現代思想のゆくえ

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  • 彩流社
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  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784882022701

作品紹介・あらすじ

懲りない哲学者小阪修平がどんどん考える。価値の相対主義の中で。全共闘からポストモダンまで。ヘーゲルからポスト構造主義まで。おたくからエコロジーまで。マンガからナチズム、スターリン主義まで。差異の哲学を超えて。

感想・レビュー・書評

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  • 講義をもとにしておりやさしい語り口。
    デリダ、マルクス、フーコー、

    第3章 知の可能性と不可能性

    ◆フーコー 真理内在論の否定
    あるシステムは閉ざされており、真理をそのシステムの内部で考えるのが伝統的哲学の真理観。
    せめて外部にある事実との対応で考えるのが実証主義の真理観。
    しかし、このシステム(書物)にはそれを語っている人間がいるというのが、ニーチェ以降の課題である。
    つまり、言ってることを言われた内容だけでは考えないということが、現代思想の発想の一つ。

    Establishment                   ⇒(村上先生のすすめと重なる)
    論文をどれだけ発表したか、
    引用文献がどのくらいあるか
    =形式的な権威主義

    Anything goes
    現代思想は懐疑的であると同時に、何でもありという感じ

    ケインズ主義
    =修正資本主義
    政府が有効需要を創出する必要があり、たとえ無駄な事業でも投資の波及効果=相乗効果 によって経済は上向きになるという思想

    近代の主客図式
    デカルトに始まる。客観とは投げられたもの、すなわち意識の表象という意味だった。デカルトにおいてもobjectivaは表象という意味で使われている。
    客観と普遍の違いは、認識する側との関係で考えるか、それとも対象そのものの本姓の側からより上位/下位という関係で見るかというとこ。
    フーコー;
    17世紀と18世紀は古典主義の時代
    19世紀フランス大革命以降が狭い意味での近代
    エピステーメ=ある時代、時代の総合知の意味で使われる。逆にいうと知は時代から独立したものではなく、時代に拘束されておりその時代のエピステーメに制約されている。パラダイム論じゃないか?カンギレムから吹き込まれた。
    古典主義は;表象する、というのは世界の存在と一致するんだ、こういう知の構造をしていたと『言葉ともの』でフーコー
          でもほんとうは見る視点あるいは画家の視点を前提としている、が絵のなかには隠されている。    ⇒逆遠近法に影響与えてないか?
          あたかも世界がこの表象されたもののなかで透明であり、しかも厚みというものを持たないような形で表象の関係が作られている。
          対象を純粋に見るものであるというちと対象との関係
          カント:対象自体の分離
          ヘーゲル:歴史をとおしての対象と知の一体化の理念
          マルクス主義へ、とちと対象の関係は組み替えられてきた
    19世紀:絵(世界)のなかにありながら、絵の外にもあるという存在。つまり人間。世界。その世界から抜け出た内面、人格、主体、意志をもっている、という図式が、近代の知の図式であるんだとフーコー
     例:中村雄二郎『臨床の知とは何か』現代思想は人間主義&歴史主義を批判するという理念で誕生した
                                           ⇒*理念とは直接は論証不可能だがその全体を支えるもの
    『知の変貌 構造的知性のために』構造主義の流行
     ヨーロッパの人間と歴史に冠する理念の典型は、進化樹=進化していて偉い
     これに対し、ヨーロッパ以外の他者に観察者として接する。そこで他者の文化のなかに構造を読み取ってく。
     構造;意識可能なことではなく、不可視の構造のほうがものごとを客観的に見る場合に重要だ、という観察者の視点
                                                         ⇒観察 が問題となる
    知は距離を含んだものであり、その距離の取り方が知の性格を決める
     レヴィ=ストロースであればその文化に住み込まなければならない、干渉してはならない、観察には
     構造主義は最初に近代の知を批判したけれども、対象に距離をおくということは構造主義のなかになおかつ強く残っていた
      フロイトは治療相手に、愛情の転移が起こって、惚れられてしまうということを拒否しようとした距離の保ち方だった
    文化人類学は不徹底ならざるを得ない位置にいる

    再・中村雄二郎『臨床の知とは何か』流行も変わったんだ
       人々の客観とか観察するということに信頼が薄らいだのだと感じさせる
    中沢新一 神話 ⇔ 臨床
     近代の知がいやになって中世に戻ってしまうのか??と
    真理、語りえぬことを語る、でポパーへ


