はじめたばかりの浄土真宗 (インターネット持仏堂 2)

  • 本願寺出版社
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レビュー : 16
  • Amazon.co.jp ・本 (184ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784894167780

感想・レビュー・書評

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  • わかりづらい
    話がかみあってないのかもしれない

  • 読了。図書館で借りてきた本である。なかなか何かから逃げる行為のときでないと読めないと思う。難しいので、仕事から逃げるために読んだ。

  • 読み進めるにつれ、だんだん難易度が上がってきて、最後の方はちょっと理解が追いつきませんでした。言わんとしていることはぼんやり分かるけど、少しでも気を抜くと、途端に記憶からこぼれていってしまう、みたいな。で、最終的に”浄土真宗”にどれだけ迫ることが出来たかというと…。何かの機会があれば再読します。

  • 『いきなりはじめる―』に引き続き。

    いやー、宗教ってものを甘く見ていたと痛感。
    仏教を哲学として…とか、わざわざ浅く取り入れる必要もないですね。

    宗教についての大きな流れから、仏教について分かり、
    その中で真宗にどういう特徴があるのかはわかりました。
    なんとか入門はできたという感じです。

    自分自身の宗教性、知性や倫理について、
    考え直すよいきっかけになりました。

  • 浄土真宗・親鸞・歎異抄・悪人正気
    難しい部分についてある程度解説しているのですが
    ちょっと難解。というかこれだけでは、理解がたりない気がします。
    また、今回の内田氏のレビナスについてのテーマ・
    宗教と常識と倫理も難しかったと思います。

  • 『いきなりはじめる浄土真宗』の後編である。前編を読んでいなくとも充分に面白い。もちろん、1・2と続けて読めば、話の展開はなおよく分かる。ただ、浄土真宗の僧侶である釈氏と、レヴィナシアン内田樹の対話による浄土真宗講義を期待すると、裏切られるかも知れない。本来は、そういう展開を考えてのインターネット持仏堂開設だったようだが、二人の立ち位置の微妙なちがいが、浄土真宗の宗教的ポジションなどという狭い領域を飛び越えさせ、宗教とは何か、倫理とは何かという命題を考えさせる思いもかけない対話を生んだ。

    少し前、「なぜ人を殺してはいけないのか」という子どもの問いに、どう答えればよいのかという話題がマスコミを賑わしたことがあった。教育学者や哲学者と呼ばれる人たちが真面目に論議し、何冊か本も書かれたように覚えている。その当時、不遜にも「そんなこと当たり前だろう」と、はなから相手しないのがいちばんだと思っていた。世の中には訊くべきこと(訊いていいこと)と、そうでないことがあるのだ。

    常識の分からない人間に常識を説くことのむなしさを知っている者から見れば当たり前なのだが、そういう輩に限って「なぜそれが常識って言えるのサ」と食い下がってきたりするから始末が悪い。そのあたりのややこしい事情を、いつものことだが明晰に解説してくれるのが内田センセである。その15「さらに宗教と倫理」の一章だけでも読んで損はしない。

    内田は「世界の成り立ちに遅れて到着した感覚」が「宗教性」の根源にある体験だという。私たちは、自分がなぜ生まれてきたのか、どうして「いま・ここ」にいるのか満足に説明することができない。このおのれの無知と被投性の自覚が宗教の始点だ。しかし、そこから、「だからどんなふうに生きたって誰にも文句は言わせない」という道徳的アナーキズム、つまりニヒリズムまでは、あと一歩だ。

    「神様に会ったことがある」という狂信者と「神なんていない」というニヒリストの「中間」に倫理の立場がある。してはいけないこと、しなければならないことの根拠は「ないようだけど、ありそう」という「決然たるあいまいさ」の中に倫理が存在する、というのが内田の考え。「倫理」は「常識」のようなものだ、と内田は言う。ただ、「常識」という言葉はとらえどころがない。時代や場所が変われば理解不能のものに過ぎない。

