大東亜戦争と本土決戦の真実

著者 :
  • 並木書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (259ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784890633296

作品紹介・あらすじ

アメリカはなぜ終戦を急いだか?元寇に次ぐ日本史上二度目の本土防衛戦の真実。

感想・レビュー・書評

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  • 日本がポツダム宣言を受け入れずに戦争を続けた場合、とてつもない規模の本土上陸作戦が予定されていたと聞いたことがありました。

    防衛大を卒業されて自衛官を長年務められた方が書いたこの本によれば、その作戦は、昭和20年9月に九州方面、昭和21年3月に関東九十九里浜方面であり、日本は上陸地点をほぼ正確につかんでいて、それを迎え撃つ日本側の計画を解説しています。

    結論としては、航空機3000機による特攻、武器は不十分でありながら国民総動員体制による水際作戦により、かなりの被害を米軍にもたらせるので、一定の成果が上がるだろうと予測しています。

    確かに、それに至る沖縄戦や硫黄島の戦いにおいて、米軍は相当の被害を出しているので、本土ではかなりの被害をもたらせるかもしれません。でも、その場合には日本は完全な焼野原になっていたので、復興の時期はもっと遅れたかもしれません。

    この本で面白かったのは、二度目の元寇(弘安の役)において、上陸を許させなかったこと、更には、ペリーの黒船を撃滅する作戦があったことを解説していた点です。

    また、当時の日本人は内心はどうであったにせよ、最後まで戦おうとしていた日本に協力していた様ですね。今年で終戦70年を迎えますが、先輩たちの苦労を思いながら、私達は暮らしていかなければならないなと感じました。

    以下は気になったポイントです。

    ・日本史上で唯一の本土防衛であった元寇において、一度目の文永の役では「後退配備」により苦戦したが、二度目の弘安の役では、「水際配備」により圧勝した(p29)

    ・鎌倉幕府軍が退却するとき、殿軍として戦っていた御家人・少弐景資が追撃してきた、元軍副司令官(劉復こう)を射抜いた(p27)

    ・文永の役において、水際部に突出して博多湾沿いの平地部を二分する重要な地形を鎌倉幕府軍が死守していた。ここを確保していたのが、文永の役における最大の勝因であった(p28)

    ・弘安の役において、元の連合軍は、閏8月1日に総攻撃をすることを決心した(先発隊の東路軍到着は5月末)が、その前日の7月30日に暴風雨が発生して、ほとんどが海の藻屑となった(p31)

    ・小船で敵船に乗り移って白兵戦を挑んだ鎌倉武士たちは、結果的に元軍の得意な陸戦を許さず、狭い船上・船内なので毒矢・てつはう、も使えず集団戦法をできない状態に持ち込んで、得意の「一騎討ち」で切りまくった(p32)

    ・日本軍の最大の勝因は、事前に構築した石塁による「徹底した水際配備」が大いに効果を発揮して、元軍にごく限定的な上陸しか許さなかったことが決定的である(p32)

    ・予期しない新しい状況に臨んでも毅然として対応できるのに必要な二つの資質は、1)どんな状況不明であっても常に一筋の光を見失わず、真実がどこにあるかを見抜く「智力」、2)それをもとに前進しようとする「勇気」(p39)

    ・品川台場の4個の砲台をみて、撃ち合えば絶対に勝ち目がないと判断したペリーは、日本遠征の目的であった「江戸城乗り込み」を断念して、幕府提案通り、横浜で条約締結した(p42)

    ・全国を6つの管区に分けた「鎮台制」において、海防は、横須賀・呉・佐世保に鎮台府を設置した(p45)

    ・1888(明治21)には、鎮台制を廃止して、師団制を採用し、それまで戦時にのみ編成する「師団」を平時から編成することになった。これにより、歩兵・騎兵・砲兵・工兵などの諸兵種で編成され、根拠地から離れた場所でも戦闘できる部隊が常備された(p53)

    ・サイパン、グアムでの失敗から、制海・制空権のない島嶼における水際作戦が現実として成立しないことを学び、洞窟陣地を配備して持久戦に持ち込むことを、ペリリュー島・硫黄島の戦いで行われた。(p59)

    ・松代(長野)大本営への移転とは名ばかりで、その実態は日本の国家中枢機能そのものを移転する「一大遷都」計画であった、インパール作戦が展開されていた時期に、国内では最も大規模な「守勢作戦」が密かに準備されていた(p74)

