ニーチェが泣くとき

制作 : Irvin D. Yalom  金沢 泰子 
  • 西村書店
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レビュー : 3
  • Amazon.co.jp ・本 (479ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784890135806

作品紹介・あらすじ

「ある男の病を治してほしいのです。このままでは自殺してしまうでしょう。でも、診察していることにけっして気づかれてはいけません」1882年のウイーン。高名な医師ブロイアーのもとに突然現われた絶世の美女。その病とは絶望。そして患者の名は無名の哲学者フリードリッヒ・ニーチェ。治療を望まない患者を癒すことなどできるのだろうか。あやふやなまま、依頼を引き受けたブロイアーだったが、事件は思わぬ方向へ展開していく。老いや死にたいする恐怖、目的の喪失、自ら選んでこなかった人生にたいする後悔。若い女性への断ち切れぬ恋情。40歳という岐路に立った人間の苦悩と新たな旅立ちを、若きフロイト、ルー・サロメ、そしてニーチェなど、世紀末を彩る綺羅星のような「出演者」を織り交ぜ、催眠療法や談話療法、ヒステリー研究など、当時生まれつつあった心理療法の興味深い側面と共に描き出す。

感想・レビュー・書評

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  • アンナ・Oとはベルタ・パッペンハイムに彼がつけた仮名である。学生たちと患者について話すとき、彼は最新の注意をはらい、けっして実名を使わなかった。かわりに、名前の頭文字のひとつ前のアルファベットで仮名をつくった。ベルタ・パッペンハイムは、A・Oまたはアンナ・Oになったのである。

    生活の様々な面については自制的なブロイアーだったが、医者としては絶大な自信を持っていた。
    「迎合してはいけない。かといって威張ってもいけない。たくらんだり、策を弄してはならない」
    彼は本能的にそう思った。

    ニーチェはひどく用心深かった。ブロイアーに質問されるたびに、それを認めるようにうなずいた。そのことについてはブロイアーもおどろきはしなかった。生活についての顕微鏡でものぞくような子細な調査を楽しまない患者にはあったことがない。拡大倍率が大きいほど患者の楽しみは増す。「観察される」喜びは深く潜行しているのだ。老いや肉親との死別、友人の死からうける真の苦痛は、他人の注目を失うことにある。

    「ひとつ例をあげましょう。以前、両手の感覚がなくなった患者を診たことがあります。それは神経の不調によるとは考えられないものでした。手袋をはめたように無感覚だったからです。手首より先には何の感触もありません。まるで手首に麻酔用のベルトがまかれているようでした」
    「神経系からのものではないのですね?」ニーチェは聞いた。
    「そうです。手への神経伝達はそのように働かないからです。手には三つの重要な神経から伝達が供給されます。橈骨神経、尺骨神経、正中神経です。それぞれが脳の別の部位から発しています。実際は、手指の半分がひとつの神経に、残りが別のふたつの神経によって支配されているのですが、患者にはそれがわかりません。ですから、あたかもて全体がひとつの神経によって支配されているように想像するのです。『手の神経』なるものがあると思ってしまう。そして、そのような想像に合わせて症状を発症させるわけです」

    「毎日、診察しているあいだに、彼女は自動的に軽い催眠状態になりました。その状態で、直前二十四時間におきた不快な出来事や不安などをすべて話してくれたのです。彼女はそれを『排出』と呼び『煙突掃除』にたとえていましたが、これが次の二十四時間を気分よく過ごすうえで、役に立つことがわかりました。しかしヒステリーの症状にはなんの効果もありませんでした。ところがある日、偶然に、私は効果的な治療法をみつけたのです」
    ブロイアーは次に、ヒステリーの起源をつきとめることによって、症状がひとつひとつ消えたばかりか、ついにはすべての症状が解消するにいたった経緯を語った。彼は、症状のひきがねとなった根本的な体験を彼女自身がつきとめ、再体験する手助けをしたのだ。それは父の死にまつわる恐怖だった。