    ◆ポパー/科学の客観性
    ドイツ社会学における実証主義論争。その後の社会科学の方法論に大きな影響を与えた論争。

    (批判的合理主義)ポパー vs. アドルノ、ハーバーマス(ヘーゲル、マルクス主義で批判的に弁証法を使おうと考えた。弁証法と総体性の観点からの社会批判)
     アドルノ;フランクフルト学派の指導的人物。社会に対する批判的立場を強調した学派。ホルクハイマーなど
     ハーバーマス;アドルノの後継者、コミニケーション論の見地を取り入れ批判的社会理論を展開。日本でも、社会に対して批判的な知識人の位置に立ちたい人によく援用される理論。
     ポパー;学問の出発点は「観察することではなくて、問題を算出する特別な意味をもった観察なのであります」とのこと
         仮説と批判による、反証主義的学問進化論       ⇒社会学なんてまさにそう、らしい
    ポパーの前提;真理は文のなかにない、外の事実があり、批判とは事実と合っていないということか、仮説の前提から演繹的に推論した結果矛盾が導かれるという論理的な批判のどちらかだということになる。実は、
    ポパーの科学観の背景は;事実に対する特殊な考え方であり、タルツキーの真理概念を引用して述べているが、その原型は初期ウィトゲンシュタインの論理空間という考えまで辿ることができる          ⇒ウィトゲンシュタイン
     *論理空間…すべての可能性は論理にとっての事実となる。いかなる物も可能な自体の空間のうちにある(真実(≒物)<論理可能性空間)。論理空間は、空間のなかにある物のあらゆる可能な自体を言い表した命題の集合である。
    世界は可能な事態の総和であり、現在の世界だけではない。
     事実;○は何時に何処にいた。
     論理空間の命題;○は□だ 
    が対応しているかどうかで真が決まる、ということ。

    ヴィトは論理空間、すなわち文の集合から排除していった、価値観を内包した、あるいは、形而上学を。
     「死は人生の出来事にあらず」「神秘があるのではない、世界が存在すること自体が神秘なのである」ハイデガ的。神秘の中にわれらがいる
     
    で、ポパーの客観性は、世界が確定されうる事実に還元されるときに、成立しうるということをいった。
     たとえば行動主義;知ってるようにワトソン始祖。現在の心理学の主流。
    ⇔ しかし明確になりうることだけでは単純な<知>になってしまう。結局部分的な知にとどまるであろう、一方で相対主義をかえって広げるだろう、と。個の総和は全体に等しくない!

       *フロイト:こころというものを説明可能だ、と考えたこと。因果関係で説明し尽くそうとした。
        近代の論理

    ヴィトの辿りついた地平は、正確な知 これの理念を厳密に追い求めた極限的な帰結の一つだった
                     この論理空間で言われることにはまったく「意味」がないから
                      せいぜい起こった出来事を記録するだけの意味しかない
                      意味をこめて何かを言おうとすれば、こういう単純な事実をはみでる何かを言わなければならない
    具体的に;
    あなたは健康です
     「あなた」というのは文のなかで明らかにならない
      言い手がそこにいて名指されなければ意味を持たない
       この場合であなた、というときと、別の場合であなた、というときはぜんぜんそれは違うことば
     健康の 社会的コンテクスト
         言われる相手が自分のことを、無意識(フロイト?、ラカンの他者としての無意識か)を含めてどう思っているかという要素
         有効性を勘案した結果による、語用論的な要素

    系…無矛盾な考えの内部を囲む枠組み
     知はオープンシステムになるべきだという結論 ref.『言語という神』
    解釈体系 系は内部に閉じようとする力が働く like Marxism  自己(ユングでは集団的な経験の集積に起源をもつ集団的な無意識のなかの元型が想定されている。無意識の中心である自己と、表面的な自我が統一されていくことが夢の教えることであり、また望ましいことだ、と。)の有り様を見て、完全な自己と不完全な自己を対照させていく系列を生む

    1 ヘーゲルの系
     絶対精神 KGBなどの悲惨な経験が人類の体験の総和となり、絶対精神へと辿る
     歴史という理念のもとにすべてを説明しようとする体系
     説明の仕方が弁証法的なわけ
     ヘーゲルを批判してもなかなかこの系の外に出ることはできない
     重要な道具;思惟と存在の一致という原則
              そこではかれる言葉というのは、人間の思惟の代理であって存在と一致するんだ、が隠された道具だて
             ちと対象が一致しなければならないという要請    ⇒進化史的な見方だと思う
    2 Marxismの系
     重要な道具;思惟と存在の関係を裏返してヘーゲルから受け継いだ
     『ドイツ・イデオロギー』エンゲルス 唯物史観「意識とは意識された存在である」
     意識=知    ⇔    <存在> 
                     歴史
      ことば     ←     階級、階級間の利害関係
                     生産関係
                    つまり物質的な利害関係

