これは――『学校であった怖い話』という物語の元型(アーキタイプ)。
挨拶は省略させていただきます。上巻のレビューで余談めいた説明はおおかた吐き出すことがかないました。
よって、まずは結論から入ります。ただ一つ言えることは「主人公の身に何が起こったかは、読者それぞれの解釈に委ねられている」ということ、それだけです。
それだけで論を終えてしまうのはいささか興ざめなのでこれまでの話を振り返りがてら私なりの意見を述べさせていただきますが、これらが決定稿であるとはゆめゆめ思うべきではありません。
それでは最終話に焦点を当てて論を振る前に上巻に収録された話の軽い振り返りをしておきます。
虚構が現実へ迫ってくる、時間制限付きの死の恐怖「高木ババア(新堂誠)」。
身勝手で狂った理論を押し付けてくることに読者としても困惑する「ゲーマーの条件(荒井昭二)」。
飲む方と飲まれる方、そして飲ませる方という世の裏側がおぞましい「あなたは幸せですか?(福沢玲子)」。
コミカルな話術の中に確かに自分を見下す視線を感じる「かぐわしきにおひ(風間望)」。
詳細についてはやはり他のレビューに依存させていただきますが、いずれも七話目に向けた雰囲気づくりに貢献してくれます。
それと今回の話の共通点というより、選択式のノベルゲームから派生した小説であるがゆえの宿命とは言えますが、一方的に読み進めるしかないにもかかわらず妙に選択を強いられる場面が多いように見受けられました。
ただし、聞き手である主人公に選ぶ権利は与えられておらず、一方的に彼らの狂った価値観や横暴な要求をぶつけられる羽目になります。
そして、主人公の心情が語られる機会は最後の七話目まではありません。
その辺の読者にものしかかるストレスを考えると、わかりやすく心地よいホラーとして読み進めるのは二十五年後の今になったとしても結構難しいのかもしれませんね。
それでは上巻にならいまして「南部佳江(現:南風麗魔)」氏のペンによる挿画について軽く触れてみます。
『偽りの愛』
佐藤君を誘う及川さんの様子を黙って見つめる本田さん、佐藤君の死後「泣く」女子生徒たちと泣き顔を見せない本田さん、腹を裂かれて無様な及川さんを見下ろす本田さんの三点。
『魅惑のトイレ』
ゆがんだ構図のトイレの個室で下を向いて佇む細田さんの一点。
『学校であった怖い話』
閉じられた部室の扉に落とされた影と細田さんと岩下さんの横顔、夢の中で高木ババアと隣り合う坂上修一、黒電話の背後に滲み出る岩下明美を中心にした「七人」の情念、人の形か自我が崩れゆく坂上修一をすまし顔で見つめる風間望? の四点。
以上八点です。
わりと抽象的な意図に基づいて配置されたイラストが目立ちますが、上巻の赤川君に続いて及川さんがやたらデフォルメ的に丸かったり、臓物はもちろん表情も見せない構図だったりします。愛される「キャラクター」として彼ら彼女らを捉えるのは不適格であることがわかるかもしれません。
黒々として不穏なタッチとはいえ、時に戯画的にまとめられている筆致に別の意味での容赦のなさを感じたことも確かですけどね。
あと、(元々描き分けづらい事情ありきにせよ)風間さんと新堂さんの違いを見分けることが困難だったりと、語り部たちはひとつの「群」とみなされることが多い初期の風潮を引き継いでいるように思えました。
それでは、構成としての下巻に触れていきます。
単独で完結した話として読めた上巻とは違い、後半部となるこちらでは七話目――満を持して主人公坂上修一視点の表題作『学校であった怖い話』に印象を集約していくのが特徴です。
一週間後に都市伝説妖怪「高木ババア」に殺されると予告され、よくわからない同人ゲーム「スクール・デイズ」を盗んだんじゃないかというあらぬ疑いをかけられ、変な宗教にまつわる懺悔を聞かされる。
それから、コカ・コーラとペプシコーラを買ってこさせられる。
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血しぶきや反吐がやたら目立った前半部の三話の後に一旦箸休めとばかりの風間さんを挟んでから、「忘れないで」と全力で主張するかのような岩下さんの話『偽りの愛』、まずはここがポイントです。
