- Amazon.co.jp ・本 (284ページ)
- / ISBN・EAN: 9784886790811
感想・レビュー・書評
-
この本の根本的な問題提起はおそらく、以下のようなことだ。つまり、「変化したと思われる物がどうして同一であるといえるのか、そして、変化と時間との関係はどういったものか」ということだ。
四年前の私(A)と、今現在の私(B)とでは、外見が幾分か異なるが、同一者として認識される。これを数式化すると(A)=(B)となる。しかし、これは二項関係ではない。即ち、二つのものを比較して、それらが同質だということを示しているわけではない。四年前の私(A)と、今現在の私(B)は、どちらも「私」を意味するのであり、四年前の私(A)と、今現在の私(B)という異なる二つの私を意味するのではない。四年前の私(A)と、今現在の私(B)は、同じモノを指していることになる。となると、四年前の私(A)と、今現在の私(B)は同一であり、それ故に変化していないと言うことになる。
※ここでいう同一性とは、二つのリンゴの質を比べてリンゴAとリンゴBが同質であるというレヴェルとは根本的に異なる。「これはこれだ」という、ひとつのモノを、同定することである。つまり、あえて数式で表すならば、リンゴA=リンゴAということである。
著者によると、同一性というのはある時点で振り返ったときに、その振り返ったモノをまとめ上げることだと言う。「同一性」というものは、変化の軌跡という形でしか、とりだせない。変化そのもの、四年前の私(A)から、今現在の私(B)への変化においては、もう同一性も無い。ある時点で、変化を振り返って、それを変化の軌跡として固めた時間的奥行きの中で、それを貫いた四次元的な対象というモノをそこに見て取るときに、反省し振り返ってその変化をとらえたときにはじめて同一性がでてくるのであって、「変化のさなか」で同一性はでてこないだろうと著者は言う。
質的な同一性~物事の質が同一である事を示す。たとえば双子のA君のクローンであるa君は、質的に全く同一である。このとき、A=aとなる。
数的な同一性~時間の推移の中で、あるモノAが、同一性を保っている事を示す。例えば、或る時点T1で、Aだったものが、他の時点(過去でも未来でも良い)T2でも、Aであるならば、それは数的な同一性を持つ。注意しなければならないのは、数的な同一性は、二項関係ではないという事だ。つまり、あるモノとあるモノを比べてそれらが同一であるというように、二つのものの間の同一性(関係)を表すのではなく、数的な同一性は、「コレはコレである」という様に、ひとつの物が異なる時間を経ても同一である事を表すのである。これは、野矢茂樹の『同一性・変化・時間』の中で様々な形で考察されている問題であり、その考察は大変興味深いものであった。時間の流れを言語で説明するというスタイルは、スマートだ。
同一である物がどうして変化したと言えるのか?一年前の私と、今の私を比べると変化しているように思える。しかし、一年前の私と今の私の関係は二項関係ではない。一年前の私も今の私も、「私」であり、そこには数的な同一性がある。しかし、あきらかに私は変化している。著者は言う、『もし同一性が自分自身が自分自身に対して、そして自分自身に対してのみ必然的にもつ関係だとするならば、自分自身が自分自身に対してどうして異質だって事がありうるのだろう。』
変化というものは性質が変わることを意味する。すると、T1のAが別の時点T2において変化を被ったならば、T1のAとT2のAは異質である、即ち、別のものになったという事になる。しかし、現実では、AはT1であろうとT2であろうと同一であると見なされる。Aは変化しているのか?それとも変化していないのか?
時間の流れは変化を要求する。時間の流れがある限り、変化は必然である事のように思える(ここで時間の流れとはそもそも何かという問題があるが、野矢は『時間は言語によって流れる』と主張するp271)。
同一性とは何か?変化を通じても尚、同一であるとはどういう事か?
野矢は様々な言葉を用い、この問題を解決しようと試みる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
養老孟司シンポジウムでの発表・討論を第I部に、その後の思索の展開が第2部に収められる。きわめて平易な語り口とはうらはらに、この著者の書いたものとしては難しいという印象をもったが、これは著者の発想の現場案内のような本書のスタイルによるところが大きいのだろう。
第1部で、著者は四次元主義によっては変化を変化として捉えることができないという主張をおこなっている。といっても、著者は現代形而上学の議論に参戦しようとしているのではない。討論で著者自身が明言しているように、あくまで「存在論の問題というよりは、われわれの「語り方」の問題」の考察に議論は収束してゆくことになる。
著者が『心と他者』で提示した「眺望論」の枠組みでは、過去から現在に至るまでの時間の流れが、現在というパースペクティヴから「固めて」見てとられるにすぎず、時間が「流れる」とはいえない。
最終的には、「変化を語る」のではなく「語りが変化する」という方向が示されることになる。そこでは、競馬の実況中継をしているアナウンサーの語る言語は、スタートからゴールに至るまで、時々刻々と変化するという「流転的言語観」が提示されている。
討論で郡司ペギオ‐幸夫が指摘していることだが、言語によって変化を「語れない」ということよりはむしろ、言語の変化を「駆動する時間」のほうに著者の関心は向けられていることがうかがえる。とはいえ、そうした言語のイメージが積極的に呈示されることはなく、著者の議論はあくまでも控えめなものにとどめられている(おそらく郡司であれば、もう少し積極的な議論を展開していたのだろうが)。