           ※左右の関係は一致する、と
     一番大風呂敷に展開した言語の系           ⇒パラダイム、Popperなら疑似科学
    この基礎にあった<人間 歴史>の理念の一致、<思惟 存在>の一致という前提を批判するのが現代思想。
    デリダは発話する人間の内面あるいは意図と、発話されたことばが一致するかを批判した。
     これとこれ、これと本、本と本を読む人、の間にいろんなずれを作っていく差異の運動。これが多義性をもたらす、という立場。
    体系の理念と道具だてに対する批判。

    3 ヴィトゲンシュタインの系
     もっとも狭い意味で閉じられた系というのが初期ヴィトゲンシュタインの論考の論理空間
     思惟(論理空間のなかの文)   ⇔   存在(事実)
                    ※まったく「無関係」by小阪
    その対応関係によって、「真理」が成立するという思想。
     ヘーゲルの系には外部はない。存在と一致した知は知だけで存在する。
      例:いま知と関係のないような存在がどっかにあったとする(バークリーなら知覚してないので存在しない)そんな存在も我々は歴史を通じて知る。
         あるいは自然というのは実は眠れる精神である。
          人間の働きによってだんだん自然のなかに眠る精神が明かされていく、そういう形でこれは外部を持たない系。知らないものまで、可知の領域に入れてしまう。
     ヴィトの系は外部を持っているが、外部と知の関係は、非常に偶然的。
     ある命題が真であるかどうかは、たまたまある命題が外部にある事実と一致するかどうかによってっされる。

    小阪の考えるオープンシステムの知はこの両者の間にある系だと。
     それは外部にその出入りをもった系。
      中村さんの展開を追いつつ批判室sつ、以下へ

    中村雄二郎
     「臨床の知」の契機;
      1 コスモロジー 有機的なまとまりをもった固有の場所としての宇宙
      2 シンボリズム 象徴による思考。事物の多義性に適した論理形態
      3 パフォーマンス 身振り

    根拠;我々の知識というのはいろいろな無意識というか、ことばでは明確に言い表せないものの中に根をもっている。               ⇒帰納法の信頼 ユングかぁ
    ことばの持つ力というのは、系のなかの無矛盾性ではなく、
    そこに孕まれている問題に対して張り巡らされた寝の広さによって決まる、と小阪。  ⇒社会問題を救いとる知の系が優先されている
     語りえぬもの…世界、身体、無意識 が知の存立に不可欠であるという認識が中島によってなされていて小阪も異論なし。

    ◆マイケル・ポランニー 知と身体性 物理学からの科学哲学
    『暗黙知の次元』
     弟。兄は経済人類学を提唱。社会的な意味の交換という視点で捉える。
     「人間の知識について再考するときの私の出発点は、われわれは語ることができるよりも多くのことを知ることができる」
     ヴィトの反対。

    1 身体のプロセスが、自分の外に拡張され、自分が身体を通じてじつはこの対象の中にもぐりこんでいるんだ、
    という議論。近代主義的な知は「見る」、「距離を含む」とはぶつかる。
      身体を延長することによって対象のなかにこっちが入り込むというかたち。これが暗黙知の理論の第一支点。                ⇒こすりそうになる車の運転やチェロの弓の例
    2 「われわれは、同じように、外面的な人の貌からさまざまな気分を認知する。しかし、何をしるしにしてそれを認知するのか。われわれはまったくあいまいにしか述べることができない。」
     自分が身体のなかに、自分が語ることができる以上の知を持っている。これが暗黙知の第二の支点。
     「事実」という言葉は実証主義のlogical atomismの意味合いを含んでいる。「事態、事象」がそうではない。事実はカントの認識主体によって分類整理さsれた独立的な経験的事実だ。
    ∴生物は複雑であり多重の階層構造を成している、や、無意識をどう対象にくりこんでいくのか、という視野を持つ。

