修身教授録 (Chi chi-select)

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  • 致知出版社
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  • Amazon.co.jp ・本 (531ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784884741723

感想・レビュー・書評

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  • 国定の修身の教科書を良しとせず、自身で項目を立て、授業を行ったことがすごい。自分で一つの体系を立てるにはその十倍は学んでいなければならないと思うので。

    ちょっと生い立ちがあれで自分の道徳観は置いておいて、生き方の本を読むとサービスについて考えが広がることが多い。接客つまり人と接する時にはその人の人生観がどうしても現れる。今ある、目の前の事、目の前の人にどう接するか。そこにその人が現れざるを得ない。
    教えることと学ぶこともある意味人と接することで、二人の人の間に起こる何かが接客の本質である。そういう視点からも興味深く読みました。

    ・われわれ人間は自分がここに人間として生をうけたことに対して、多少なりとも感謝の念の起こらない間は、真に人生を生きるものとは言いがたいと思うのです。それはちょうど、たとえ食券は貰ったとしても、それと引き換えにパンの貰えることを知っていなければ、食券も単なる一片の紙片と違わないでしょう。

    ・たとえばマラソン競争などにしても、諸君らはその全体の距離なりコースなりを、あらかじめよく知っていればこそ、最後まで頑張りもきくのですが、もし決勝点も分からず、またそこへいく道行きも、果たしてどの道を行ってよいやら分からなかったとしたら、いかに走れと言われても、最後まで頑張り通すことはできないでしょう。

    ・たとえば諸君が、少し遅れて食堂へ行ったために、ご飯が足りないとしましょう。三杯食べたが、もう一杯食べないことには、どうも腹の虫がおさまらないというような場合、いつものように担当者を呼んで、ちょっと文句を言おうとしたのを「イヤちょうどよい機会だから、一つ我慢してみよう」と決心して、我慢するんです。
    ところが、人間の気分というものは妙なもので、一杯いや半杯のご飯でも、その足りないことを他人のせいにしている間はなかなか我慢のしにくいものです。ところが心機一転して、「どの程度こらえることができるか、一つ試してみよう」と、積極的にこれに対処するとなると、それ程でもないものです。

    ・たとえば今卑近な例をあげるとして、仮にここに守口大根がつくられているとして、もしそれを粕漬として売り出せば、他にはない名古屋名物となりますが、それをそうしないで煮て食べたとしたら、それは普通の大根程の値打ちもないことになってしまいます。
    このようにすべての物事は、そのものの意味を認めることの深さに応じて、その価値は実現せられるのであります。一個のものでさえそうです。いわんや一人の人間の生命に至っては、なるほどその寿命としては一応限度がないわけではありませんが、しかもその意義に至っては、実に無限と言ってもよいでしょう。

    ・もし梯子段を上に登ることばかり考えて、そのどこかに踏みとどまって鉱石を掘ることに着手しない限り、一番上の階段まで登って、たとえそれが金鉱のある場所だとしても、その人は一塊の金鉱すらわが手には入らないわけです。
    これに反して、仮に身は最下の段階にいたとしても、もしそれまで梯子段の上の方ばかりにつけていた眼の向きを変えて、真っすぐわが眼前の鉱石の層に向って、力の限りハンマーをふるって掘りかけたとしたら、たとえそれは金鉱や銀鉱ではないとしても、そこには確実に何らかの鉱石が掘り出されるわけであります。すなわちその鉱石の層が鉛ならば、そこに掘り出されるものは鉛であり、またその鉱石の層が鉄鉱ならば、そこには確実に鉄鉱を掘り出すことができるわけであります。

    ・なるほどわれわれは、維新前にはかくの如き人々を多く持っていたのです。あるいは藤樹先生と言い、あるいは梅岩先生、尊徳翁と言い、近くは松陰先生と言い、その他枚挙に暇ないほどであります。
    しかるに明治以後国民教育の制度が完備するに至って以来、かえって私たちは国民教育者として、身をもって一道を切り開いた一人の巨人あるを知らないのであります。

    ・松陰先生が、いかに優しかったかという一つの逸話として、十一、二歳の小さな子どもが、書物挟みといって、今日の鞄の代わりに板の間に本をはさんで、それを肩からつるして帰る時、先生はご自身に見送って出られて、手ずからこれを肩に掛けてやられて、「無事に帰って明日またおいでよ」と言って、軽く背中を叩いてやられたということです。

