ナチスのキッチン

著者 :
  • 水声社
3.59
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感想 : 25
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  • Amazon.co.jp ・本 (450ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784891769000

作品紹介・あらすじ

ナチスによる空前の支配体制下で、人間と食をめぐる関係には何が生じたのか?システムキッチン、家事労働から食材、エネルギーにいたるまで、台所という"戦場"の超克を試みた、来たるべき時代への"希望の原理"。新たに発見された事実や貴重なレシピなど、未刊行資料も多数収録。

感想・レビュー・書評

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  • Honzのレビューがあまりにも衝撃的だったのでついAmazonでポチろうとしたが4000円なので踏みとどまった。高い本は書店で手に取ってみてから検討するようにしている。1ヶ月迷って、ついに買ってしまった。初版じゃなかった! すでに重版。いったいこの本、誰が買ってるのか。建築のひとか、家政学のひとか、ナチスオタクか。装丁が格好いい。ちなみにナチスが政策としての台所事情であって、けっして“アウシュビッツのキッチン”ではない内容なのでそこのところ変な期待を持ってはいけないよ。

  • 書店で見たインパクトある表紙にタイトル。
    帯には、「ヒトラーから《食》を奪還せよ!?」
    と威勢のいい煽り文句。

    19世紀からはじまる台所を舞台にした環境思想史を資料を基に論じていく。
    テイラー主義により、システムキッチンの原型となる労働キッチンが誕生し、社会主義思想の元で出てきた共同キッチンは廃れ、電化によりキッチンがテクノロジー化し、栄養学と家政学により科学化され、ナチスの政治的プロパガンダがもぐりこんでくる・・・
    となかなか意欲的で面白い考察なのだが、キッチンのナチ化という本題あたりからどうもピンとこなくなる。言葉だけが大げさになって考察が強引すぎる。

    これって、近代化・都市化に伴う居住環境の変化によるキッチンの変遷と、同時期にナチスが台頭してきただけのことではないの??アメリカや他国のキッチン事情と比較してみないとわからないのではないんじゃない?

    1928~44年の「家政学年報」を論じているが、著者も「論文の取り上げ方に偏りがあることは否めないが」と認めているとおり、どうも著者の主張に沿った論文を紹介しているようである。というか、そこで取り上げられれいる論文が著者の考察が強引すぎる。
    紹介されている内容を読む限り「家政学年報」って「暮らしの手帳」的な雑誌だったのでは?

    さらに、著者は暴走する。たとえば、料理書の冒頭の詩を「おまえの家に幸運が訪れることを・・・」と「あなた」ではなく「おまえ」と訳してしまっているから、どうも怖い。
    「・・・これまでのレシピでは見られなかった人間の恐るべし頽廃をみることができる」

    ちょっと気負いすぎ、というか論文ハイ?な文章が鼻についていたが、読み進めるうちに、この大げさなものいいこそが、ナチスっぽさ?? 著者がナチズムを研究するうちに影響されたのかと思うと、逆に面白くなってきた。

    それは、あとがきにかえての「『食べること』の救出にむけて」で爆発する。
    強制収容所の人たちを体内に蓄積されたエネルギーを調理する究極のキッチンとして、さらに現代の朝の「瞬間チャージ」を取り上げ、「どうして、強制収容所という私たちの生活からもっとも遠いところの現象が、こんなにもリアルに感じられるのだろうか。」と嘆く。
    うーん、著者の食生活がちょっと心配。

    せっかくなら、強制収容所のキッチンがどのように運営されていたのかについて教えてほしかった。彼らにとって人間としての尊厳を保つ場が「自ら調理をする」というキッチンだったのでは? 

    さらに「葉緑体を体内に埋め込み、太陽光でブドウ糖を生産する技術が開発され、台所と食事を破棄する日も、そう遠くはないだろう。」って・・・・・冗談で言っ
    てるですよね、藤原さん。

    著者は、栄養学による科学的支配、ナチスによる構造的支配、企業による道具による支配の中で自主性を損なわれ、「台所に立つ主婦は脅迫に満ちた緊迫感のなかで仕事にひたすら仕事に向かわなくてはならない。」と述べる。

