いかに生くべきか

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  • / ISBN・EAN: 9784884745875

感想・レビュー・書評

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    ── 安岡 正篤《いかに生くべきか ~ 東洋倫理概論 201109016 致知出版社》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4884745876
     
    ── 安岡 正篤《運命を創る ~ 人間学講話 19851210 プレジデント社》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4833412659
     
     安岡 正篤  18980213 大阪 東京 19831213 85 /陽明学/19450815 玉音放送文案添削
    “瓠堂忌”1213
    http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%B0%C2%B2%AC+%C0%B5%C6%C6
     
     人生の価値とは何ですか?
    https://q.hatena.ne.jp/1624910296(No.1 20210629 14:49:15)
     墓碑銘の条件 ~ Conditions of epitaph ~
     
    (20210629)
     

  • ”第4回、第5回人間塾の課題図書。知識・見識不足のため読み進めるのに難儀したが、同志とともになんとか最後のページまでたどりついた。「第二部 敬義 ?中年の倫理?」はおりにふれ、読み返したい。

    ※「敬義」の解説(p.24より)
     易の文言伝にある有名な「敬以って内を直(ただ)し、義以って外を方(ただ)す」(敬以直内義以方外)から採ったのであって、理想の着実な実現、すなわち内面的にも外面的にも正しい生活を築いてゆかねばならぬ中年の倫理にもっとも剴切な言葉と思う。

    <読書メモ>
    ・早年の倫理と志尚(p.24)
     志は「こころざし」という名詞と共に、「こころざす」という動詞にも使われ、文字そのものが士と心との二字に分かつことができて、すこぶる味わいが深い。(略)
     尚は「たっとぶ」と訓(よ)んで、??(あこがれ)を含んでいる。

    ★中年の倫理と敬義(p.24)
     (前略)易の文言伝にある有名な「敬以って内を直(ただ)し、義以って外を方(ただ)す」(敬以直内義以方外)から採ったのであって、理想の着実な実現、すなわち内面的にも外面的にも正しい生活を築いてゆかねばならぬ中年の倫理にもっとも剴切な言葉と思う。

    ・晩年の倫理と立命(p.25)
     晩年の倫理の眼目は躊躇なく「立命」の二字に決した。命とは絶対自慊の造化の行(はたら)きの、その「やむにやまれずして然る」あるいは「然る所以を知らずして然る」意味を表す語であって、立命とはかくの如き造化に超詣すること、自律自由になりきることを言う。
     人の晩年は理想の自己実現の結果、すなわち地でなければならぬのだから、これに越す命名はあるまいと常に考えていた。


    ★中年の生活に「独の生活」の一章を立てて、その中に(一)自然との深契、(ニ)読書尚友を論じたことは、特に私が意を用いたところであって、今までの倫理書は多く自己と他人および社会国家との関係に重きを置いて、自己の純粋内面生活を軽々に付している感がある。深く古人の心を探れば、むしろ独の生活こそ倫理の秘奥なのである。(p.26)
     #ふむ、深い。

    ・ぜひとも我々は自らの徳性を養い、才能を磨かねばならぬ。その極(きわみ)は広く自己の徳沢を他に及ぼし、縁に随(したが)ってできるだけ、多くの人物を活用し、各々その存在の意義を全うさせていく(博施備物)ようにならなければならない。(p.46)


    ★明師良友は我々の隠れたる内在の性に通ずる道を拓き、我々をこの道に鞭撻する。我は何であるか。真実何を有つ(もつ)かを徹見せしめる。
     (略)人の潜在的能力も明師良友を待ってさまざまな風情を現じ、徳音を発する。(p.62)
    ★我々に親の亡いことは避けられぬ不幸である。しかし、師友のないことは不幸の上に不徳ではあるまいか。我々はやがて親とならねばならむ。それと共に、我々はまた何人かの、できるならば国人の、衆生の師友たらねばならぬのである。(p.70)

    #上の2ヶ所から学んだのは、師となり、友となることが使命である、ということ。
    #友となり励まし、師となり導いていきたい。自分のチームからはじめるとしても、やがて部署全体、会社全体、業界全体へと波及させていきたい。
    #それが、4月で入社20年となった自分に課せられた使命だろう。
    #→営業そのもののことはまだわからない。ここはむしろ師につき、友に謙虚に学ぼう、
    #一方で、自分の得意なこと(チームビルディングや心理学、マーケティング)については、営業部全体に情報をプッシュしよう。横ぐしで人を繋ぎ、噂を巻き起こし、会社全体にまで相乗効果をあげていこう。
    #マーケ本棚の設置と入荷お知らせメルマガリストの作成。勉強会の立ち上げをやる。
    #一年続ければ、きっと同志や弟子がみつかるはず。

