

  • 麻薬犯罪に両親が関わっていた若い女性の人生。父親は捕まり、幼かった少女には亡くなったことにされていた。時が経ち、両親ともに亡くなり1人山の中で養蜂を仕事とし、世界から隔離されたように生きてきた。生きていて出獄した父親の事故に鉢合わせ、重症をおった主人公は、事故で死んだ娘から連絡があり、我々の歴史を知って欲しいと。そういう時代だったからと言われれば、なんか部外者は何も言えない。そういう時代を証言した物語で、まあ、ほんと息苦しい。事柄よりも娘の苦悩が重たすぎる。「私は嘘の中で成長させられた」コロンビア。

  • 文学

  • (後で書きます)

  • 同世代の作家が、麻薬とマフィアが跋扈して危険な時代のコロンビアで生きるとはどういうことだったか、を書いている。バスケスは自分はコロンビアに取り憑かれている、と言ったそうだが、裏の主役はコロンビアであり首都ボゴダだ。
    間接的な語りとすることで、主人公の妻同様「どうしてこの人は過去の事件とリカルド・ラベルデにそこまでこだわるのか」という感想を持ってしまうのだが。
    それはさておきストーリーテリングがうまくてぐいぐい読める。動物園のカバに漂うペーソス。「物が落ちる音」とは何か。コロンビアという国の手触りが良く伝わってくると同時に「南米文学」(カッコつき)という縛りから放たれた現代の文学だ。もっと読みたい。

  • カバが射殺された話から始まる。閉鎖されて久しい動物園から逃げ出したカバが畑を荒らすので撃たれたのだ。その記事を読んだ「私」は、昔つきあいのあった男のことを思い出す。リカルド・ラベルデと会ったのはビリヤード場だった。当時、最優秀の成績で法学士の資格を得た二十六歳の「私」は、最年少教員として大学で教えていた。試験期間で講義が休みに入っていたので毎日そこで時間つぶしをしていたのだ。

    廃墟となった動物園の映像を流すテレビを見ながら誰に聞かせるでもなくリカルドが呟いたのだ。「動物たちはどうするんだろう。(略)やつらにゃ罪はないだろうよ」と。その動物園は公立のものではなく、麻薬王パブロ・エスコバールが作ったものだったが、1993年に殺された後は放置されていた。その後しばらくして二人は一緒にプレイするようになる。

    リカルドは四十八歳。くたびれて見えたのは二十年間入っていた刑務所を出たばかりだったからだ。もとは飛行機のパイロットだった。アメリカにいる妻エレーンを呼び寄せてやり直そうとしていた矢先、妻を乗せた飛行機が墜落した。墜落機のフライトレコーダーを録音したカセットを聞くために一緒に出掛けた建物の近くでリカルドは射殺され、「私」もまた重傷を負う。

    「私」は、教え子だったアウラとの間にレティシアという女の子が生まれたばかりだった。PTSDのせいで講義中に泣き出してしまったり、アウラとの関係を揶揄する落書きが黒板に書かれたり、とそれまで絶好調だった教師生活に暗雲が立ち込める。撃たれた影響で大事なところが機能せずアウラとの間もぎくしゃくしていた。そんな時、リカルドの娘だというマヤから手紙が届く。こちらへ来て父の話を聞かせてほしい、と。

    高地にあるボゴタから、遠く離れたマグダレーナ河近くのラス・アカシアスへ車を走らせた「私」は、マヤがほぼ同い年であることに気づく。自分の知るリカルドの思い出を話す代わりに、マヤから柳行李に詰められた両親についての資料や手紙を見せられる。そこには、70年代当時のアメリカとコロンビアの持ちつ持たれつの関係があった。話は、ここから雑誌の記事や手紙をもとにして「私」が組み立てたマヤの両親の物語へと変わる。

    エレーンは、大学卒業後ジョン・F・ケネディが主唱した平和部隊に応募し、コロンビアにやってくる。下宿先の息子がリカルドだ。リカルドの祖父は軍の英雄で、孫もまたパイロット志望だった。二人の仲は急接近し、妊娠したこともあって結婚。セスナで貨物を運ぶ仕事に就いたリカルドは、妻の仕事先に近い村に土地を買って我が家を建てる。幸せな暮らしは三年間続くが、ある日を境に夫は帰らなくなる。