    そうなの?
    本書によると、ナチスによるキッチンへの政治的試みは決して成功しているとはいえない。時局にあわせてレシピ本の巻頭に勇ましい言葉が並べられてようと、主婦たちは、そんなのは読んじゃいないだろう。
    主婦は、様々な制約の中で、おいしいものを作ろうとしていたのではないだろうか? たとえ、機能的に飾りを廃したキッチンに押し込められても、「カワイイもの」で飾りをつけていたのではないだろうか?
    「料理する楽しさ」をナチスでさえも奪うことはできなかったのだ。
    キッチンを飾りたて楽しく料理することこそ、「キッチンからのレジスタンス」だったのだ!と本書を真似て大げさに言ってみる。

    著者の現在のキッチンに対するあありにも悲観的な認識も気になるし、共同キッチンを理像として描くのも気になる。

    最後に帯を見直すと、
    「ヒトラーから《食》を奪還せよ!」
    ではなく、
    「ヒトラーから《食》を奪還せよ!?」
    と最後に疑問符。
    …そうだよね、水声社さん。

    レシピから時代を読む、とか面白い試みだし、すごい労作なのに、微妙な感じ。
    歴史から過剰すぎる物語を読み取るのは危険である。


    ただね、ドイツでキッチンに関わった3人の女性の運命がすごく劇的。
    カリスマ主婦のようなエルナ・マイヤーは、戦前にイスラエエルにのがれ、85歳まで生きる。
    戦前に国外に脱出した女性建築家のリホッキーは、ドイツに戻り反ナチ運動に参加、逮捕され死刑判決を受けるも減刑、2000年に103歳でこの世を去る。
    女性向け消費者相談所を開設したマルギスも反ナチ運動に身を投じる。彼女は逮捕され、拷問を受け死亡する。享年57歳。
    マルギスの娘婿がナチ党の外交官であのV兵器を作ったブラウン博士の兄。そこからV兵器の情報を連合国に伝えていた…。

    いやもう、これだけでもう脳内ではドイツのキッチンをめぐる3人の女性の映画が上映され、拍手喝采の嵐。

    マルギスの伝記があるらしい。藤原さん、翻訳してください。

  • 人は台所に何を求め、台所はどのように変遷してきたのか。ナチスの時代を挟む現代ドイツの台所史を通して、「食」のあり方を考える。

    本書で論考されるのは、主に、1919年から1945年のドイツ台所史である。ドイツの、ではあるが、日本の公団のダイニング・キッチンは1920年代のドイツのキッチンをモデルとしており、現在使用されている「システムキッチン」もまた、源流は20世紀前半のドイツにあるとのことであり、日本にもあながち無縁な話ではない。

    近代以前の時代では、竈は密閉された形ではなく、台所には煙と煤がつきものだった。時代が下るにつれ、竈はしっかりと覆われていき、燃料を過剰に使用する必要がなくなり、また調理時間も短縮される。排煙設備も発達するため、煙や煤が家の中にこもることもなくなり、台所と居間の境目がなくなっていく。
    都市化の流れのなかで、台所に充てられる空間は狭くなり、技術の進歩と相まって、コンパクトなキッチンが生まれていく。
    一方で、この頃、何家庭かが台所を共有して省力化を図るセントラルキッチンの試みもなされたが、大きな成功は収めなかった。

    調理器具がテクノロジー化され、加工食品なども生まれてくると、台所は市場化の波にさらされていく。商業化の一端は、レシピ本にも現れる。電機企業のために電気釜を使ったメニューを載せたり、チョコレート製造業のためにチョコレートのレシピを載せたり、といった具合である。

    この時代は、家政学が発展してきた時代でもあった。台所環境の変動に合わせ、家事マニュアルが登場し、家庭を「マネジメント」するという観点が生まれる。なかでも、テイラー主義と結びつけられた家政学が注目される。テイラー主義とは、アメリカの機械技師、フレデリック・ウィンスロー・テイラーが提唱したもので、科学的見地に基づき労働改善を行おうという理論・運動である。要するに合理化・効率化と言ってよいだろう。調理器具や食器の配置、動線の考察、作業をするときの姿勢など、当時の研究者による、実に細かい考察が残されている。