    ・自分がからだをもって処理し、解決したことのみが、真に自己の力となる。そしてかような事柄と事柄の間に、内面的な脈略があることが分かりだしたとき、そこに人格的統一もできるというものです。だが教室では、こういう教育はできません。教室でできることは、せいぜいその図面を示す程度のことです。

    ・人間も自己を築くには、道具やこつが必要です。この場合道具とは読書であり、こつとは実行をいうのです。この二つの呼吸がぴったり合うところに、真の人間はできあがるのです。

    ・人生は、ただ一回のマラソン競争みたいなものです。勝敗の決は一生にただ一回人生の終わりにあるだけです。しかしマラソン競争と考えている間は、まだ心にゆるみが出ます。人生が、50メートルの短距離競走だと分かってくると、人間も凄みが加わってくるんですが。

    ・池田師範には、博物方面に出色な卒業者が多いようです。それはあそこには、検定出身ではあるが堀勝といって、なかなかしっかりした先生がいられるからです。諸君らもこのように、他の学校の教師から、「あそこには誰がいる」と噂されるくらいの人間にならねばいけないのです。

    ・大事なのは、このような社会上の地位の上下というものは、必ずしもその人の、人物の真価によって決まるものではないということです。むしろそれよりも、その人の学歴とか、あるいは年齢というような、種々の社会的な約束によって決まる場合の方が多いと言ってよいでしょう。
    また実際問題としては、一応そうするより外ないとも言えるのです。それというのも、人間の価値いかんというようなことは、人によって見方も違って、なかなか決定しにくい事柄だからです。そこで今その人の人物の価値を標準にして、尊敬するしないということになると、社会の秩序というものは保ちにくくなるのです。

    ・苦しみに遭って自暴自棄に陥るとき、人間は必ず内面的に堕落する。…同時に、その苦しみに堪えて、これを打ち越えたとき、その苦しみは必ずその人を大成せしめる。 ―ペスタロッチー

    ・人間苦しい目に出遭ったら、自分をそういう目に遭わせた人を恨むよりも、自分のこれまでの歩みの誤っていたことに気がつかねばなりません。かくして初めて自分の道も開けるのです。また人間の内面的な強さや、しなやかさも、かくして初めて鍛えられるのです。

    ・ただ現在自分の眼前に、ちょこなんとして腰かけている子どもたちに話しているだけでなく、その背後には、常に二十年、三十年の後、かれらが起ち上がって活躍する姿を思い浮かべて語る、という趣きがなくてはならぬでしょう。すなわち諸君らが、かくあれかしと思う姿をその心中に思い浮かべつつ、教えなくてはならぬでしょう。

    ・人間も精神的に生きるんでなくて、物質的に生きるなら、少なくとも数十万、否、百万円(現在の数十億円)の金を動かすんでなくてはやり甲斐はないでしょう。少なくとも私だったらそうですね。諸君!しっかりしなくちゃいけないですよ。それには何と言ってもまず読書から始めるんですね。

    ・人生を深く生きるということは、自分の苦しみ、すなわち色々な不平や不満煩悶などを、ぐっと噛みしめて行くことによって、始めのうちは、こんな不幸な目に出合うのは自分だけだと思い、そこでそのことに関連のある人々に対して、怒りや怨みごころを抱いていたが、しだいにそうした苦悩を噛みしめていくことによって、かような悩みや苦しみを持っているのは、決して自分一人ではないということが分かり出して来るのです。そして広い世間には、自分と同じような苦しみに悩んでいる人が、いかに多いかということがしだいに分かり出して来て、さらに、それらの人々の悩みや苦しみに比べれば、自分の現在の悩みや苦しみの如きは、それほど大したものでもなかったということが、分かり出して来るのです。
    かように、自分の悩みや苦しみを噛みしめていくことによって、周囲の人々、さらにはこの広い世間には、いかほど多くの人々が、どれほど深い悩みや苦しみをなめているかということに思い至るわけです。私には、人生を深く生きると言うても、実はこの外にないと思うのです。したがって人生を生きることの深さは、実は人生を知ることの深さであり、人生を内面的に洞察することの深さと申してもよいでしょう。