    ##★1年半たって改めて読んでみたが、この域にはまったく踏み込めていない。師友を真摯に求めたか?自らが師友にならんとしているか?(131103)


    ・昔から純真な若人であって熱烈に英雄哲人に私淑せぬはない。(p.74)
     #この言葉の意味を、息子に伝えよう。

    ★それには英雄哲人に限らず、世人が見て以て小人とし、奸物と罵り、凡愚と貶(おと)し、迂拙と嗤う者の裡(うら)に、幾多の考うべき問題は横たわっている。英雄哲人も人間であってみれば、もとより全い人格とは言えぬ。我々はただ至醇な情緒を通じ、精厳な知慧によって、正しく、深く、あらゆる人生を観察して、這裡(しゃり)に向上の機を把握せねばならぬ。
     #我以外皆我師也 に通じる心意気!

    ・人間にとって最悪のことは死である。「生きながらの死」である。人間は常に何事かをなし、何ものかを創造してゆこうとする力に溢れておらねばならない。(略)
     官能の要求は自然の事実である。「目は色を、耳は声を、口は味を、すべて欲求は実現」を欲するものである。この自然の事実を何ら否定すべき理由はない。(略)
     欲求あっての克己である。欲求を無視して克己のあるべき道理はない。(p.98-99)
     #第4回人間塾で同グループの方々がとりあげていた箇所。
     #★「欲求あっての克己である」

    ・男は要するに分化発展を本領とするから、とにかく成長する、進歩する、複雑になる。人格生活も開拓される。これに比して女は統一潜蔵を本領とするから、男のように伸びない。永遠の純真であると共に、永遠の素朴である。それだけ傷(そこな)われざる造化の徳と共に、発展せざる?開拓されざる粗野を有(も)つことを免れない。純真な人間の美徳と共に、人間の動物的なものを多分に含有していることを免れない。この辺のことはむしろ、老荘思想に妙解が多い。(p.113)
     #深い意味でのジェンダー論。男と女はもって生まれたものがやはり違うのだろうな。

    ・童心と素心(p.126-127)
     静かに考えると、人々は少年の時から早くも、国家のために尽くした志士や、天子宰相の物語を聞いては感奮興起するものである。否、この感情はむしろ成長して世故慣れるにしたがい薄れ易い。これ少年の時はまだ純真であって、我執我見の障礙(しょうげ)がないために、かえってよく天と通ずるのである。これを「童心」と言う。同様に世間摺れした男より家庭の女に、貴族富豪その他の文化階級より田夫野人の間に、大義に対する純真な感激が存するものである。これを「素心」と言う。我々は幾才になってもこの童心を、どんな地位身分になってもこの素心を失ってはならぬ。

    ・還元すれば、「民は之を由らしむべし。之を知らしむべからず」(論語、泰伯)でなければならぬ。(p.149)
     #近年、人民には知らせる必要はない、と曲解・誤解されているが、本当は「為政者は国民から信頼されて導いていかなければならない。しかし、国民に正しい教えを完全に理解させるのはとても難しい。」という意味。

    ・職業を通じて仁を求めることは、…(p.286)

    ・出処進退とはつまり、かかる場合いかに仁に生きるかという問題に他ならない。(p.286)

    ・我々が一たび家庭的にも社会的にも恵まれぬ時、我々はいかにしてよくこの受難に耐え、生活の光と力とを保ってゆくことができるであろうか。
     (略)ああ、独の生活!独歩、独往、独行こそ、まことにすでに古人が我々の先達となって、汝この道を歩めと崇高幽寂な境地に我々を誘っている。それは家庭生活や社会生活から離れたものではないkが、しかももはや家庭生活や社会生活とは別個の天地である。(p.298)
     #ふむぅ。

    ・木鶏(p.317)
     闘鶏を飼う名人の紀?省子が王様から頼まれて一羽の闘鶏を預かっていた。…

    ・真に自己を社会化するためには、常に自己を深めねばならぬ。真に人を愛するには、かえって独りを楽しむ者でなければならぬ。浅薄な利他と同情とは最も徳の賊である。(p.337)

    ★そこで伊川は、『これより永久にお訣れするが、なお何かおっしゃることがあるなら、承りおきたい』と尋ねると、彼は両手を挙げて見せた。『どういう意味か』と問うと、『面前の道はぜひ寛(ひら)かならねばならぬ。窄(せま)ければ自分の居場所もない。まして人を行かすことができようか』と言ったという。心にくい人物である。(p.360)
     #p.348? 宋の天才 召? 康節 氏の亡くなる前のエピソード。「死後の世界」への道のことを語ったもののようだが、今の自分に照らしあわせて、直面する困難をあとに続く者のためにも乗り越えろ、という趣旨だと受け取り