    課題;
    1 身体の外延だけで世界に達することはできるのか?
    2 自己同一性の問題を抱えることにならないか。
       自己同一性から逃れるという言い方も現代思想の一つのテーマ。
        自分の身体のありかたを人に押し付けてしまうという問題。
         ナチはアーリア人としての自己同一性を求めた。デリダはユダヤ人だからこれを崩す。
         精神科医は分裂病を社会的文脈から照らしてみないと診断できない。規準は時代のうちにしかない。
          こういった時代的社会的交換がうまくいってないことが医師側の身体知によって即座に察知される。

    他者性
     知は身体に基盤を持つ
      ものごとを身体的な立場で捕らえるのは、自分の身体から外延していき、そこから発露する自己同一性への居直りをどうクリアしていくか。
     対象というのは単なる対象ではなくて、同時に相手であるという理解が現代の知の立脚点。

    再びフーコー『臨床医学の誕生』
     病人が誰かということをといつめるのではなく、いろんな病名の病気を集めることが重要であった。
     健康になってしまうと健康の無名性のなかに人びとのもつ固有性はなくなっていくから。

    相対主義であり、知の内部系自体が疑われている。
     知の不可能性が宣告されている。





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著者プロフィール

1947年、岡山県津山市に生まれる。福岡でだいたい育つ。’79年から執筆活動をはじめ、駿台予備学校講師(論文)も行う。評論家・哲学者とよばれることもあった。2007年没。著書に『思想としての全共闘世代』(筑摩書房(ちくま新書)、2006年)『考える技法』(PHP研究所(PHP新書)、2005年)『絵と文章でわかりやすい!図解雑学 現代思想』(ナツメ社、2004年)『ガイドブック哲学の基礎の基礎』(講談社(講談社+α文庫)、2003年)『考える力がつく論文の書き方』(大和書房、2002年)『そうだったのか現代思想』(講談社(講談社+α文庫)、2002年)『現代社会のゆくえ』(彩流社、2000年)『自分というもんだい』(大和書房、1997年)『哲学通になる本』(オーエス出版、1997年)『小阪の合格小論文』(東京書籍、1997年)『ことばの行方・終末をめぐる思想』(芸文社、1997年)『はじめて読む現代思想 1 水源編』(芸文社、1995年)『はじめて読む現代思想 2 展開編』(芸文社、1995年)『日曜日の図書館』(小山 慶太 他との共著、増進会出版社(Z会出版)、1995年)『市民社会と理念の解体』(彩流社、1994年)『コンテンポラリー・ファイル』(彩流社、1994年)『現代思想のゆくえ』(彩流社、1994年)『自己から世界へ』(小阪 修平 他著、春秋社、1992年)『歴史的実践の構想力』(廣松 渉との共著、作品社、1991年)『ORGAN 10』(現代書館、1991年)『社会主義の解体』(小阪 修平 他編、現代書館、1990年)『ORGAN 9:社会主義の解体1990』(小阪 修平 他、現代書館、1990年)『わかりたいあなたのための現代思想・入門』(小阪 修平 他著、JICC出版局、1989年、宝島社文庫ー宝島社、2000年)『非在の海』(小阪 修平著、河出書房新社、1988年)『オルガン 3』(現代書館、1987年)『オルガン 2:欲望の市民社会論』(小阪 修平 他編、現代書館、1987年)『思考のレクチュール 5:地平としての時間』(小阪 修平編、作品社、1987年)『思考のレクチュール 4:記号の死』(小阪 修平編、作品社、1986年)『思考のレクチュール 3:存在への往還』(小阪 修平編、作品社、1986年)『オルガン 1現代思想批判』(小阪 修平 他編 現代書館、1986年)『思考のレクチュール 2: 生命のざわめき』(小阪修平 編著、作品社、1986年)『わかりたいあなたのための現代思想入門 2 日本編』(小阪 修平 他著、JICC出版局、1986年、1990年)『現代社会批判 の彼方へ(との対話 5)』(見田 宗介との共著、作品社、1986年)『現代思想批判 言語という神(との対話 4)』(栗本 慎一郎との共著、作品社、1985年)『イラスト西洋哲学史』(小阪修平著、ひさうち みちお画、JICC出版局、1984年)『資本論 FOR BEGINNERSシリーズ イラスト版オリジナル 17』(ダヴィッド・スミス著、フィル・エバンス画、小阪修平訳、現代書館、1983年)『マルクス FOR BEGINNERSシリーズ イラスト版オリジナル 3』(エドワルド・リウス著、小阪修平訳、現代書館、1980年)などがある。

「2000年 『現代社会のゆくえ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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