人は裏切り、裏切られるもの。だから裏切られる前に裏切る。
明らかにおかしいんですが、どこか納得がいくような論理をぶつけながら脅し上げる岩下さんの糾弾に冷や汗が隠せなくなったところで、地味に精神の均衡を欠いたような細田さんの話『魅惑のトイレ』がやってきます。
そんなわけで六話連続でどこかおかしい話を連続で聞かされた主人公は集会後に一週間という死の宣告を与えられたことで、輪にかけておかしくなっていくことに。
度々されているツッコミですが、この小説、タイトルからしても確かにおかしいです。そもそも「学校」で起こった話が六本中二~三本しかない上に、学校新聞に載せられる範疇の話でさえ半分ってところですから。
ただし、主人公の心中は上巻収録のプロローグ時点からして、ゲームと比較すれば違和感があるのですよ。
当初の些細な棘が段々と育っていき七話目のはじめで主人公が抱いた感想については、初見の方であればあるほど共感していただけると思います。だからこそ、この時点でさえどこかおかしくなっていることに気づきにくい。
コアなファン目線としては自分がこのシリーズに慣れ過ぎているという分析もできる一方、主人公の内心が過剰反応に思えてしまうことも確かだったりします。当事者になってしまえば納得できる反面、その後の彼の行動から逆算して色眼鏡をかけてしまう面もあるとはいえ。
ここで冒頭にひるがえり主人公の身に何が起こったかについてはにべもなく言ってしまえば「七不思議の集会」の後に一気におかしくなって、一人自殺を図っただけなんですが、ここの解釈が曲者。
なにせ彼の視点から得られる情報が段々あてにならなくなってくるので、本編以外の周辺情報の手を借りるのもアリだなと思えてきます。
ここで小説版とある程度歩調を合わせたゲーム本編からイマジネーションをいただくとすれば、第三者の霊が憑りついて主人公を狂わせたという解釈が一つ挙げられると思います。
たとえばスーパーファミコン版だと風間さんを六人目に選んだ際に発生する七話目ですが、比べてみれば意外と直接的な類似性がみられますね。
そのほかにも『隠しシナリオ01』では行方不明になった六人の語り部たちとの会話を介して、精神の均衡を欠いたと判断された主人公が病院に入れられてしまうというものも存在します。
これもかなり似通った話ですが、彼ら彼女らが幽霊であったか、主人公の人格の一側面であるかは小説版と同じくぼかされていて判別がつきません。
一見して平凡な少年である主人公がその実、自分でさえ気づいていない内面の奥底に危険な人格を隠していた……と解釈すれば、彼が知っているはずのない危険な怪談や思想が表に出てしまうこともギリギリ納得できないことはないのかもしれません。
また、彼自身でなく彼を取り巻く世界についてに視点を移せば、集会の前後を境に主人公が異なった話の前提(設定)を持つ「平行世界」に移動していたという、作中でも振られている「気づき」が手に入ると思います。
主人公の視点が狂っているのは仕方ないとして。これなら話に矛盾は発生しにくいので上記の解釈と組み合わせると、ここまでなにもわからずに混乱してきた読者も主人公も安心できるのかもしれません。
と、まぁ、ここまでが多くの方が辿り着ける解釈ですね。
これで終わってしまっては面白くないし、私も改めてレビューを書いた甲斐はないでしょう。
ここで問題となるのは七人目として登場し、上巻の冒頭に収録されている謎のエピソード『ワタシの人形』でも存在が示唆されている謎の女子生徒「大本真美」ですね。
ここで彼女と絡めて新解釈を示すとすれば――、「坂上修一は本当に生きているのだろうか?」というものです。
『ワタシの人形』は人形の目線から描かれる五百字強の掌編です。本来誰かの持ち物であるはずの人形が自分の所有者を逆に人形とみなしてそらぶくストーリーなんですが、もしこの「人形」が人間が人間である上で欠かせない、必要不可欠ななにかであったなら――?