    ★読書尚友(p.347)
     独の生活を深く抱くようになって、いまさらの如く尊く楽しいものは、古人を友とし、その深厚な思索体験を記せる書を心読すること、すなわち読書尚友である。
     #早年時の敬慕、私淑とのちがい。

    ・貴人を見てもお世辞はつかわず、善人を見ても充分知った上でなければ慌てて交わらず、(後略)(p.368)
     #それでいいんじゃないか。いまはまだ慌てすぎかも。

    ★お前はすでに非を知っている。今から自己を改めて、徳を積み、和を湛(たた)え、精を惜しみ、忿(いかり)を懲らし、従前の種々のお前は昨日すでに死んだ。向後の種々のお前は今日ここに生まれたようにしなさい。(略)
     それからの彼は今までの悠々たる消極的態度を一変して、日々寸陰を忽(おろそか)にせぬ積極的生活に努力した。その結果…(p.396)
     #袁了凡と立命より。易でしめされた運命から逃れられない凡夫が…

    ・深く感謝報恩の心を抱くほど、人は真に力を尽くすことができるのである。(p.427)

    <きっかけ>
     2012年4月、5月の小倉広・人間塾in東京 のテキスト。”

  • 若き日の安岡さんが残された安岡教学の基本となる四部作の一つ。

    読後感としては、深い活学に大成された安岡さんの著書を知っているからか、この著書には若い情熱を感じる。
    しかし、大成した安岡さんの著書を知らずに読んだのなら、とても32歳の人間が書いたものとは思えないほど深い哲学の世界観になっている。

    この本が、「暁鐘」となり朝他の人より早起きした安岡さんの呼びかけが世界に響くといいなと思う。

  • 安岡 正篤先生30代の著書。中国、日本の哲学を中心に、「生き方」を説く。
    どのページを開いても、新しい気付きがあり、本当は★5つにしたいところ。
    ただ、あまりにも文章が難しいため、★4つ。
    これからも定期的に読み返し、しっかりと血肉としていきたい一冊。

  • (要チラ見!)

  • 昭和日本実業界の精神的支柱安岡先生の若き日の著作にして、その後の安岡哲学の支柱となった記念的名著。

    と書けば聞こえはいいが、要は東洋哲学から日本哲学へと安岡先生の脳髄の中で進化した、「人生哲学」である。

    若かろうが、年とってようが日本人で資本主義社会の中に生きているなら読むべき。


    「我々は大いに欲求すべきである。強烈に生くべきである」

    ほら、燃えてきたでしょ。

  • 「人は何者の力で生きているのでもない、自らにして生きているのである。すなわち自由であり、自分で満ち足りる存在。だが、またこれで良いということもないものだ。人という物の生活から、人という道の生活に無限に進まなければならない。」

    「人道は「これを誠にする」、すなわち「天にしたがい運に乗ずる。」この天にしたがい運に乗ずるところに情意があり、理知が開ける。天にしたがうとき、われわれにまず生ずるものは、感恩の情およびこれと不可分な報謝の意志である。」
     天にしたがい、運に乗ずる。たくあんの言う、人は天の赴くままであり、それでいてこそ自由だ、という言葉に近いものがある。運命に対し、無味乾燥な意味を言うのではなく、天にしたがい結果を求めない心、自分の意思を選択する自信、大きさ。それでいて、自分の今があることの感謝、どれだけ自分が良い運命にあるかという実感。これこそが本当にあるべき姿なのじゃないかと思う。

    私淑
    「この人生において我々の人生が新に確立し、もはや迷うこともなくなるまでには、到底自分の独力でなし得られるものではない。それには我々の天秤はあまりに貧弱で、無力で下根である。我々は常に権威ある人格、品性、気概、才能に接触し、いい方向へ導かれ、陶冶されて、初めてようやく自己を充実し、向上させることができる。
    しかし、われわれはそれに浮かされて、いたずらに感傷に流され、興奮に泊まってはならぬ。あくまでも厳粛に我々が気付かぬ様々な生活を会得し、ともすれば人生の深い本質に触れて、自己の人格識見を完成してゆくところにもっとも高貴な意義がある。我々は智慧によって、正しく、深く、あらゆる人生を観察して、向上の機を把握せねばならぬ。」