    『コスタグアナ秘史』では、パナマ運河建設の時代を歴史的背景に用いて、小説に厚みを加えることに成功したバスケスだが、今回は、ベトナム戦争やウォーターゲート事件のあった70年代に的を定めている。当時、アメリカはメキシコからの麻薬密輸を撲滅しようと躍起になっていた。だが、密輸業者は、需要があればどこからか供給先は見つけてこなければならない。それがコロンビアだった。

    国家による開発途上国支援のためのプロジェクトを隠れ蓑に隊員の一部が麻薬の密輸を考えた。配属先の奥地の住人に麻薬の栽培と抽出法を教え、製品を小型機に乗せてレーダー網にかからないルートで運ばせ、現地に待機した買い手に直接手渡すというものだ。それには、セスナ機を飛ばすことのできる人間を必要とした。飛行時間が少なく、家の建設資金を稼ぎたくても人を乗せることができないリカルドにとって、それは渡りに船だった。

    妻と子のためを思ってした行為が裏目に出てしまう。しかも二十年後、人生をやり直そうとしたところへ妻を乗せた飛行機が墜落する。普通では絶対に手に入れることのできないフライトレコーダーの録音カセットを手に入れるためにリカルドの払った代償が、あの襲撃だったということか。しかも、それは最愛の娘から残されたたった一人の肉親を奪うことになってしまう。なんという虚しさ。なんという徒労感だろう。

    それだけではない。冒頭の「私」の、四十になろうとしたばかりなのに、すっかりくたびれ果てた中年男の疲れ切った様子はどうだ。回想から始まった物語は、ふつう語り出した時点に戻って終わるものだ。そうすることで、たとえどんなに酷い時間を過ごしたにせよ、過去は過去として葬られ、今はこうして現在を生きている、という安堵のようなものがそれまで語り手と共に物語を生きていた読者の心のうちに生じる。

    ところが、この小説は「私」がマヤの家からボゴタに帰った時点で終わっている。時はそこで止まったままなのだ。生きている者には時間が過ぎてゆくが、死んだ者にとって時計はそこで止まったままだ。マヤと訪れた動物園で見たカバの記憶が、雑誌の記事によって想起されるまで、「私」はリカルド・ラベルデのことを思い出すことさえなかった。人は忘れられることで二度死ぬ、と言われているのに。

    「世界はひとりきりで歩き回るにはあまりにも危険な場所だと、だから誰かが家で待っていてくれないと、そして帰りが遅くなったら心配して探しに出てくれる、そんな人がいないとやっていけないのだと言い張ってみようか?」というのが無人の部屋を見たとき「私」の心をよぎった最後の思いである。読者は「私」がこれから歩くだろう人生を知っているが、語り手は知らない。惨い結末である。

  • 素晴らしい!素晴らしい本。記憶について考える。共有した記憶。人はひとりでは決してない。何かを護ることは記憶を作ることだ。誰かを護るために過去を作ることもあるということ。もう一度最初から読み返さなくては。

  • 初バスケス。物が落ちるとはそいうい事か。あの時代を共有すること。失くしたものを埋める出会い。

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著者プロフィール

1973年、コロンビアの首都ボゴタに生まれる。ロサリオ大学で法学を学び、その後フランスに留学、ソルボンヌ大学でラテンアメリカ文学の博士課程に進む。23歳のときに最初の小説『人』を、25歳のときに第二作『人と嘆願者アリーナ』を出版した。2001年には短篇集『すべての聖人たちの愛人』を、2004年には『密告者』(本書)を刊行。他の小説作品に、『コスタグアナ秘史』(2007年、邦訳・久野量一訳、水声社)、『物が落ちる音』(2011年、アルファグアラ賞受賞、邦訳・柳原孝敦訳、松籟社)、『名声』(2013年)、『廃墟の形』(2015年)がある。また、ノンフィクション『歪曲の芸術』(2009 年)でシモン・ボリーバル・ジャーナリズム賞を受賞している。

「2017年 『密告者』 で使われていた紹介文から引用しています。」

フアン・ガブリエル・バスケスの作品

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