    ・批判的態度というものは、ちょっと考えますといかにも鋭そうですが、実際はその人が大して欲のない証拠です。ちょうど聖人に対するのに、その容貌を見ないで、臀部を見ているのと同じです。
    聖人にも肛門はあります。しかしそういう見方は、相手を傷つけるというよりも、むしろ自己そのものを傷つける態度です。

  • 「リーダーシップ開発と倫理・価値観」クラスの時に初めて読んだ1冊。ちょっとでも社会で生きることを向上させたい方にどうか読んでほしい1冊。星は5つでは足りない。

    P.35)まず人を教えるということは、実は教えるもの自身が常に求め学びつつけなければ、真に教えることはできないのであります。

    P.36)単に教科の内容を教えることだけでも、実に容易ならざる準備と研究とを要するわけですが、さらに眼を転じて、教育の眼目である相手の魂に火をつけて、その全人格を導くということになれば、私たちは教師の道が、実に果てしないことに思い至らしめられるのであります。

    P.51)なるほど時には人の話によって感激して、自分も志を立てねばならぬと思うこともありましょう。しかしそのような、単に受け身的にその場で受けた感激の程度では、じきに消え去るのであります。たとえば今この時間の講義にしても、仮に教場にいる間は多少感じるところがあったとしても、一度授業がすんで食堂へでも急ぐとなると、もういつのまにやら忘れてしまう人が多かろうと思うのです。

    P.61)読書が、われわれの人生に対する意義は、一口で言ったら結局、「心の食物」という言葉がもっともよく当たると思うのです。(中略)ひとたび「心の食物」ということになると、われわれは平生それに対して、果たしてどれほどの養分を与えていると言えるでしょうか。

    P.64)諸君らにして真に大志を抱くならば、人から読書を奨められているようではいけないと思うのです。すなわち人から言われるまでもなく、自らすすんで何を読んだらよいかを、先生にお尋ねすべきでしょう。

    P.70)人を知る標準として、第一には、それがいかなる人を師匠としているか、ということであり、第二には、その人がいかなることをもって、自分の一生の目標としているかということであり、第三には、その人が今日までいかなることをして来たかということ、すなわちその人の今日までの経歴であります。そして第四には、その人の愛読書がいかなるものかということであり、そして最後がその人の友人いかんということであります。

    P.92)われわれ人間の価値は、その人がこの二度とない人生の意義をいかほどまで自覚するか、その自覚の深さに比例すると言ってもよいでしょう。人生の意義に目覚めて、自分の生涯の生を確立することこそ、真の意味における「立志」というものでしょう。

    P.124)いわゆるその場限りの教育なら、それでもよいでしょうが、しかしそうした教育はその場限りで消え失せる他ないでしょう。つまり子どもたちを、単にその一時間、一時間を基準にしてしか見ない教育は、その効果もまた、一時間、一時間で消え去る外ないでしょう。

    P.199)もし正式司会者のない場合には、心ある人が、それまで一度も話さない人には「どうです。○○さんなど、この問題についてはどうお考えですか」というふうに、話のキッカケを提供するのは、老練な人の心遣いというものでしょう。

    P.221)たとえその人の人柄は立派でありましても、世の中の苦労をしたことのない人は、どうしても十分な察しとか、思いやりのできないところがあるものです。つまり世の中のことは、実地に自ら経験したことでないと、察しがつきにくいものだからです。

    ~第2部~
    P.291) 人生の真の出発は、志を立てることによって始まると考える。

    P.293)諸君らがこの私から何物かを得られると共に、私自身もまた、諸君らの組をもつことによってそこに他のいずれの組をもっても得られないような独特な収穫を、私自身の心の上に得なければならぬ。

    P.295)真に志を立てるためには、どうしても人生を見通すような、大きな見識が必要だ。

    P.296) そもそも真の志とは、自分の心の奥底に潜在しつつ、常にその念頭に現れて、自己を導き、自己を奨励するものでなければならぬのです書物を読んで感心したり、また人から話を聞いて、その時だけ感動しても、しばらくたつとけろりと忘れ去るようでは未だもって真の志というわけにはいかないのです。

    P.299)諸君らのうちに、果たして自分の死後においてその実現を期するほどの遠大な志を内に抱いて、その日常生活の歩みを進めている人が、どれほどあるでしょうか?