    こうした流れのなかで、ナチス政権時代に移り、世界は第二次世界大戦へと向かっていく。
    ナチスの支配は家の中にも及び、台所にもプロパガンダが入り込んでくる。
    曰く、台所は「戦場」であり調理器具は「武器」である。主婦もまた、国家のために闘う兵士というわけである。ドイツの食材を使い、無駄をなくし、合理的・効率的に家政を行うべきである。優れた主婦は「マイスター」の称号を得、一方、「不良」主婦は「教育施設」に入れられることもあった。主婦の世界にもヒエラルキーが導入されたわけである。そして、さらに下層に非アーリア系の女性たちが据えられ、ドイツ式の家事を押しつけられていった。
    戦時下には、レシピ本にも、残り物を使った料理やアイントプフと呼ばれる節約・煮込み料理が登場してくる(アイントプフは日曜日の節約料理として推奨され、皆が安価で素朴な料理を食べるプロパガンダとして利用された)。マギーやクノールのスープの素などもこの頃、盛んに使われており、プロパガンダとしてのレシピ本にも、特定企業のブイヨンの名前が出てくる。ナチスと企業(=政治と経済)の結びつきもまた、無視できない側面であったのだろう。

    個人的には本書を読んでいて、近代化の流れのなかで、ナチスの登場が台所の姿を強い力でねじ曲げていったような印象を受けた。
    この本の主題は1945年までなので、これ以降どうなったかはまた別の話となる。

    食はある意味、面倒である。ある程度定期的に取らねばならないし、そのたびに準備せねばならない。
    しかし、面倒だからといって効率だけに流されては、無味乾燥になってしまう。
    楽しく食べるということと合理化・効率化は、最後のところで相容れないものがあるのだろう、とぼんやりと思う。

    収容所での「食」に触れた、あとがき代わりの著者の一文は重い。食べるものを失った収容者たちは、自らの体の栄養分を自ら消費していくしかなかった。最後には、自らの身体をもはや「ただの肉」としか感じられなかったというのである。それはある意味、究極のキッチンの合理化ではないか、と著者は問う。
    現代の食事情の中で、「ナチスのキッチン」をどのように捉えればよいのか、なかなか整理がつかないのだが、この一文を書かずにはいられなかった著者の思いの強さを感じつつ、自分もまた、引き続き考え続けていきたいと思う。


    *関連書
    ・『戦争と飢餓』
    ・『HHhH』

  • 藤原辰史『ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』水声社、読了。ナチス時代の台所を材料に、20世紀の社会構造を分析する大著。

    「私的な」「個人的な」作業場は、最新の技術や学問(家政学、栄養学、建築学)などを駆使することで、機能的かつ衛生的な「作業場」へと統合されていく。「私だけの城」という幻想は、食材を効率的に調理・保存することを可能ならしめるが、それは健康な夫と子供が輩出が目的でもある。最終的にはそれが戦争へと集約されていく。

    「公共性」という視線の配置のしたたかさに驚く。
    テレビをつけると機能的な「台所」「キッチン」、そしてリフォームのCMがとぎれることはないのが現代社会とすれば、単なる「過去の話題」ですませることのできない社会分析。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/58276

  • 健康的な食事も健康な兵士を作るための国策だったという点は強調されるべきでしょう。ただ、キッチンやレシピなど調理の効率化のための具体的なソリューションを提示するところは、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」の大日本帝国よりは相対的には科学的と言えるでしょう。

  • ナチス政権下におけるドイツの日々の食卓の風景を取りあげた一冊。

    所蔵情報:
    品川図書館 383.9/F56

  • 歴史

    ノンフィクション

  • 「台所」をこのような概念で捉えたことは今までなかった。とても新鮮で興味深い。また善の象徴と思い込んでいた自己循環システムがブラックであるというのも気づきである。

    [more]<blockquote>P17 台所は、一国の権力者を動かすほどの強力な政治的圧力装置であり、企業が甘い言葉をささやき続ける大口の顧客であり、汚染水と廃棄物を自然に捨て続ける巨大な環境破壊者でもある。

    P31 「台所」は日々の工夫の中から自然に成立していったスタイルであり【中略】これに対して「キッチン」は生活改善運動家、建築家、デザイナー、あるいはコーディネーターと言った人々によって意図的に設計(デザイン)されたもの、【中略】そのスタイルは全国的にほぼ画一的である

    P32 (ドイツの一般の家庭は)夜は冷蔵庫から取り出してきた食べ物をそのまま食べることが多いため、電子レンジは日本ほど普及していない「ほかほか」の食べ物に対する執着はしばしば日本のほうが強い

