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- / ISBN・EAN: 9784884184377
作品紹介・あらすじ
過ぎていく時間の愛おしさ、自然の圧倒的な不思議さと力強さを描く。『どこいったん』『くらやみこわいよ』のジョン・クラッセンが絵を描いた傑作絵本が、柴田元幸の訳で登場。
感想・レビュー・書評
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なんか、可もなく不可もなく…
タイトルの通りのお話で…
盛り上がる訳でもなく…
淡々と時間の経過を描いていく。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
かつて木々が生えていた場所に家が建てられた。
「けれども両側には、野生の木が生えた林があった。カエデ、ニレ、トネリコ、エノキ、ハコヤナギ。」
その家には男の子と女の子とその父親が暮らしていた。
父親はマメに芝を刈り、芽を抜いた。
やがて子どもたちが大きくなり家を出て行った。
一人暮らしするようになった父親は歳をとり、庭と芝の手入れが重荷になった。
やがて父親は家を去った。
ここまではよくありそうな話。
木々は古い家の周りでもふたたび生長し始めた。
若木は家を風から守った。それどころか、まるで壊れやすいものを捧げ持つように、少しずつ、空へと押し上げた。
一見、家という記憶を木々が守っているようにも見えるが、木々がその家をいけにえとして捧げているようにも見える。この両義性が本書のエピソードに厚みを与える。
「ツリーハウス」という形容で本書は終わっているが、さらにその先が想像される。
束になった木々が家を飲み込み、木質化したこぶとなって1つの巨大な幹を形成し、そこがいわば地上から2つめの土台となり、さらに天に向かって旺盛に枝を伸ばす。
そのこぶの内側に人間の造った家があろうなどとは誰も想像ができない。 -
「どこいったん」の著者ジョンクラッセンの絵本です。
チョッピり切なく。
絵が素敵です^ ^ -
森に挟まれた、父・息子・娘の3人が暮らす家。森の木々は版図を広げようと毎年種を飛ばし、父は他の草木1本たりとも生えないよう芝生の手入れを続ける。年月が過ぎ、老いた父は町へ引っ越し、森と父のひそかな戦いも終焉を迎える。買い手のつかない家の敷地に、やがて木々が芽吹き始める……。
図書館本。
「どこいったん」等とはカラーがガラリと違う、静かな大人の絵本。ふりがなの無い漢字がズラズラと出てくるし、文体も完全に大人向け。自分で読むなら小学校高学年以上かな?
アメリカらしい広々とした風景に魅了される。この“広々”の原因はあまり良いものではないのだけれど。
ワイエス好きな人、こういう風景いかがでしょう? -
直ぐに読み終わるけど、この物語にはどれだけの時間の経過が描かれているのだろう。人が居なくなって手入れの行き届かない家は自然の力に飲み込まれてゆく。木に持ち上げられたその家の歴史を想う時、戻らない時間に対する切なさと同時に愛おしさがじわじわと迫ってくる。
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とある土地に一軒の家が建っていた。
母親はいなく、子供二人と父親が住んでいた。
子供たちは近くの林で遊び、父親は仕事から帰って来て庭の芝生をいつもきれいに整えるのに精を出していた。
近くの林から毎年しつこく種が飛んでくるが、父親は芝生をきれいに保っていた。
そして、子供たちは成長し、家を出て行った。
それでも、父親は子供たちが帰ってきたときに見苦しくないようにか、庭の芝生をきれいにしていた。
そして、父親も年老いてだんだんと芝生の手入れが大変になっていった。
飛んできた種が地面にはびこり出す。
父親はこの家を売りに出して、子供たちに会いに行こうと街へ引っ越した。
たまに帰って来ては家を整えたり、看板を直したりしていたが、買い手はつかなかった。
そうしているうちに時間は経ち、父親もやってこなくなった。
そのころには、植物が家を覆い、徐々に押上げ、家は木の上に昇っていたのだった。
忘れられた家が自然に侵されるというのは分かるけれど、物悲しい。
もう少し楽しい話を期待していたせいか。
意図的に人物の顔を描かなかったとか。
特に芝を大事にしていた父親、家を後にしたあとは子供たちに暖かく迎え入れられたのだろうか。
そこが気になる。 -
2016/02/25
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絵は、長谷川義史さんの翻訳で知られる『どこいったん』ノジョン・クラッセン。
まるれ映画を観ているような綺麗な絵本。
誰も住まなくなった家が蔦や苔に覆われていく朽ちていく様子は目にしたことがあるけれど、
木の種が飛んできて家を少しずつ浮かせていくという全く別の展開で、ちょっとロマンチックだった。 -
絵本というより詩画集。
絵画は全く門外漢だが、最後の場面の構図には凄みがあると思った。
柴田元幸の作品