    「意味!」
    ニーチェは椅子の肘掛をぴしゃりとたたいて言った。
    「そう、それです!きのうあなたが帰ってから、まったく同じことを考えていました。今おっしゃったように、『意味』が鍵なのかもしれない。ことによると、そもそものまちがいは妄念の『意味』を無視してきたことかもしれない。あなたはベルタのヒステリーの症状のひとつひとつを、そのきっかけとなった出来事をみつけだすことで治したのですね。しかし、そのやり方は自分には合わないとおっしゃった。妄念の原点がすでにわかっているからだと…

    ブロイアーがだまったままなので、ニーチェは話を続けた。
    「想像してみてください。『永遠に時を刻む存在の砂時計』を。幾度も繰り返し、砂時計はひっくりかえされる。そのたびに、あなたも私も逆さまになります。単なるしみにすぎない私たち、取るに足らない存在の私たちも」
    ブロイアーはニーチェの言うことを理解しようとした。
    「こんな想像が…一体何の役に…」
    「これは単なる想像以上のものなのです」
    ニーチェは言い張った。
    「思考の実験どころかもっと力のあるものなのです。私の言うことだけに耳を傾けてください!ほかのものはすべて無視して…たとえば、無限について考えてみてください。あなたのうしろに…かぎりなく遥かかなたの過去を見るとしましょう。時は無限の過去に向かってのびているのなら、起こりうることはすべて、すでに起こってしまったにちがいない。そうではありませんか?今過ぎ去っていくすべてのことが、この道を以前にも通り過ぎたにちがいないのです。ちがいますか?ここを歩くものは以前にもこの道を歩いたのではありませんが?もし無限の時のなかで、すべてがすでに過ぎ去ったものの繰り返しだとすれば、この瞬間、こうして木々のアーチの下で小声で話しているこの時はいったい何なのでしょう?同じことが以前にもあったにちがいない。そういうことにはなりませんか?無限に過去にさかのぼれる時間は、未来にも無限にのびているにちがいない。私たちは、この瞬間、いえ、あらゆる瞬間に、永遠に繰り返し立ち戻るにちがいないのです。そうではありませんか」

    「ヨーゼフ、もう一度言います。『この考えにあなたを占有させよ』…このことだけを考えるのです。ひとつ質問があります。このような考えは嫌いですか?それとも好きですか?」
    「嫌いです!」
    ブロイアーはほとんど叫ぶように言った。
    「私は今まで生きてこなかった。自由を味わってこなかったのです。それを考えると、そのような人生を『永遠に生きる』などという考えは恐怖そのものだ」
    「それでは」
    ニーチェは熱心にすすめた。
    「『永遠に生きる』ことが好ましいと思えるように生きなさい」

    「わかったことがまだある」
    ブロイアーは言った。
    「同じことかもしれないが…確信は持てないのだが…私たちは自由であるかのように生きなくてはならないということだ。たとえ運命からのがれられなくても、運命に向かって顔を上げて進んでいかなくてはならない。『宿命が成就する』ように『望まなくては』ならない。運命を愛さなくてはならないのだ。それは…」

    ブロイアーは一息つき、頭をかいた。
    「ほかに何を言えばいいのかわかりません。ただこれだけは言いたい。あなたのおかげでわかったのです。良く生きるためには、まず、必要なものを望むこと、そして望んだものを愛すことです」
    動揺しながらも、ニーチェはブロイアーの言葉に感動していた。
    「運命を愛すること…汝の運命を愛せ。私たちの考えはどんなに似ていることが。背筋が寒くなるほどだ。実はその運命愛について、次に、いえ最後にお教えしようと思っていたのです。『斯くの如くありき』を『斯くの如く私は望んだ』と変えることで絶望を克服する。それを教えるつもりでしたが、あなたはすでにそれを悟られた。強くなられました。」

    「フリードリッヒ、実験してみましょう。あなたの涙が声を持っていると想像できますか?」

  • 文教大学図書館の所蔵情報はこちらです: https://opac.bunkyo.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=335248&test=t

  • ニーチェとブロイアーが生きた時代を、生き生きと表現していて、空気感に嬉しくなる感じです。「おぉ、フロイトだ!」とか、そういうミーハーの意味でも・・・

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