    P.303) そもそもこの世の中のことというものは、たいていのことは多少の例外があるものですが、この「人生二度なし」という真理のみは、古来ただ一つの例外すらないのです。しかしながら、この明白な事実に対して、諸君たちは、果たしてどの程度に感じているでしょうか?

    P.306) 生前まことにその精神の生きていた人は、たとえその肉体が亡びても、ちょうど鐘の余韻が寂々?として残るように、その精神は必ずや死後も残る。

    P.308) なるほど諸君らは平生、あるいは成績が良かったとか、友人との間に面白くないことがあったとか、そういうことばかりを気にしている人が多かろうと思います。実際こういう種類の事柄は、家に帰ってからもなかなか忘れず、時には日を重ねても忘れずにいることも少なくないでしょう。だが今日一日、わが声明をいかに過ごしたかということについて、日々深刻に省みつつある人は、諸君らの間にも、あまりないではないかと思います。

    P.310) われわれ人間は、普通のままにほおっておかれれば、自分の生命に対して愛情の念を起こすようになるのは、まず人生の半ばをすぎかけてからのことであえり、40歳前後からといってもよいでしょう。

    P.311)そもそも真実の教育というものは、自分の失敗とつまずきとを、後に来る人々に、再び繰り返さすに忍びないという一念から起こると言ってもよいでしょう。

    P.316) 二度とない人生をこの世に受けた以上、その程度の人の書いた書物を、最高の書物ででもあるかに考えて、しかも一たび合格すれば、それで鬼の首でも取ったかのように喜んでいることは、それこそ志が小さいというか、それとも欲がないというか、さらには人間がちとおめでたいというか、とにかく情けない次第。
    今日われわれ日本人として、いやしくも学問修養を志す以上、われわれのもつ偉大な先人の踏まれた足跡を、自分も一歩なりとも踏もうと努め、たとえ一足でも、それににじり寄ろうとする思いがなくてはならぬ。

    P.317) (書物を出すことについて。)人間が20年もの歳月を1つの事に従事して、その程度のことのできないということがあるでしょうか?できないというのは、本当にする気がないからです。

    P.331)気品というものは、かように、その人の最も深いところから発するもの。気品というものほど、われわれ人間にとって得難いものは、他にないかもしれません。というのも気品というものは、これをその根本から申せば、単に一代だけでは、十分には得られないともいえる。

    P.332) 真の気品というものは、一代の修養のみでは、その完成に達しえないほどに根深いものであると同時に、他面また気品をみにつけるには、依然として修養により心を清める以外にその途のないことが明らかなわけです。

    P.332)(気品を身につけるためには)私の考えでは、内心のけがれを除く。つまり一人を慎むことではないかと思うのです。

    P.338)真に大きく成長してやまない魂というものは、たとえ幾つになろうと、どこかに一脈純粋な素朴さを失わないものです。

    P.339)自分の情熱をふかめていくには、一体どうしたらよいか。それはやはり偉人の伝記を読むとか、あるいは優れた芸術品に接することが、大きな力になる。そしてそれを浄化するには、宗教および哲学が多いに役立つ。

    P.347) すべての物事は、理想論をとくだけなら、誰だって一応できるものですが、いざ実行ということになると、なかなか容易ではない。実行が容易でない原因は、理想を掲げたものの、一体どこから着手したらよいか、その着手点というものをつかんでいないから。

    P.348)知識とか技能というような、いわば外面的な事柄については、一般的には短所を補うよりも、むしろ長所を伸ばすべき。自分の性格と言うような内面的な問題になると、長所を伸ばすよりも、まず欠点を矯正すべきでないか。
    前者は、欠点を補う努力は、そのわりに効果が少ないが、これに反して長所の方は、わずかな努力でも大いに伸びる。

    P.358) 真の修養というものは、単に本を読んだだけでできるものではなく、書物を読んだところで、わが身に実行して初めて真の修養となる。
    一口に書物といっても、まずは伝記から始めるのがよい。

    P.366)現在の生活を深めるには、まず相手の気持ちを察することからはじめるべき。

    P.370)「一時一事」の工夫ということについては、なるべき一時に2つ以上のことを考えたり、あるいは仕事をしないように、ということです。

    P.373) 迷うということは、人間が1つのことに没頭できなくて、あれこれと取捨の決定に躊躇することをいう。ですから、人間いったん取捨に迷いだすと、どんなに自分の得意なことでも苦痛をなり悩みとなってくるもの。