    無約の話
    孔子と、盗賊のやり取り、人間の欲望のままに生きる盗賊と、人の生きるべき道を示す孔子、その弟子。その二人に対し、無約はいう。
    「人生は絶えざる運行である。ある場合には曲がる必要もある。ある場合にはまっすぐにいかねばならぬ。つまり、汝の子心の空にかかる北極星をよく見て、かじを取ってゆくことだ。常に物事の一方ばかりを見ないで、よく四方を眺め、自然と調和していくことだ。規範とか道徳とかを固定するからいかん。ものは固定すると生命がなくなる」

    「我々はあくまでも人道という見地に立つべきである。さすれば、人間を神話化することもなければ、獣とすることもない。我々は自ずから人間に対して温容なる道がある。人間のあらゆる心境をこまやかに観察することによって、着実に親密に、しかしできるだけ雄大な理想を抱かねばならない」
    「男は要するに文化発展を本領とするから、とにかく成長する、進歩する、複雑になる。人格生活も開拓される。これに比して女は統一潜蔵を本領とするから、男のように伸びない。永遠の純真であるとともに、永遠の素朴である。
    むやみにじたばた慌てふためいて、まるで後になったやつは鬼にでもさらわれるぞといった低落であると言っているのは誠に穿っておる。俗眼から見れば女は弱かろう。便りなかろう。しかし、誠に目を開けば、女こそ強いものである、安立したものである。」


    「およそ物には二つの見方がある。ひとつはものを外から見、己が認識対象として見る。それは常にある立場からものを見るのであるから、立場立場によって所見も異ならざるを得ず、その上にある方面を分析してみるので、要するに抽象的である。分析的抽象化で見ることは、繊細な概念知識の結構には便利であるが、実在の意味生命からは遊離する。
    いま一つの見方は、ものを内から見、情意に抱一してみる。前者の「己を以てものをみる」から「ものを以てものを見る」のである。我々の概念的知識は常に個の直感の世界において養われねばならぬ。それを顛倒してひとえに概念的思考にたよって実在のしん生命を発見しようとするのは、ラッキョウの皮をむく猿の愚に等しい。」

    →これは面白くて、自分は、ある物事に対し、それはなにか、どうなっているのか、どうあるべきかといったことを考えるに、いろんな見識や、考え方を学び、いろんな知識をつけ、体裁上はなにかもっともらしい何かを身につけたつもりになっている。しかし、その本質は、己を以て何かを解釈しているにすぎないのではないか?実際に物事を考えるに当たっては、そんな深い洞察や下手な知識以前に、もっとシンプルに、直感的に考えて、本質をつかむべきではないのか?実際の現象を考えるときも、変に物理のなにかしらを引用したり、挙動の方程式を作ったりする以前に、直感的にどうなっているのか考察することはとても大切なことだし、何かを考えるときには、もっと直感的に抽象化することも大切だと思う。

    上に付随して直観と概念について
    「直観よりの中小に応じて生じるものは概念であって、直観は概念の天地である。概念的知識(直観的に本質を見極めて、合理的に判断表現された知識)は、体験が伴わないと幸福に育つことはできない。直観の示すところは生きた世界であるが、概念の示すところは抽象的構成であるから、仮定的一面的たるを免れない。そこで概念ばかり与えられると、人間が軽薄空虚になったり、偏った観察や過激な行動に陥ったりするようなことが起こってくる。」
     →知識には何の意味もない。自分の思考と経験で、人道を築くことが大切なんだなと思う。空虚な知識の波にのまれるな。

    夫婦生活の在り方
    「いわゆる男尊女卑は、陽たる男と陰たる女の家庭的礼分である。男女の性質の違いを言うのであり、それは決して男女の人間的優劣を意味するのではない。
    女性が、このような男尊女卑であるという偏った見方を脱することが大切であり、このような考え方を自己の過程において自力実現することこそ、夫婦の心得であることが大切。」



    社会生活の心得
    「我々は社会という体系の中に、同時にそれぞれ一分子として存在しあるいは関与する。かくして我々はその中に衣食しつつ、全体の進運を亮け(たすけて)てゆくのである。
    本能的欲求は決して自らが衣食するだけでは済まない。「自覚する造化」である私たちは、絶えず自らより大きく生き、より多いある生活。社会のために働く。職業の本義は、自己が仁をなすにある。
    職業を以て、その職分に基づいて勤労する。そうすれば、自己が現前してくる。その時両親の指示に従って自分の敵しいと思うことに向かって勤労すれば、必ず進むべき道は開け、才能は磨かれる。」