そして、なにかの拍子に懐から抜け出してどこかに行ってしまったりする気まぐれで残酷な存在だったりしたら……?
筆者である飯島氏は二十二年後のとある日に人形とは「命」のメタファーであるという解釈を某所で提示しました。たとえ命そのものでなくても万人が持つ大切なものが「人形」であるのなら……?
人形≒命がふとした瞬間に体から抜け出して、容れ物である肉の体をなぶったのがこの話の流れと考えれば……?
そしてエンディングで体から半ば抜け出て、肉とは無縁の人形たちが宙ぶらりんな状態で主人公のことをやっぱり見捨てずに慰めているのだとすれば……?
ええ、「すればすれば」が非常に多くて気色の悪い文になってしまいましたがご容赦ください。
ただ、言えることがあるとすれば。「命」であれなんであれ、自分が自分であることを不可逆的に証明する「なにか」が独立して存在し、独り歩きしている世界って怖くないですか?
そして、そのことに気付けるのが狂人か、既に命を失ってしまった亡者ってことを鑑みますと。
ものすごくこの世界が薄気味悪く、薄皮のような「無知」に支えられているように思えてなりません。
……よって私はここに宣言します。
自分がふとしたことをきっかけに正気を失ってしまうかもしれない恐怖。
自分が見知っているはずなのに何かが決定的に異なっている世界に飛ばされてしまう恐怖。
私はこれら従来のふたつの解釈に「自分とは限りなくイコールではあるけれど自分の意志ではどうにもならない自分に見放されてしまう恐怖」をプラスして提示することを。
そして、もちろんこれらの解釈って今まで通りに複合すると考えてもいいんですよね。
きっとおそらく。もう一言、原作者の口から言葉がもらえればこの小説版『学校であった怖い話』の解釈は不動のものになるのでしょう。
けれど、今の私はこれら三つの解釈を部分的につなぎ合わせながら頭の中で踊らせることにします。
ただ……ここまで私が語ったとしても、あまり要領を得ないと思った方も多いはず。
でも、それでいいんです。漠然とした自分なりの像を脳内で結び、考えるという過程はそれはそれで面白い想像を生むはずですから。
そうなんですよ、仮にも「怖い話」と号している以上はミステリーの教材にするのも余技としては悪くないのかもしれませんが、いかんせんこの作品はホラーですのであしからず、なのですよ。
なにはともあれ「人形」とはなにかを宿すものという先入観に目が曇っていたのかもしれません。
宿す方の「なにか」を人形にたとえるというのもなかなかに面白い着眼点だとは思いませんか?
実際、ゲームの方のシナリオにも「人形」をモチーフとした名作シナリオは存在するわけですが、それについて語るにはいささか紙幅が足りないようです。
酷く漠然としていて自分の手にも目にも届かない恐ろしいなにかが存在しているのかもしれない、たとえそれは一般的には愛おしく思えるものであるのかもしれなくても。人の手に届かないなら、やはり恐ろしい。
今の私が語るのはここまでで満足するしかないようです。
さて、最後に重ねて申し上げておきます。はじめのことわりで申し上げた通りに考察の一助になれれば嬉しいですが、支配的な解釈になってしまうのは望むところではありません。
上巻で紹介させていただいた通り、内容を知る手段は豊富なのでどうか一度はご自身のクオリア(感じ)で挑まれてください。わからないとしても、漠然とした恐怖が手に入るならそれだけで正解かもしれません。
以上、七話目に傾注するあまり普遍性に欠くレビューになりましたが、『学校であった怖い話』もまたそこから派生した「アパシー・シリーズ」なる世界観が大きく広がりを見せたのは本作が最初の派生作品として置かれたことあってのことなのかもしれません。
狂気に走るかもしれない不安定な内省はもちろん、漠然とした不安感が充満する「世界」そのものの恐怖。
いかがでしたか? 『学校であった怖い話』発売から二十五周年という節目であるこの年月日にこのレビューを提示できたことを私は誇りに思うことにします。