    P.385)偉業を成し遂げるような人は、第一に、自分のやりたいことはすぐにやる。つまり自分が本当にしたいと思ったことは、何者をなげうってもただちにそれをやる。たとえば、本が読みたくなれば、たとえそれが真夜中でも、すぐに飛び起きて読むといった調子です。
    そしてもう一つは、夢中になるということです。夢中になることのできない人間は、どうも駄目なようですね。それから、もう一つは、最後までやり抜くということです。

    P.386) われわれは時計を見て、人間はどうしても8時間寝なければならないと思っている。

    P.400) いかに立派な教えを聞いても、ははあなるほど、とその場で思っても、その場限りに終わり、一度教場を出ればたちまち元の木阿弥に返ってしまうようなら、何年学校に行ったところで、ただ卒業という形式的な資格を得るだけで、自分の人格内容というものは、一向増さないわけです。

    P.416) 人間を鍛えていく土台として下座行。下坐行(げざぎょう)を積んだ人んでなければ、人間のほうとうの確かさの保証はできない。そもそも下坐行とは、一般の人々よりも下位につくこと。真の値打ちよりも2、3段下がった位置に身を置き、しかもそれが行といわれる以上、修養に励むということ。自分の傲慢心が打ち砕かれる。

    P.420)大方の諸君は恵まれすぎている、常にこの点に心を用いて、例えば普通なら当然下級生のすべき仕事の1つ2つを人知れず継続するというようなことなどは、1つの工夫ではないかと思うのです。

    P.422)自分の教え子たちがどのように伸びていくかに最大の楽しみいを見出すものでなくてはならない。

    卒業後の指導。ほとんど行われていないのは、やれないのではなくやらないから。結局は、教師自身に卒業生を導くだけの力と親切心が足りない。

    P.449)仮にここに、その人の真価以上、実力以上の地位についている人があったとして、このように真価以上の地位にいるんだと判断せられることそのことが、すでに世の中の公平なことを示しているものと言えましょう。つまりあの男は、実力以上に遇せられているぞと陰口を言われることで、ちゃんとマイナスされているわけです。

    P.457) 何年坐禅しても、結局は何も役に立たない。なまじいの自慢の種になるだけ。坐禅の後で、ああ、などとあくびなんかして、やれやれ今日もこれですんだわい、と考えている程度では、何十年坐禅しても、結局何もしないのと同じこと。要するに平生が大切なのです。

    P.462)人間は、この世の中を愉快に過ごそうと思ったら、なるべく人に喜ばれるように、さらには人を喜ばすように努力することです。つまり自分の欲を多少切り縮めて、少しでも人の為になるように努力するということです。一つのリンゴを半分に分けにして、二人が半分ずつ食べるのもむろんよいことでしょうが、時には「今日はお前みんなおあがり。近頃お利口になったご褒美さ」とでも言ってみたら、どんなもんでしょう。(中略)まず人の一倍半の働きをして、報酬は二割減をもってまんぞくするという辺に、心の腰を据えてかかるんですね。それには、差し当たっては、まず掃除当番などで一つ試みられるのがよいでしょう。するとこの人生が、たちまちにして面白くなり出しますから。
    人の1.5倍働いて、報酬は2割減をもって満足するというあたりに、心の腰をすえてかかるべし。それには、掃除当番などを1つ試みるべき。この人生がたちまちに面白くなる。

    P.466)1つの道理を本当につかむということは、単に書物を読んでこれを知ったとか、あるいは頭の中で考えて会得したとかいう程度のことでは、真実には得られないのであって、そのためには、どうしても深刻な現実な事実に当面することによってのみ、初めて真にわがものとなるのです。

    P.475) 先方からくれ、と言われてあげるのは面白くないでしょう。こちらから積極的に、おい、やるぜ、と申し出たら愉快。仕事も同じで、いつも先方の要求や予想よりも2~3割あまりの努力をするつもりでいると気持ちがすがすがしくなる。
    まじめな生活に大切なのは、力の多少ではなく、根本の決心・覚悟が問題。また、時間を無駄にしないことが大切。

    P.498)(批判的態度について)ちょうど食物などでも、かれこれと好き嫌いをならべられている間は、まだ真に上野迫っているヒトではないわけです。人間が真にせっぱ詰まったならば、そういうぜいたくなことは言うていられないはずです。