    「常識」は普遍的な原理にはなれない。共同体の中でこそ命脈を保つが、その外では通用しない。「私にとっての『当たり前』はあなたにとっての『当たり前』ではない」。それが、「あらゆる集団がそれぞれの『当たり前』を持つのは『当たり前』のことだ」という認識を呼び寄せる。倫理というのは、身内には強制的だが、「他者」には宥和的に機能するものなのだ。だから倫理は本質的に「反-原理的」なものである。

    世の中には「すべての人間は……しなければならない」と説く社会理論や政治思想が存在する。それら「原理主義的言説」は、内田によれば「節度を知らない理説」「非倫理的な思考」に区分される。その理説の論理的整合性は問わない。「正しいけれど倫理的でないこと」は、常に存在するからだ。その場合、どちらの判断枠組みに軸足を置くかは、その人間の実存的な決断に委ねるしかない、というのが内田の立場である。

    こう言われてみると、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対して、「そんなの常識だろ」と応えることの意味がよく分かる。子どもがそういう問いを発するときは、おのれの無知と被投性をおぼろげながら自覚しつつあるのだ。ニヒリズムに走らせるか、節度ある常識という「あいまいさ」の裡に決然と立たせるのか、答える大人の側の「倫理」観が問われているのだ。心してこたえねばなるまい。

    あえて宗教とは言うまい。政治的であれ、思想的であれ、自分の正しいと考える立場を相手に押しつける原理主義が、多くの命を奪う悲惨な状況を生み、国と国との友好的な外交関係を危うくしている。アメリカ流「民主主義」の押しつけや首相の靖国参拝がそれだ。「常識」や「節度」という言葉には原理主義者の使う言説の勇ましさはない。せめては、決然と「あいまいさ」の中に立つことで、倫理的な立場というものをまっとうしたいと思うのである。

  •  前著の続き。

     休日に、少し落ち付いて宗教のことを考えるのもいいものだと思う。

    ①釈:ウェーバーのプロテスタントが果たした資本主義への貢献を、日本では浄土真宗や石田梅岩の商人道が果たした。(p148)

     大きく出ましたね。でも、マックスウェーバーの説も中国とかに資本主義がでてきているので、なんか色あせてきましたね。古典ではありますが。

    ②内田:オカルトと科学を切り分ける境界線があるとすれば、私は「倫理性」ということにつきると思います。そして、それはオカルトと宗教を切り分ける境界線と本質的にはかわらないだろうとも思うのです。(p131)

    ③釈:真宗はあ、日柄、方角などの習俗・俗信、占いやまじないに迷わないことをモットーにしています。大安や友引といった六曜を無視し、死は穢れでないので、忌中の札もはらず、そしてお清め塩は使わない。(p94)

     確かに、神道とか民間信仰だと、けがれの話が多すぎるので、それを超越する真宗は強いところがあるね。

  • 全編を通じて内田節満載の、釈徹宗との仏教談義往復書簡。
    浄土真宗のぼんやりした概念を内田流の世俗的な例えに置き換えて理解を試みる思考法は、「なんか違う気がするけど納得する」というエンターテイメントとしては楽しめる。
    冷や奴にカレーソースをかけたら意外にウマかった、みたいな気分。
    ウマいけどそれ豆腐味じゃなくてカレー味でしょ、って。

  • 最強の入門書だろうな。
    浄土真宗に限った話ではなく、宗教そのものを考えさせられる。
    内田さんの思いがけない切り口と、釈徹宗さんの仏教解説、けっして完全一致せず、どこか微妙なズレがありもどかしい。しかし、そのなかに共通部分を見出したとき、宗教の輪郭が浮かんでくるような気がする。

    「縁」にはじまり、因果律と宿命、善性と邪悪、様々なことを論じる中でところどころに、はっとさせられる論理が顕れる。これはすごい。

    自身の中に根付いている(かもしれない)宗教性を発見させられた。

  • 私は真言宗が強い地域で育ったので、浄土真宗がどんな宗派か知りませんでした。
    浄土真宗のことが分かりやすく解説されているだけでなく、宗教全体、倫理・常識、近代思想という幅広い視点から内田先生と釈住職の書簡のやりとりが進むあたりは、他の宗教本とは一線を画している印象です。
    面白かったです。

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