- Amazon.co.jp ・本 (428ページ)
- / ISBN・EAN: 9784883202775
感想・レビュー・書評
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2019年1月③
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前半は「陽明学」の始祖、王陽明の生涯を紹介。
後半は日本での陽明学の系譜を羅列しており、西郷隆盛や安岡正篤に大きくページを割いている。
王陽明は、義に篤く、文人であると共に、武人でもある。そこが文武両道とする日本の風土にマッチした(一方、中国では文人が圧倒的に重用されている)。
陽明学の「格物一致」、「知合一致」、「心即理」を解説している。
本書の一番の特徴
誰でも良心を持っており、本来、良心と天理は一致している。
それを行える人間を聖人とし、従って、人間だれでも聖人になる道が開けている、とする「良致」の思想を、神秘主義的なゲーテやクリシュナムルティ、シュタイナーをひきながら、共通点を比較しているところと思う。
道教的な色合いも濃い印象。 -
陽明学の思想の根本である、「心即理」「知行合一」「到良知」について、陽明の出生から死までの歴史を振り返りながら、書かれた本。この本から、自分の中の心の「軸」があるかないか、が非常に重要である事が分かり、志に裏打ちされた「軸」がある事で、「知行合一」がより促進されると理解できる。
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読破は困難でしたが、読後の満足感は大きいです。
自発的に手に取って読むことなど考えられない本でしたが、縁があって本書と出会うことができ、感謝しています。
もう少し整理してからきちんと感想を書きたいと思いますが、王陽明氏の教えは、ひとつひとつがスルメのように味わい深く、私の中にじわじわとしみるように浸透していくのを感じることができます。
心即理
致良知
四句教
知行合一
など。これらを知っておくだけでも、自らをナビゲートする方位磁石を得たようです。
しかしながら、このレビューの中で分かりやすい言葉で書くには、更なるそしゃくが必要ですので、今日のところはこれにて勘弁してください。
Wikipedia等でも上記の言葉は検索できます。
ご興味のある方はご一読ください。
ただし、読むのはとても疲れます。 -
一部 王陽明の生涯を紹介、二部 陽明学の思想を解説、三部日本の陽明学派の系譜の3部構成で陽明学の全体がよくわかる。特に私は三部の日本ではどんな人が陽明学を学び、伝わっていったのかに興味がありました。「安岡の陽明学と三島の陽明学はどこが違うのか」等考えながら読みました。「自分自身の理解はどこまでか」とか自分に問いながら読みました。多くの資料から読みやすく書かれていると思います。
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何とか読了。とりあえず、心に残ったところを残しておく。レビューはまたあとで書く。。。予定。
陽明は34歳のころになって聖人になるための<立志>の大切さを訴え始めている。「人はまず、必ず聖人になるのだという志を立てなければならない」と主張し、陽明のものに門人が多く集まり始めた。
第一部 第一章:立志修行時代
聖人が聖人である理由は、その心が天理と純粋に一体で、人欲の混入がないからであって、それはまるで純金の純金である理由が色合いが完全で、銅や鉛が混じっていないのと同じです。人は、純粋に天理と一体の境地にまで到達すれば、正しく聖人であることは、金が完全な色合いとなれば、純金であるのと同様です。
第二章:受難と悟りの時代
ある人が、道悦という熱心な心学者に、何のために心学修業をしているのか質問した。道悦が答えて言った。「心学に入ります前は、何事につけても、いちいち為に、為にと、『為』を付けて考えたものでした。仕事に精を出すのは妻子を養うためである、信用を得たいためであるといったように、いつもこの『為』という言葉に縛られ、追っかけまわされて、窮屈なせわしない思いばかりをしていました。ところが、心学の道に入ってからは、この『為』という曲者にとらわれずに工夫修行をするようになりました。ただなんとなく勤めるばかり励むばかりです。
人生最大の病患は傲慢の一言に尽きる
第四章:陽明学の確立
陽明学とは?と尋ねられて簡単に答えるとすれば、「心を陶冶する、鍛えることの大切さを主張した教え」「万物一体の考え方を理解し、心の中の葛藤を無くし、不動心を確立する教え」と答えることができる。
第二部 第一章:陽明学とは
「心がすなわち理なのです。この心以外、他にどんな事物があり、どんな理があるというのですか」
「(前略)たとえば、父に仕える場合ですが、父の体に孝の理を求めたりしません。君には仕えるにしても、君の体に忠の理を求めたりしません。(中略)理と言うのはすべて心の中にあるものなのです。心がすなわち理なのです。」