    P.499)ところで、このような批評的、傍観的な立場を脱するには、人は何らかの意味で、苦労をする必要があるようです。そこでまた、真に人を教えるというには、自ら自己の欠点を除き得た人、あるいはむしろ常にわが欠点を除去しようと努力しつつある人にして、初めてできることでしょう。

    始めから欠点のない人というのはいない。そう言う人は真に人を導けない、というのも、自分自身に、自分の欠点を克服した経験をもたないからです。

  • 親切な方々にお世話になって、いろいろ面倒をみていただいたら、こちらでも、背筋をのばさないといけないのですが、これもすぐにはできないものなので。

  •  人間には上面だけではなく、自己の内側を鍛えねばならない。そのためには、実行と書物を読むことの繰り返し。そうやって、自己の内面を鍛える。
     プラスなことには、必ずマイナスがある。物事には表があり、裏がある。世の中は正直である。
     基本的なことかもしれないが、それを信三先生は分かりやすく、熱く語っている。高みを目指すなら自己を磨くこと他なし。

  • 戦前、著者により師範学校生徒に対し行われた、昭和12年3月から昭和14年4月にわたる2年間の講義(1時間×79回分)をまとめたもの。今でいえば道徳の授業に当たるのかもしれないが、リーダーシップや倫理、哲学など人間として、あるいは教育者として必要とされる態度や心構えについて、述べている。純粋に知識を効率的に伝えることを主眼に置いた現在の学校教育とは異なり、人格そのものの形成に重きを置いた、すばらしい講義だと思う。参考となった。

    「教育は、次の時代にわれわれに代わって、この国家をその双肩に担って、民族の使命を実現してくれるような、力強い国民を作り出すことの外ないのです」p29
    「今諸君らに申せば、一体どうしたら自分は国民教育界のために、多少なりとも貢献し得るような人間になれるかと、常に考えるということでしょう。人生の意義については、かねがね申してきたように、自分の生涯の歩みが、自己の職責を通して、どこまで国家社会のお役に立ち得るかということでしょう」p57
    「諸君らが、近い将来において一学級の担任教師となった場合、諸君らの受け持つ学級は、諸君が受け持っている限り、天下何人もこれを受け持つことはできないのです。たとえ文部大臣といえども、文部大臣の地位にとどまる限り、断じて諸君の学級の担任者にはなれないのです。すなわり九千万の同胞のうち、諸君以外に諸君の学級を教える人はいないのです」p58
    「(読書の重要性)諸君は、差し当たってまず「一日読まざれば一日衰える」と覚悟されるがよいでしょう。一般に小(中)学校の先生は、卒業後五、六年もたてば、もう「す」が入り出すと言われますが、教師に「す」が入りかけるのは、何も卒業後五、六年たって初めて始まることではなくて、その兆しは、すでに在校中に始まっていると言えましょう」p65
    「われわれの個人としての使命は、必ずや何らかの意味において、民族の使命と結びつかねばならぬわけであります」p90
    「大声で生徒を叱らねばならぬということは、それ自身、その人の貫禄の足りない何よりの証拠です。つまりその先生が、真に偉大な人格であったならば、何ら叱らずとも門弟たちは心から悦服するはずであります」p130
    「われわれの学問の目的は「国家のためにどれだけ真にお役に立つ人間になれるか」ということです。どれほど深く、またどれほど永く。人間も自分の肉体の死後、なお多少でも国家のお役に立つことができたら、まずは人間と生まれてきた本懐というものでしょう」p140
    「気品というものは、人間の修養上、最大の難物と言ってよい。それ以外の事柄は、大体生涯をかければ、必ずできるものですが、この気品という問題だけは、容易にそうとは言えないのです。そこでどうしても、諸君くらいの若さのうちから深く考えて、本腰にならぬことには、とうていだめと言ってよいでしょう」p148
    「自分はなるべく喋らないようにして、できるだけ聞き役に回るという、根本の心がけに変わりはありませんが、もう一つ大事なことは、一座のうちで誰か一人が話していたら、他の人々はそれに耳を傾けて、他のところで、また一人が喋るというようなことをしないということです。つまり一座のうちで、一人の人が話かけたら、もう他の人は、自分のそばにいる人を相手に、コソコソと話したりなどしないということです。そしてこの一事が守られているか否かによって、その地域の人々の教養というか、たしなみの程度はわかると思うのです。そこで当然のことながら、とくに座談会などの際には、一人であまり何回か喋らないようにして、できるだけ全員が、最低一度は話す機会がもてるようにしたいものです」p198
    「目上の人に対して卑屈な人間ほどかえって、目下の人に対して多くは放漫になりやすいということであります」p205
    「大事な点は、相手の人物がその真価とか実力の点で、自分より上に立つだけの値打ちがあろうがあるまいが、そういうことのいかんにかかわらず、とにかく相手の地位にふさわしいだけの敬意を払うように、ということです。ですから時には、相手の人物が自分より劣っていると考えられ、また周囲の人々も、内心それを認めているような場合でも、とにかく相手が地位の上で上位者である限り、それ相応の敬意を欠いてはならぬということであります。これはこう言ってしまえば、ただこれだけのことですが、しかし実際にわが身の上の問題となりますと、誰でもたやすくできるとは言えないのであります」p211
    「世の中というものは、秩序の世界であり、秩序の世界というものは、必ず上下の関係によって成り立つものです」p212
    「そもそも人間というものは、情熱を失わない間だけが、真に生きているといってもよいのです」p227
    「人間の真の強さというものは、人生のどん底から起き上がってくるところに、初めて得られるものです。人間もどん底から起ち上ってきた人でなければ、真に偉大な人とは言えないでしょう」p232
    「(生徒に志を起こさす)志とは、これまでぼんやりと眠っていた一人の人間が、急に眼をひらいて起ち上がり、自己の道を歩き出すということだからです。今日わが国の教育上最も大きな欠陥は、結局生徒たちに、このような志が与えられていない点にあるでしょう。何年、否十何年も学校に通いながら、生徒たちの魂は、ついにその眠りから醒めないままで、学校を卒業するのが、大部分という有様です。ですから、現在の学校教育は、まるで麻酔薬で眠りに陥っている人間に、相手かまわず、やたらに食物を食わせようとしているようなものです。人間は眠りから醒めれば、起つなと言っても起ち上がり、歩くなと言っても歩き出さずにはいないものです、食物にしても、食うなと言っても貪り食わずにはいられなくなるのです」p236
    「(夢中になること)夢中になることのできない人間は、どうも駄目なようですね」p385

