- Amazon.co.jp ・本 (488ページ)
- / ISBN・EAN: 9784894341944
感想・レビュー・書評
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この作品は19世紀中頃のフランスメディア、出版業界の実態を暴露した驚くべき作品です。バルザック自身が出版業界で身を立てていたこともあり彼はこの業界の裏も表も知り尽くしています。この作品ではそんなバルザックの容赦ないメディア批判が展開されます。もちろん、それは単なる批判ではなくバルザックの悲痛な願いでもあります。本当にいいものがきちんと評価される世の中になってほしいという思いがそこににじみ出ています。
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記録
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予想と違い、面白さを感じることができなかった。
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挫折
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「ペール・ゴリオ(ゴリオ爺さん)」もそうだったのですが。読みたかった本なのだけど、いかんせんハードカバーの実書籍。日常の電車通勤に持ち運ぶのは、重くて大きくて面倒です。(そうです、体力無しの面倒くさがりです。ごめんなさい)
という訳で、8月に取得できた超ド級の長期休暇の愉しみにとってありました。
あとあと、忘れたときの備忘にメモっておきたいことは、普段ではなかなか行けないジャズ喫茶で「ゴリオ」も「幻滅」も読んだこと。四谷「いーぐる」、神保町「オリンパス」、高田馬場「マイルストーン」、新宿「DUG」など。嬉しい休暇でした。どこも煙草も吸えるし(笑)。
(マニアぢゃなくても入り易くて居心地も良かったのは、「いーぐる」がいちばんだったか。どうしても本を読むには照明が暗いところが多いのですが、その点も、いーぐるは良かった)
(更に備忘メモ。ジャズ喫茶ぢゃない、普通の喫茶店も、神保町「さぼうる」「ラドリオ」「チャボ」、渋谷「青山壹番館渋谷店」などなど、いろいろついでがあってゆっくり読書もさせてもらいました)
年々、ハードカバーのちゃんとした本は、喫茶店でゆっくりしながらぢゃないと読む気が盛り上がらない気がします。贅沢な話ですが(笑)。と、言いながら実は「座席に座れた場合の電車の中」っていうのは、昔から変わらず至福の読書空間であり続けています。あれはいったいなんなんでしょう。不思議なものです...。
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「幻滅 ― メディア戦記 上、下 (バルザック「人間喜劇」セレクション <第4巻、第5巻>) 」。藤原書店、出版2000年。野崎歓+青木真紀子訳。
「ペール・ゴリオ」に引き続き、藤原書店さんのバルザック。
別の作品の登場人物がほぼ必ず再登場する「キャラクター・リサイクル方式」とでも言うべきバルザックの世界。「ペール・ゴリオ」からどうやら15年~20年くらい過ぎた時代のお話です。舞台は相変わらずのパリ、そして田舎町アングレームです。
といっても、アングレームと言うのがどういう街だったのか、さっぱり見当がつきません。
日本に置き換えれば、「埼玉北部」くらいのイメージなのか、それとも岐阜くらいなのか、金沢くらいなのか...。
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「バルザック小説世界のイケメンNO.1」であるらしいのが、「幻滅」主人公のリュパンブレ青年。
彼がまずは、故郷アングレームで苦悩する。
詩文の才能があって「ビッグになりたい」のだけど、大まかに言うと貧乏な労働者に過ぎない。どうしよう。いろいろあって。
才能に惚れてくれた、20歳くらい年上?の、地元貴族の奥様と駆け落ち同然にパリへ。
パリに討ち入りしたリュパンブレ青年。びっくりおどおど、びくびくうかうか、心ふるわせ期待と絶望の大波に翻弄される様が、大爆笑であり、身につまされます。パリの中でも「社交界、つまり上流階級のはしくれ」に参加しようとしたからです。