    ・ソ連が朝鮮半島を南下して新潟から上陸していたならば、日本の国土は本州中央の山地部で分断されて、北海道と本州の日本海側をソ連、太平洋側と四国・九州を連合国が「分割統治」することになって、日本国の2600年にわたる歴史は終焉していただろう(p82)

    ・ガダルカナル島奪回作戦以降、日本陸軍が連戦連敗した理由として、1)敵の上陸時期・兵力の判断を誤った、2)制海権・制空権を喪失した離島における作戦、であったこと(p101)

    ・沖縄戦では、徹底した持久作戦(大本営の水際により上陸阻止をして、洋上の敵船団に空・海からの大規模特攻をかけるとは逆)だったので、飛行場をまるごと敵に渡した。そのため本来は最大降下をもたらす神風特別攻撃が、米軍上陸後はほとんど途中で撃墜されるようにな
    った(p119)

    ・沖縄戦で、撃沈36隻、撃破386隻という大損害を米軍は受けたが、そのほとんどは、神風特攻隊や、海上・海中からの特攻によるもの(p130)

    ・3月中旬から下旬にかけて、満州から一個戦車師団と、三個歩兵師団が決戦兵団として本土に転用された。これらは米軍が恐れていた精鋭関東軍の現役師団、戦車師団は千葉、11師団は四国、25および57師団は南九州へ移駐して、それぞれの方面軍へ編入された(p166)

    ・軍政を担当する軍管区が方面軍と対応するようになったのは、昭和20年1-2月頃、北海道から、第5方面軍(北部軍管区)、第11方面軍(東北)、第12方面軍(東部)、第13(東海)、第15(中部)、第16(西部)である、東日本を統括する第一総軍、西日本を統括する第二総軍、境界線は、滋賀・岐阜の県境から鈴鹿山脈にかけて(p167)

    ・昭和20年2月9日には、日本人の45歳以下の男子のほとんどすべて兵員となり得る体制ができあがった(昭和18年には40歳から引き上げ、20歳から19歳へ引き下げ)。昭和20年1月に急速動員された兵たちは終戦まで、同じ釜の飯を食べて起居をともにした(p168)

    ・航空特攻としては、昭和20年7月15日までに、特攻機3000機(実働2500)、実用機300機(実働250)、直接援護する戦闘機400機を待機させていた(p170)

    ・過酷な状況下に放置された国民は皆、軍に期待してすがっていた。国民のたどりつく精神的な支柱は、結局は「軍」であった(p196)

    ・ソ連はポツダム会議に参加しながらも、日ソ中立条約により交戦状態でないので加われず、中華民国はドイツと交戦していなかったので、会談そのものに参加していなかった。そこで、トルーマンは、チャーチルの次の首相である、アートリーと蒋介石と自分の三人分の署名を行って、米英中三国首脳の名前で「ポツダム宣言」を発表した(p217)

    ・13条から成るポツダム宣言の13条では、日本国政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言すること、を要求している(p220)

    ・1945年5月にドイツが無条件降伏した欧州では、東半分がソ連の占領下となり、共産主義による侵略が現実化していた。この戦争が全体主義独裁を、枢軸国からソ連に移し替えただけの結果になることに気づいた(p226)

    ・8月8日、ソ連は「日ソ中立条約」を一方的に破棄して日本に宣戦布告、9日には満州に侵攻した。米国は手持ちの2個目の原爆を長崎に投下(p234)

    ・8月9日に開かれた最高戦争指導会議では、即時和平を唱える、外務省と海軍省、一撃講和を主張する、陸軍省および大本営陸海軍軍部とで、意見が対立した(p234)

    2015年8月9日作成

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著者プロフィール

兵法研究家。防衛大学校卒。北海道の普通科や機甲科部隊にて小銃手、戦車小隊長、情報幹部、運用訓練幹部として勤務。その後、方面総監部兵站幕僚、戦車中隊長、陸上幕僚監部教育訓練幕僚、偵察隊長、幹部学校戦術教官、研究本部員を歴任。第一線の歩兵・戦車兵から部隊運用、兵站、教育訓練、研究開発まであらゆる軍務を経験。退官後は日本兵法研究会会長として、戦略・戦術・戦法、武士道精神、古代史等を研究しつつ、広く国民に普及する活動を展開している。

「2022年 『現代語で読む 林子平の海國兵談』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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