  • 明治生まれの祖父がよく「修身」と言っていた。何のことかわからずに聞いていたが、10歳の時に「ノンちゃん雲にのる」を読んで、かつては「終身」と呼ばれる授業があることを知った。しかし、その内容については、わからないままだった。

    これを読むと、まさしく終身の授業を戦前の大学生とともに受けている気がする。今の子どもたちにも、修身の授業があっても良いのではないか。むしろそれがないことが、国家の存亡にも影響している気がする。

    「品は人間一代のみの修養では、その完成に達し得ないほど根深い。それと同時に、依然としてこころを清めるしか道はない。諸君たちが修養して得られた気品は、子孫にも伝わる」

    「技術面は長所を伸ばし、内面は短所を矯正する」

    など、各章珠玉のことばが並ぶ。

  • 読みながらまるで板書してくれた学生と一緒に授業を受けているような感覚になる。

    言葉はわかりやすく解説してくれているうえに、内容はおそろしく人生を生きる上で
    大切なこと、つまずきやすいところ、気をつけなければいけないことを示してくれている。

    自分自身が指摘されているようで身につまされることもしばしばある。
     
     いかに日々、良い種を蒔き続けられるか、良い花か、悪い花かはすべて自分次第であってそれが分かり始めるのが40をすぎたころからおぼろげに気づき始めた。
    この本を40後半で出会えて本当に良かった、アンダーラインを引いた箇所だけ書き出してみたがそこだけ読んだだけで身が引き締まる思いです。

    一講座は10分程度で読めるし、項目がわかりやすいので気になった箇所だけ読み返すのが良いと思う。
    全体を読むにはなかなか大変ですがそれだけの価値は十二分にある
    (2年分の中身の濃い授業を受けるのと同義)