どんな服を着て、どんな愛想笑いをして、どんな挨拶をして、誰とご飯を食べて、誰に相談して、どこで暇をつぶして...そういう一切が、まったく見当がつかない。自分以外はみんな、誰しもが「ルール」を判っている気がするのだけれど、誰も教えてくれない。その上そんなことを自分が判っていない、ということを知られるのが一番つらいから、「判ってないので教えてください」という一言が言えない。だからやっぱり誰も教えてくれない...。
無論、レベルの大小はありますが、転校したり入学したり就職したり転勤したり異動したりすれば、誰しも多少は感じる気持ちです。
そんなこんなでおろおろしていると、恋人の様子が変わってくる。
そもそも、実はリュパンブレ青年の側も。「パリの貴婦人たち」を背景にすると、何だか恋人が以前ほど魅力的に見えなくなってくる。
それはそのまんま相手にとっても同じで「パリのイケメンたち、大人の男たち」を背景にしてみると、美形だけど財もゆとりもなく若くてがっつくばかりのリュパンブレくんに幻滅します。詩文の才にしても、パリでは馬群に埋もれるレベルです。
というわけで。
あっけなく、リュパンブレ青年は恋人に捨てられます。ジ・エンド。
ここのくだりも「高校や大学のときに恋人だった同士が、どちらかもしくは両方が社会人になってみると…」と置き換えてみると、甘酸っぱく想像がついて、痛いですね...。
全体に展開は早いし、ややオーバーなんですけれど、バルザックさんの描くヒトの世の辛さとか痛さっていうのは、いちいち現在でも「ああ、あるある」という感が多く、舌を巻きます。
ここまででも十分に、抱腹絶倒であり皮肉と冷笑に満ちた、ウディ・アレン風味の青春ドラマなんですが。ここから、さらにドライブがかかって行きます。
金づるであり、コネであり、あらゆることで当てにしていた年上の恋人に捨てられちゃって、哀れ、リュパンブレ青年。
あるのは、若さと美貌と、それなりの文才だけ。金もコネも学歴も身分も職歴も無い。何より知り合いが居ない。
ところが、パリという大都会の、短所もあれば長所もあります。リュパンブレくんのような人はいっぱい居るんですね。そして、そういう人たちがたむろする場所があります。淋しさを埋めあうだけのヤクザな集団もあれば、温かい人間味あふれる集団も。
我らが主人公リュパンブレは、貧しさの中でも倫理と協力と品の良さを失わない、文芸作家集団の仲間になることができました。
そこではみんなが世に埋もれて恵まれないなかで、それぞれが助け合って文芸創作に努力しあっていました。リュパンブレ君も、そこでの仲間たちには感謝感激なのですが...。
しかし、リュパンブレ君は、もっと「お金」と「地位」と「名声」が、手っ取り早く欲しかったんです。弱くて自分に甘くて楽観的で読みが甘いところがあるんです。そう、私たち自身がほぼみんなそうであるように。
コネを見つけ「新聞記者=ジャーナリズム」の世界に飛び込みます。
じっくり評論や小説や詩を書くのではなくて、日々日々の新聞を書きます。
1800年代前半のパリの「新聞、ジャーナリズム」というものが(この小説に描かれてる範囲では)、どういう仕事なのかというと。どうやら2017年の日本に置き換えると「朝日新聞」とか「日経新聞」という雰囲気から「週刊現代」とか「週刊ポスト」という領分、そして果ては無根拠噂話でも記事にしてして、酷い場合は「昨日のバラエティ番組でとあるタレントがこう言った」ということまで記事にしてしまうような報道、そこまでも広くカバーするようで。「新聞、ジャーナリズム」の勃興期なので、現在みられるすべての現象が、混沌となって濃縮されている感じです。
つまり、今のわれわれ日本の周りの、悪しきジャーナリズムの全ても濃縮されています。
リュパンブレ君は、目新しさ、文才でジャーナリズムに躍り出ます。依頼されて、演劇や小説を、政治家や俳優を、激賞する(本当は全く好きぢゃなくても)。あるいは、真逆。とにかく中傷する(本当は好きでも)。
どうでもいい風俗や流行や占いや恋愛などのコラムみたいなものを量産する。それなりに才があり、とにかくフレッシュ。引っ張りだこになる。
誰のコネを、誰の弱みを抑えれば、シゴトが収入が絶えないか、勘所が判ってくる。芸能界演劇界にも顔パスで出入り。花形女優に惚れられて、同棲を開始。忙しく飛び回り、どこにでも顔をだし、政治芸能経済の知人が増え、パーティで付き合いで、最先端の服を着て。自分を捨てた元恋人にも、面目を保ってリベンジ。わが世の春。ビリー・ジョエル「keeping the face」.
