- Amazon.co.jp ・本 (295ページ)
- / ISBN・EAN: 9784886563699
感想・レビュー・書評
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大阪河内平野の縄文海進による地形変化、神武東征の解釈。
太陽暦1年=春秋暦2年換算による解釈(だいたい継体天皇あたりまで)。
邪馬壱国=筑後川下流域。畿内説、邪馬台国東遷説はない。皇紀は西暦イコールではない。
戦前は皇国史観、戦後はGHQ検閲と反日教育のため記紀研究や考古学がゆがめられてきた。
神武東征は宮崎県日向から吉備へ大阪でいったん敗れ熊野から上陸、奈良盆地南部に拠点を築く。橿原宮で即位(BC70年)、ヤマト地方有力豪族の娘媛蹈鞴五十鈴媛を皇后とする。婚姻によって平和的に勢力拡大。
製鉄集団。三輪山周辺は鉄の生産に適している。出雲地方に移住、製鉄部民。物部氏、石上神宮は製鉄部民を支配。
縄文晩期から青銅器が使われ、絹織物の倭錦は工芸技法でシナを凌ぐ。
日本では鉄が早くから使われ鍛造技術もできたので、青銅器は祭祀ぐらいにしか使わなかった。
葦の根から錫鉄鉱がとれた=豊葦原。露天タタラの鉄器の農具で開墾し瑞穂の国をつくる。
山形県三崎山遺跡から縄文晩期の殷の青銅製刀子が出土、福岡県曲り田遺跡(BC770以前)から鉄の鍛造品が出土、福岡県今川遺跡(BC600頃)からは鍛造品の鉄鏃が出土。シナが鋳鉄だったときにより高レベルな鍛造をしていた可能性が高い。
筆者の推測、神武即位=BC70、崇神崩御=241、応神崩御=410、雄略崩御=480、継体崩御=534、推古崩御=628
埼玉県稲荷山古墳の鉄剣の銘文にて8代孝元天皇の長男大彦からの八代系図が刻まれてた、闕史八代の存在証明。
日本と百済の盟約の印の七枝刀。百済王や王子は倭人、日本語。百済に多くの倭人。百済、任那に援助、新羅に滅ぼされた高句麗からも高句麗王が日本へ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
☆彡河内平野の地形と黥面文身から解く古代史新説
〈概要〉
・「邪馬台国」と「黥面文身」を読み解く
・「大阪平野の発達史」と「黥面文身」で洗う
・古田武彦・八木荘司氏の東征譚を検証す -
現在の平成天皇(今上天皇)は125代目ですが、古代の天皇(16代仁徳天皇の頃まで)は100歳近くも生きたことになっていると聞いたことがあり、神話のレベルかなと思っていたのが、私の古代日本の歴史に関する認識でした。
そうしたモヤモヤ感を、この本が解き明かしてくれて私にとっては画期的でした。古代の天皇が100歳生きたというのも、当時の年の数え方が現代とは異なるようで、この本の筆者である長浜氏は、それらを調整した上で、初代天皇の神武天皇の即位は紀元前70年であると結論付けています。
日本の歴史は、2100年程度あるのですね。日本のルーツが明確になったようで私にとっては記念すべき本でした。これからも古代日本の歴史について学んでいこうと思いました。
また、第1章において、7000年程前の大阪(河内湾)の地図がありますが、現在の大阪城辺りを除いて全て海だったという事実は、なぜ大阪城がそこに建てられたかを理解する上で重要な地図(p21)でした。
更に、昔は長子相続が当たり前と思っていたのですが、それ以前に、末子相続の考え方(p211)があり、そのメリット(即位年齢が長くなる、即位後の皇后から生まれた子は皇子)について、初めて認識しました。
以下は気になったポイントです。
・金印をもらった当時(57)の日本はシナをも凌ぐ技術力を有していて一目置かれていた、そうでなければ北部九州の一小国に「金印」は与えられない、当時の韓は「銅印」しか与えられなかった(p47)
・疑似倭人伝を読み解くには、当時の実情を勘案し、シナ人の習慣を考慮したうえで、船や陸行で1日どの程度進むかを理解すべき(p63)
・2-4世紀において、黥面文身習俗を持つ地域と持たない地域があり、この習俗をもつ国々がシナと通じていて、近畿地方において持たなくなったのは、大和朝廷の影響力が拡大していったから(p70)
・弥生時代に見られなかった入墨習慣が、5-6世紀の古墳時代になると顕在化する、それは支配層や一般の人々の習慣でなく、肯定的に捉えられたものでない(p73)
・教職追放令(昭和20.10占領軍の指令)は、昭和27.4.27(サンフランシスコ条約締結)まで拘束、初年度の審査により約5000名が追放されたが、その前に約11.6万人の関係者が職場を去っていた、自己防衛のために反日左翼(米国と中ソに平伏)に変質していきその受け皿が日教組である(p79)
・皇紀在位年数を春秋年として実年換算すると、実在位年数は半分となる(p111)
・第17代以降に在位年数の短い天皇が出現するようになる、その原因の一つが、神武天皇以来、皇室の原則であった末子相続が崩れたことと関係する、末子相続なら天皇の即位年齢が若くなり、即位後の皇后や妃から生まれた子は正真正銘の皇子となる(p210)
・皇紀崩御年と、実年の崩御年をグラフ化(p223)すると、神武天皇が即位された皇紀前660年とは、実年では、紀元前70年となる(p222)
・49年以来、日本と百済は堅い同盟で結ばれることになる(p265)
・倭の5王とは、讃:仁徳天皇、珍:反正天皇、済:允恭天皇、興:安康天皇、武:雄略天皇である(p275)
・今のソウルに2つの前方後円墳があるのは、百済は日本の臣民となり、宮家(分国)であったことからうなずける(p280)
・百済歴代の王子は日本に住み天皇と話をしていたので、宮家である百済の王室は日本語を話していただろう、日本の臣民であった百済や任那の人々も日本語を話していただろう、百済滅亡後に多くの百済人がやってきたが言葉が繋がらなかった記録はない(p285)
・任那には、加羅国、安羅国等、合わせて10国ある、562年に新羅が任那の宮家を打ち滅ぼした(p287)
・日本の援助により再興の兆しの見えていた百済で内紛が起きていた、これが致命傷となり、663年の白村江の敗戦と百済の洲柔(つゆ)城が陥落して、百済は滅んだ(p289)
・688年、新羅により導かれた唐の軍により、高句麗も滅ぼされた、そして多くの高麗人と共に、高麗王・若光も日本へと逃れてきた(p290)
・新羅は半島を統一して、朝鮮民族はシナの属国となり生きていった、創氏改名を行い、一字姓となった、シナの元号を使い、犬・人食い・宦官も取り入れた、朝鮮なる国名もシナに決めてもらった、儒教を国教として寺を破壊し、仏教を滅ぼした(p291)
2013年7月28日作成