内藤廣の建築 1992-2004――素形から素景へ1 (素形から素景へ 1)
- TOTO出版 (2013年3月19日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
- / ISBN・EAN: 9784887063327
感想・レビュー・書評
-
内藤廣の建築と言葉の本。
誰もが心の奥底にもっている建築の原形質のようなものがある。著者はそれを「素形」と呼び、設計の過程に置いてそれを常に探し求めている。それを見つけるには「おもしろさ」を求めない勇気が必要。多分「おもしろさ」を求めすぎるとそれを実現する為に必要なものが幾重にも重なり、最終的には自分がしたいことから遠ざかるからだろう。
そのような建築は「おもしろさ」を求める人にとってはつまらない建築かも知れないが、これは現代において実現されるべき価値の在り方を示していると著者は考えている。
素形は考えて浮かび上がるものではなく、設計していく内に無意識で浮かび上がってきたものである。だからと言って裸同然でいることが素形なのではなく、設計する上での条件に対して答えようとする過程で意図せずふとした時現れる形こそが素形である。
本文引用とそれについての感想
『建築は長い時間で語られるべきで、面白い形ができたとか、いい空間ができたとかいって褒められるより、そこにどういった「時間」が生み出されるかということが語られる時、建築は本当の答えを出すことができる。』
建築に置いて重要な要素である「時間軸」。時代を超えて生き続ける建築というのはどれも時間軸を持っているように思える。著者もその時間軸をどのようにして持たせるかと試行錯誤してる様子。
『建築という「手段」が、それ自体が「目的」にすり替わる瞬間がある。建築が「作品」も呼ばれる時だ。
建築はありののままの存在であることから離脱し、意味や価値が転倒する。建築は「手段」のままであるべきだ。』
建築自体はありのままの存在でなくてはならない。例えば美術館は美術館で無くてはならないし、もしド派手な造形で作った故に美術館としての機能を失った時、本末転倒で建築が「手段」から「目的」へとすり替わっている。だから建築はあくまでも人間の活動を支える為の「手段」で無くてはならないし、それ自体が「作品」となってはいけない。
建築はまず第一に「人間の活動を支える」という重要な項目があることを再認識した。
印象に残った建築物
海の博物館 三重県
安曇野ちひろ美術館 長野県
茨城県天心記念五浦美術館 茨城県
十日町情報館 新潟県
牧野富太郎記念館 高知県
ちひろ美術館 東京詳細をみるコメント0件をすべて表示