     自分の職業に疑問を持つ前に、自分が社会のために何ができるか考えよう。自分の職分をわきまえ、社会のために働ける意思子を持とう。その中で、自分のスキルが高まればいいじゃないか。そして自分の本当の強みと、自分に何ができるかが見えてくるんじゃないだろうか。ちっぽけなところでとどまらないで、社会に向けてできる自分の仁を常に意識できるといいよね。





    「人は真の自己の立ちかえらぬから、外見ばかりに心を奪われ、皮相に眩惑する。わけもなく富貴に憧れたりするのは自分が純直でない証拠である。」

    人と比べる、自分がきになる。自分はどうありたいのかが見えていないから気になる。むしろ、人には関係ない、自分がどう思うかだ。自分がどうありたいかは自分が決める。あの人みたいになりたい、勝ちたい、負けたくない、認められたくない。全部意味がないことだ。自分がどのような人間になりたいかが大切なんだ。
    「出処進退にあたって、われわれはまず仁に立たねばならぬ。仁とは、生成化育する造化の努力を退任して、人が一切を包容し、敬愛し、自ら少しでもより大きく生きようとする努力である。
    そして、仁は義であらねばならぬ。同時に礼でなければならぬ。
    そして収支心がけておかねばならぬことは、平生できるだけ人物の器度をやしなっておくことである。器とはすべからく大いさである。由来、宇宙人生は複雑な矛盾の統一であって、一時に拘泥すれば身動きがとれない。我々はすべからく大矛盾に堪え、これを和らげるだけの器度力量を具備すべきである。」

    自分の努力、頑張りの根底には、社会のため、自分のためになすべきこと、正義であることは当然必要だし、また全体のおさまり、空気を読んでいること、みながハッピーなことというのは大切。だから、義と礼はきっと大切なんだと思う。逆に、光なくちゃいけないとか、こうしようとか凝り固まっていると暴走したり、身動きが取れなくなってしまう。
    きっと、そういう考えを持ちながら、どこかでその考えの矛盾を理解できるような、もう一歩引いた考えができるような、人間になりたい。やっぱり器が大切だなあ。





    命 まさに運命、運と呼ぶべきものについて
    「命は造化の機境である。造化は絶対の流行であって、われわれはかくあらねばならぬからあくある、かくあるよりほかにどうにもあり得ない。すなわち何事も命だ。我々は造化に委順するよりほかにないには相違ない。しかし、それであるからとて消極的無為の生活に陥る第二種の宿命論というべき行動は、根本的に誤っている。人もまた造化である。
    誠は天の道である、しかし、それを具現化するのは人の道である。事件の必然的かつ無意識的進行を、意識的かつ自主的に表現するのが人道である。意識的かつ自主的なる意味において、人は創造者、造化自体ということができる。」

    「すべて生きようとする意志は、言うまでもなく人生の原動力である。しかし、ただ生きようとするだけでは、まだ動物的境界にすぎない。人格において、初めていかに行くべきかの内面的欲求を生ずる。ここにのみ、人間に許された子孫なる価値の世界があるのである。
    前者は限りある時間を少しでも余計に盗もうと知る執着であるが、後者は有限な時間を超越して、自己を永遠の今に安立させようとするものである。
    前者は情欲の満足であるが、後者は価値の体得、すなわち理想の具現化である。理想の具現化のない人生は普段の瀕死に他ならない。
    いかに生くべきかと真剣に道を求めるものにとって、これはいかに死すべきかの工夫になる。
    死覚悟するが故にこの生を愛する。今に即して永遠に参ずるのである。愚かなるものは永遠を解して時間が連なるものと思い、今日過ぎても明日があるように思う。かくのごとき時間の連続には、何の意味もない。
    真の永遠は今にある。永遠は今の内展でなければならぬ。そう、死の覚悟とは永遠の今を愛する心なのである」

  • ○壷中の天
    ○真は天の道、真をなすは人の道

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著者プロフィール

明治31年大阪市に生まれる。
大正11年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業
昭和2年に金鶏学院を設立。
陽明学者、東洋思想家。
終戦の詔の起草者の一人。
昭和58年死去

著書
『易學入門』『全訳 為政三部書』『東洋思想と人物』『暁鐘』『王陽明研究』『陽明学十講』『朝の論語』『東洋学発掘』『新編 経世瑣言』『新憂楽志』『老荘思想』『古典を読む』『人物・学問』『光明蔵』『政治と改革』『古典のことば』『この国を思う』『儒教と老荘』『旅とこころ』『王陽明と朱子』『人間維新Ⅲ』『憂楽秘帖』『明治の風韻』『天子論及び官吏論』(明徳出版社)

「2000年 『人間維新 III』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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