ポストモダンの思想的根拠: 9・11と管理社会

著者 :
  • ナカニシヤ出版
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本棚登録 : 52
感想 : 7
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  • Amazon.co.jp ・本 (278ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784888489508

作品紹介・あらすじ

9・11以後の世界は「自由」が「管理」を要請する逆説の時代-ポストモダンの第二段階の始まりだ!軽くてシニカルな「ポストモダン感覚」は、空気のように自明なものとなっている。ところが、「管理社会」は不可視であって、感覚的には理解するのが難しい。感覚的な「差異の戯れ」を容認しつつ、その上で効率的に管理するのがポストモダンの第二段階なのだ。そのため、「管理のポストモダン」を理解するには、感覚ではなく思想を武器としなければならない。

感想・レビュー・書評

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  • ポストモダン思想における管理社会批判の意義とそれが直面している困難について、わかりやすく解説している本です。

    著者は、フーコーとドゥルーズの議論を参照しながら、従来の「統制管理社会」とポストモダンの「自由管理社会」の違いをクリアに論じています。近代の規律社会は、フーコーがベンサムのパノプティコンに典型的に見られるとしたものであり、そこでは主体=服従のメカニズムが鮮やかに解明されていました。また、ホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』や、オーウェルとハクスリーのディストピア小説も、近代的な統制管理社会に対する批判だったと著者はいいます。

    ポストモダンにおける自由管理社会はこれとは異なり、生物種としての人間の「生」を差配するものだと著者は主張します。そこでは人びとは自由を否定されず、むしろ「生権力」によるコントロールがポストモダン社会における自由の条件をなしていることが明らかにされます。

    さらに著者は、ネオ・リベラリズムがリバタリアニズムの制限を乗り越えて自由管理社会の強化へと乗り出していった経緯や、ラディカル・デモクラシーのリベラル・デモクラシーに対する批判を検討し、自由管理社会の強化に抗うことの困難さを浮き彫りにしていきます。また、ネグりとハートの『〈帝国〉』にも言及し、そこでもやはりフーコーとドゥルーズが直面していた「欲望のパラドクス」すなわち「ひとはなぜ、自分の抑圧を欲望するようになるのか」という困難が解決されないままのこされていると論じられます。

    最後に著者は、ヘーゲルやニーチェの哲学をヒントに、隠蔽された管理を顕在化することで自由を拡大していく可能性を見いだそうとしています。

  •  なんだか、タイトル硬くねー? 「こちとらポストモダンが何かっ」てコトからわかんねっすから~とふて腐れようとしたが、この本ったらかーなり親切。ちゃんとそこらへんから順を追ってみっちりわかりやすく解説してくれる。
     まさに現代的な課題をぐわっちりと抑えてあって、読み応えがある。「規律社会」から「管理社会」へ、という背骨ががっしりしていて、スジを理解しやすい。フーコー、ドゥルーズをメインに、文脈に沿った思想家を要領よく紹介してあって、「プレモダン-モダン-ポストモダン」という流れもすんなりと頭に入ってくる。
     現代は「管理社会」か? YES。しかしオーウェルの『1984』をイメージしていると、「管理社会」の文脈を見失うだろう。現代に深く静かに浸透している「管理」の正体を見極めつつ、「自由」の領域を押し広げるために、何が出来るのか? 必読の「管理社会論」であり、「現代思想」を使って現実を読み解くすばらしいパフォーマンスだ。

    ▼▼▼▼▼以下は、書評じゃなくて、自分のためのメモ書き▼▼▼▼▼

    1.ポストモダンの第二段階がはじまっている
     まず、「昔ポストモダンって流行したよね?」とういあたりから。
    =========================
     ポストモダンとは現在の状況であり、普遍的で統一的なモダンの「大きな物語」が失墜することである。それに変わって、差異化する「小さな物語」が多様に着想され、共約不可能で異質なモデルが提唱される。
    =========================
     と、まぁそういうことらしい。プレモダンは「十人一色」、モダンは「十人十色」、そこへ行くとポストモダンは「一人十色」!ってイメージ。
     わかった。でも、こーいう「一人十色」みたいなのをポストモダニズムというんなら、もうけっこう実現しちゃっている。つまり、「差異を強調すること」ではもう現状肯定にしかならない。どのくらい陳腐化しているかというと『世界に一つだけの花』なんてウソくせー詞の歌が大ヒットするくらい。今では「差異」は否定されるのではなく、肯定されている。ところが「差異」を肯定することによって、むしろ社会的支配は確固としたとしたものになるんだ!! これが「差異のポストモダン」から「管理のポストモダン」への移行、「ポストモダンの第二段階」ということ。
     で、「9.11」ってのは、この「差異」→「管理」への決定的な分岐点になった。