  • 戦前に大阪天王寺師範学校で教鞭を執り「国民教育の師父」と謳われた哲学者・森信三氏の講義録。氏の後継者育成に賭ける覚悟、端的に本質を突く金言の数々、志に生きるとは何たるかを時代と空間を超えて学ぶことができる。本書の内容は若人より中年になったほうが身につまされる思いで響くであろう。むしろ若人は残念ながら氏の言葉の思いや価値に気付くことは難しいかもしれない。しかし、ほんの一握りの琴線を響かせた若者が国を引っ張る傑出たる豪傑になるのかもしれない。これほど優れた思想家が旧満州の建国大学に召集され、国家としては太平洋戦争に突入していったことは誠に遺憾。まさに老若男女問わない教育の大切さを痛感する。

  • ずっと手元にあったものの、500ページを超えるボリュームのため、途中で中断を繰り返してきた。正月休みも利用して、このたび一気に読了。
    80年以上前の話にもかかわらず、今にも十分通用する内容ばかり。普遍の真理とは、こういうことを言うのだろう。
    しかも、高尚・抽象的な表現ではなく、平易なことばで、すっと入ってくる。
    中には耳が痛いような内容もあり、自身の生き方や意識を猛省させられる。
    今更ではあるが、せめて学生時代〜20代前半に出会いたかった本。
    本書の続編も出版されたので、そちらも続けて読んでみたい。

  • 1 学年始めの挨拶:天命、好悪の感情を交えない
    2 人間と生まれて:真の意義の自覚、人生に感謝
    3 生をこの国土にうけて
    4 生を教育に求めて
    5 教育者の道:教師自身が学び続ける
    6 人生の始終:40までは修業時代
    7 志学
    8 学問・修養の目標
    9 読書:心の食物
    10 尚友:人を知る標準
    11 人と禽獣と異なるゆえん
    12 捨欲即大欲:天下の人々の欲を思いやる
    13 使命の道
    14 真実の生活
    15 諸君らの将来
    16 一道をひらく者(Ⅰ)
    17 一道をひらく者(Ⅱ)
    18 人を植える道
    19 松陰先生の片鱗:真の偉人は叱ったりせず、自ら
    服する
    20 雑話
    21 血・育ち・教え
    22 鍛錬道(Ⅰ)
    23 鍛錬道(Ⅱ)
    24 性欲の問題
    25 質問
    26 仕事の処理:自分の修養の第一義
     とにかく手をつける、一気呵成にやる
    27 成形の功徳
    28 一人一研究
    29 対話について:なるべく聞き役に回る
    30 謙遜と卑屈:人は自ら信ずるところがあってこそ、初めて真に謙遜になる
    31 上位者に対する心得
    32 目下の人に対する心得
    33 ペスタロッチー断片
    34 国民教育の眼目
    35 為政への関心
    36 誠
    37 死生の問題
    38 小学教師の理想
    39 教育の窮極
    40 わかれの言葉

    1 挨拶:人生の真の出発は、志を立てることによって始まる
    2 立志
    3 人生二度なし
    4 生命の愛惜
    5 一つの目標
    6 意地と凝り性
    7 大志を抱け
    8 気品:慎独
    9 情熱
    10 三十年
    11 長所と短所 知識と技能→長所を伸ばす、内面的な問題→欠点を矯正
    12 偉人のいろいろ
    13 伝記を読む時期:35~40前後
    14 人生の深さ
    15 一時一事:自分が現在なさなければならぬ事以外のことは、すべてこれを振り捨てる
    16 良寛戒語
    17 質問
    18 忍耐
    19 自修の人
    20 老木の実
    21 故人に尽くす一つの途
    22 下坐行:自分を人よりも一段と低い位置に身を置く
    23 卒業後の指導
    24 出処進退
    25 最善観
    26 二種の苦労人
    27 世の中は正直
    28 平常心是道:なるべく寒いと言わない
     高僧と凡僧の別は、座禅を解いてからの言動でわかる
    29 人生は妙味津々
    30 試験について
    31 真面目:真の面目
    32 教育と礼
    33 敬について
    34 ねばり:仕事を完成させるための秘訣
    35 批評的態度というもの
    36 一日の意味:人間は毎日逆境に処する際の心構えをしなくてはいけない
    もしその日の予定がその日のうちに果たせなかったら、「自分の一生もまたかくの如し」と思うべき。
    37 ペスタロッチー
    38 置土産
    39 わかれの言葉

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