    P34 台所が人間による自然の加工/摂取の終着駅であり、エネルギー網の末端である。つまり、人間と自然を取り結ぶ物質のリレーの中で、台所は生体系の最も人間社会に近い中継地点であるとともに、自然から取り出してきたエネルギーや道具を販売する企業にとっては大きな販路なのである。【中略】つまり台所とは、人間が生態系の中で「住まい」を囲う時にどうしても残しておかなくてはならない生体系との通路なのである。

    P303 毎日の食事に細心の注意を払えーアドルフヒトラー政権下のドイツ国民は、この意識を徹底的に叩き込まれた。健康な身体を「総統」ヒトラーに捧げねばならぬ国では、食事は「自分だけのもの」ではなく「国家のもの」というわけである。

    P357 ナチスにとって全く逆の価値を持つはずの「ドイツ国民」と「囚人」は、しかし結局は食を自分で選ぶという自由を、部分的にせよ完全であるにせよ、権力にゆだねた点では同等である。食はその人の「生き方」を如実に表す。他人に指示されてしか「生き方」を選べなかったナチたちの悲惨さが、ナチスの「食生活(ダイエット)」から浮かび上がってくるのである。

    P359 この「機械」こそが、ナチスが究極的に主婦に求めたモデルであった。まさに食の内実が均質化し、主婦の人間性が剥奪される代わりに、台所があたかも生命を持った有機体のように、吸収、消化、排出を繰り返す。

    P360 ナチスの手口が巧妙なのは、そこに社会参加の意識を植え付けたことである。【中略】国家のために戦っている幻想の中で仮象の「誇り」を与えることである、それと、情熱も感傷もなくひたすら任務を遂行する「精神なき専門人」という像は、矛盾するようで実は一致する。主婦たちを考えさせず、感じさせず、考えを強要し、型にはめ、空間に埋め込む。

    P371 栄養学が変形したビタミン信仰は、医学によってがんと診断される病気の数が増えたことによって、いつ突然襲ってくるかもしれない病気という新しい外部に対する恐れを養分に、急成長を遂げた。

    P418 「夜と霧」を再読して気づいたことは、企業の労働力として考えたときの囚人のコストの安さの秘密は、自分自身を食べることにあった、という単純な事実である。毎日収容所から配給される食べ物だけでは生命を維持できない囚人たちは、フランクルの言うように、ひとかけらのパンを食べ尽くしたあと、ついには自分たちを食べ始める。刃物も火もレシピも必要としない、究極的な台所の合理化と言えよう。

    P419 「人間の中に台所を埋め込むこと」と「台所の中に人間を埋め込むこと」ーそれぞれ台所の合理化を強制させられた囚人と主婦は、なるほど確かに全く次元の異なる存在である。しかしながら私は、この両者のあり方に、近現代人が求めてきた食の機能主義の究極的な姿を認めざるを得ない。どちらも人間ではなくシステムを優先し、どちらも「食べること」という人類の基本的な文化行為を限りなく「栄養摂取」に近づけているのだ。【中略】これは、端的に言ってしまえば、この世界がナチズムと陸続きだからである。

    P422 自然のコストが安いのは、それが、人間が構築できないほど高度な循環システムを有しているからである。【中略】さらには、底辺社会もまた循環システムに他ならなかった。【中略】自前で循環する底辺社会は「最暗黒」と名指しされ不可視化されてきた。【中略】当然ながら循環世界は疲弊する。</blockquote>

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著者プロフィール

1976年生まれ。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農業史、食の思想史。2006年、『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房)で日本ドイツ学会奨励賞、2013年、『ナチスのキッチン』(水声社/決定版:共和国)で河合隼雄学芸賞、2019年、日本学術振興会賞、『給食の歴史』(岩波新書)で辻静雄食文化賞、『分解の哲学』(青土社)でサントリー学芸賞を受賞。著書に、『カブラの冬』(人文書院)、『稲の大東亜共栄圏』(吉川弘文館)、『食べること考えること』(共和国)、『トラクターの世界史』(中公新書)、『食べるとはどういうことか』(農山漁村文化協会)、『縁食論』(ミシマ社)、『農の原理の史的研究』(創元社)、『歴史の屑拾い』(講談社)ほか。共著に『農学と戦争』、『言葉をもみほぐす』(共に岩波書店)、『中学生から知りたいウクライナのこと』(ミシマ社)などがある。

「2022年 『植物考』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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