    2.「規律社会」から「管理社会」へ
     フーコーは「自由で理性的な主体」という人間像を解体した。近代において人は「自由」でも「理性的」でも「主体」でもない。学校や組織につねに身体を拘束され、そこで規律化され、置き換え可能な部品に変換され、監視される存在である。こうした規律訓練によって、「危険な群衆」は「秩序づけられた多様性」へと変えられていく。一方で個別化を行いながら、他方で規格化を行う権力、これが近代社会の「規律権力」である。
     この「権力」は、人々を押さえつけ意のままにするという存在ではない。個々人は「主体的に」服従強制を受け入れるのであり、作り出していく。権力とは誰かが所有するものではなく、人間のあいだに張り巡らされた「網目」である。
    ところがこのような「規律権力」は、ポストモダン社会で失われていく。家庭でも学校でも職場でも、人々を縛って安定させる力がどんどんなくなっている。人々は流動化し、リスクにさらされ、ふたたび「危険な群衆」に戻っていってしまう。そこで、規律権力に替わって人々を危険から遠ざけ、ある程度自由を許容しながら安全・安心を保証する「管理社会」の到来を迎える。
    「規律社会」と「管理社会」の違いは何か? 塔の上から見下ろされるような監視装置の代わりに、「管理社会」ではコンピュータが利用される。しかもそれは「監視」ではなく「マーケティング」という名前が付いている。クレジットカードで支払えば、何をどれだけ買ったかまでデータベースに把握される。人間はデータ化され、無数の数字に分断される。もう「分割不可能な個人」は存在しない。

    3.「9.11」以降の「管理社会」
     重要なのは、人々が主体的に規律化されたのと同様に、現代社会で人々は主体的に「管理」されているということだ。「携帯電話でお支払いができて便利!」を実現するために自分の個人情報を参照させ、「街のどこにいても地図情報が取り出せます!」を享受するために、秒単位で自分の位置情報を売り渡しているのだ。「監視」はかつて、監視対象の心身を拘束するためにあった。現代では安全、セキュリティ、社会秩序、利便性を生みだすゆえに、人々は自ら「監視」を求める。「監視」はますます不可視になり、深く浸透し、巧妙に働くようになっていく。
     こうした「自由で管理された社会」に対応した思想が「ネオリベラリズム=ネオコンサバティズム」である「9.11」のあと、自らの「セキュリティ確保」のために、「テロとの戦争」というリクツをつけて、予防戦争(世界を相手にしたリスク管理)に踏み込んだアメリカは、もっとも「自由で管理された社会」に接近している国と言えるだろう。
     現代社会は、「自由な管理」が埋め込まれていて、そこから逃れることはできない。管理から逃走しようというよりも、むしろ、便利に囲まれて見えなくなっている「管理社会」の構造を暴き、隠蔽された管理を解読することが何よりも必要である。

  • ものすごく分かりやすくて、いろんな思想なんかが関連付けて語られているのがよかった。

  • 管理社会の再来を呼び起こした911。しかし筆者はそれを明確に否定している。管理社会から自由社会そして、再び復古という形で管理社会が戻ることはないと。
    筆者は近代の管理社会を「統制管理社会」と呼び、こんにちの管理社会を「自由管理社会」と呼んでいるのは興味深い。前者が政府による統制によりもたらされるものであるのに対して、後者は、自由を求める人々によって自発的に求められていく、セキュリティとしての側面が強い。
     これからの社会に関する観測を筆者は著書の中で、ポストモダン的風潮=差異化を求めていく社会において、統制された秩序が崩壊し、自由が謳歌される一方で、差異化がもたらした新たなリスク、そして格差が存在することになるだろうと述べている。近年の格差社会論争は、もともと米国を比較に論じられることが多いが、まさに、その当事国の人間の言う言葉には頷かされる。
    そして、その差異化は、人間同士ですらおきるという。「管理するヒト・管理されるヒト・排除されるヒト」をそれぞれ超人・家畜・野生動物と捉える考え方は衝撃的だった。「品格」なんて本がベストセラーになるわが国で、まさに、差異化を国民総出で推し進めた結果待ってる未来ってのは、経済的格差なんて生易しい、人間としての格差すら規定されてしまう社会なのかも知れない。と本を読んで思った。
    もう一度読み直したい本。

  •  モダン(規律社会)からポストモダン(自由管理社会)、そしてそれ以降(ポストモダンの第二段階)という思想的な潮流をキレイに整理整頓。今後の見通しがグッとよくなる。
     個人のアイデンティティについて、モダン以前は「十人一色」、モダンは「十人十色」、ポストモダンは「一人十色」との喩えは秀逸。

  • 2006/05/08

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著者プロフィール

玉川大学文学部名誉教授。九州大学大学院文学研究科単位取得退学、博士(文学)九州大学。専門分野:哲学・倫理学。主要業績:『異議あり!生命・環境倫理学』(単著、ナカニシヤ出版、2002年)、『ネオ・プラグマティズムとは何か』(単著、ナカニシヤ出版、2012年)

「2019年 『哲学は環境問題に使えるのか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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