「この心が私欲に覆われていない状態が、すなわち天理(人為でない点の正しい道理)そのものなのです。それ以上外から何かを付け加える必要はないのです。」
「この天理そのままの純な心を発揮して、父に仕えればそれがすなわち孝なのです。発揮して君に仕えれば、それがすなわち忠なのです。さらに友と交わり民を収める時に発したら、それがすなわち信であり仁なのです。ですから、ただこの心から人欲を取り除いて天理を発揮するように努力しさえすれば、それでいいのです」
権威は教会や旧約聖書にあるのではなく、我が内なる心にある、というのである。なぜなら、人は心が見ようとしたものしか見えないからである。その人の心が見るのであって、目が見るのではない。哲学者はその思想の心で物を見る。宗教家はその宗教の教義で物を見る。この世が金だと信じる人は、そういう価値観で物を見てしまう。心のあり方次第で、物の見え方が違ってくるということになる。ということは、心が浄化されなければ、経典に書いてあるはずの真理すら見えてこないということになる。
本を読んで愛についてのの知識をたくさん吸収することで、本当に愛を理解できるものだろうか。啓蒙には限界がある。川を汚す人は、いけないと知っていて、それでもゴミを捨ててしまう。環境が汚れるのは心が汚れているからなのだ。功利主義、利己主義が心から無くならない限り、川のゴミを取り除いてもまた汚されてしまうだろう。一人一人が心の汚れを取り除き、日々大掃除しなければならない。良知を発揮できるようになるように、心を陶冶(鍛練)しなければならない。
心と理に区別を設けることは、人間と自然、我と汝の間に区別を設けることと同じである。私欲が生じると、心と理に区別が生じ、人間は自然に対立し、他人に敵対する関係となってしまう。私欲は心の平安をかき乱し、自己分裂の危機をもたらし、判断力を狂わせていく。だから陽明は私欲を取り除くことの大切さを主張するのだ。
第二章:心即理
功利主義に慣れて「利益という動機」で物を見ることが習慣となった私たちには、心の中で常に比較し測定して、物や人々を見る、というより評価してしまうのだ。「それがいったい何の役に立つんだ?」という言葉の背後には、比較し測定する心が働いているのだ。言いかえれば、常に比較し測定している心がない時、また偏見や恐怖によって心が曇らされていない健全な心の状態のときのみ、私たちは「あるがままのもの」を見ることができるのである。
私たちの考えは、通常、既に世の中に出来上がっている、あるいはすでに自分の中にある考え方の枠の中で展開する。知らないうちに一定の思考パターンにならされてしまっているのだ。(中略)頭だけで、あるいは知的理解だけで、世界や宇宙の謎や、人間の謎を解き明かせると思っていると大間違いだ。認識する、理解するという行為には、心情を含めて体全体で関わらなくてはならない。
第三章:知行合一
良知に目覚めることは、権威主義・教条主義からの決別を意味する。(中略)良知に目覚めることは、主体性確立への第一歩であり、自由への目覚めである。
(「致良知」とは)究極的には「自分を見る時のように他人を見、我が家を見る時のように国を見、やがては天地万物を自分と一体のものとみなす」ということができるようになる境地である。
第四章:致良知
欲望を抑えること、抑圧することは、陽明学の勧めるところではない。人欲や悪い想念、良くない思いを無くすことはもちろん奨励する。感情を全面的に抑えつけることは、良い思い、善を喜ぶ思い、人を愛する思いまで否定してしまうことになる。人の為になる、人の役に立つことを喜ぶことも感情体験であり、他人が喜ぶところを見て満足するのも感情体験である。魂も心も生き生きとした状態に保つためにも、感情をただただ抑圧することは百害あって一利なしである。
心の本体はもともと天理であるから、そのなすところはもともと礼に合致しないはずはないのです。だから、この心こそが君の真の自己なのです。真の自己は肉体の統率者です。だから真の自己がなければ、肉体はないのです。まことにこれがあれば生き、これがなければ死ぬのです。
第六章:陽明学と感情
一番印象に残ったのが、第四章:致良知の、この一節。
信じる、という言葉がよく使われる。たとえば、こんな使われ方をしている。「私は神の存在を信じている」「私はキリストの実在を信じている」等である。
厳密にいえば、こういう場合は「信じたい」というべきであろう。なぜなら、もし神の存在を信じているのであれば、その人は神の教えを実践し、まるで神のごとくに生きていなければならないからだ。そうでないのは、信じきれていないから、神のごとくに生きることができないのである。(中略)多くの人々は、いや地上に生きている人々のほとんどが、信じたくても信じきれないで生きている、というのが現実だ。本当に信じて生きている人が、果たして何人いるだろうか。
つまりは、多くの人々は、心の力を、心にある<良知>の存在を信じきれないのだ。心の機能としての信じる力が弱いからだ。しかし、陽明の教えを実践していかれるなら、きっと心の力を回復できるのである。