ところがそこで、あまりに「上」を望みすぎて。
出る杭は打たれ、あっというまに仕事は激減。
贅沢になれた出費は止まらずに、借金は嵩み、同棲の彼女は体調不良で病床に。悪いことは重なって、イッキに自己破産。もはや歩きで生まれ故郷に帰るしかなく、姿はまるでホームレス...。
さらに故郷に帰ったら帰ったで。
母や妹や親友が守っている小さな印刷会社に転がり込むのだけれど、ライバルが計画する乗っ取り騒動に巻き込まれ。気が付いてみれば、相手に踊らされ利用され、自分のせいで家族に迷惑をかけて、乗っ取られてしまう羽目に。プライドや野心を見透かされて、ニンジンをぶら下げられたからだった...。
もはや、誰に合せる顔もなくなった、リュパンブレ青年。
もう、守るべきプライドも財産のかけらもない、イケメン文士君。
どこかでひっそりと自殺しようと、故郷の町を出る...。
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というお話。ダークで強烈でアルコール濃度の高い「感情教育」みたいな味わい。
田舎町の人間模様、狭さ、嫉妬、野心、無知、自分への過大評価、退屈な田舎貴族婦人の恋愛、都会、成功への渇望。矢沢永吉。
そこから発射したロケットが、パリという月面に着陸したかと思ったら、そこから更に2段階発射。
ゴシップ、ジャーナリズム、消費される情報娯楽。そんな稼業の栄光と悲惨。
そして、手段を選ばない「勝ち組」たちの非情さ。
そんなこんなを分からずに。上滑りに上滑る、調子にのって突っ走る、リュパンブレに代表される若さの愚かさと美しさが、なんてキラキラして痛いのでしょう。
もう、全体に眩暈のするようなコテコテのメリーゴーランドが、どんどんと加速していくような読書。ヤバい薬を打っているような感覚に、くらくらふらふら。この筆力、しつこさ、構成力。
バルザック、文章の毛穴から噴き出るような小説家的体力。圧巻、巨大な存在感です。
「貧富の差にかかわりなく、若者グループが信じがたいほどのんきに暮らしていて、大酒のみで、金使いは荒く、狂気に取りつかれたような生活を、あとさき考えない冗談にまぎらせながら送り、限られた範囲ではあったが悪事をしでかし、それを鼻にかけ、どんなとんでもないことでもやらかした。若者たちが余儀なくされていた忍従の境遇を、これほど率直に表す事実は無い。持てる力を何に使ったらいいのかわからない青年たちは、放蕩にふけることで力を浪費していた」
これだけでも、慧眼で剛腕なだけでなく、ひつこくて暑苦しい感じが良く判りますね(笑)。
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そして、「ゴリオ爺さん」(ペール・ゴリオ)の人々の再登場について!
まずは、「ゴリオ」のときは青年だったラスティニャック。理想や正義にも後ろ髪を引かれながら、上流階級と人間の欲望のえげつなさを学び、ゴリオを見送ってからパリの町に「今後は俺とお前の勝負だ!」と宣言した若武者は、どうなっているのか?。
なんと、立派にパリの上流階級社交界に食い込み、へらへらした、お調子者の、でも危険や身の程をわきまえた中年男ととして登場します。
リュパンブレ青年に同情するわけもなく、ラスティニャックはラスティニャックで、彼の戦いを非情に続けているのでしょう。その涙が出るくらいの変身、くだらなさに拍手。
そして、「ゴリオ」で悪魔的思想を独演会の如く語り倒した、脱獄囚、犯罪のプロ、バルザックのフォルススタッフである、ヴォートラン氏。
彼の登場は、ほんとに待ちに待った終盤。
自死のために彷徨うイケメン放蕩児・リュパンブレくんの前に、偶然に現れたスペインの修道士。
そのスペイン修道士は一目で美青年の苦境を見抜き、分析し、笑い、そして励まします。「生きてみろ」。
突然のことにぼんやりするリュパンブレ。悪魔的な処世術まで語る修道士。「俺についてこい。世間の全てに負けて、利用されて棄てられたんだろ?復讐は今からだ」。たれあろう、悪党ヴォートラン。どうやら「美青年が好き」という個性。
ヴォートランとふたたびパリに向かうリュパンブレ、そこで幕。このドキドキ感。
続きは「娼婦の栄光と悲惨―悪党ヴォートラン最後の変身〈上・下〉 (バルザック「人間喜劇」セレクション) 」。いつか読まなくてはなりません。
実に、愉しみ。 -
バルザックの「人間喜劇」と呼ばれる作品群の1作です。
フランスの片田舎、アングレームに住む美貌と才能に恵まれた貧しい青年リュシアンが、パリに出て新聞などのメディアの裏側と本質を知るまでが描かれました。
バルザックの作品を読むのは初めてでしたが、その語り口からは、昔読んだデュマの「三銃士」や「モンテクリスト伯」を思い出しました。 -
<閲覧スタッフより>
約100篇もの小説に2000人を超える人物が登場する『人間喜劇(La Comédie humaine)』。何人もの登場人物が複数の物語間を縦横無尽に動き回る「人物再出法」と言う手法が特徴的です。『人間喜劇』は、バルザックの射程の広さを実感するオムニバス劇場です。
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所在記号:953.6||ハオ||4
資料番号:10131793
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上巻にはヴォートランが出てこなかった! こんなに分厚いのに!!
ラスティニャック君が爵位を持って、ニュシンゲン夫人とオペラ座に出入りしているってことは、彼はうまくやったのだな。
貴族社会で必要なのは金である。
才能があるだけでは、ジャーナリズムの世界ではのしあがれない。
人をこき下ろして恥じず自分の名を売り、他人を蹴落として、あることないこと書き立てて……
憧れのキラキラした世界の裏側なんてこんなものだよね、要領いい奴とコネが支配の端緒なんだな、とまあしつこいほど連ねてくれるバルザック。
ヴォートランがどうやって社交界に復讐してくれるのかは下巻の楽しみのようだ。 -
リュシアンがお馬鹿でおこちゃまで一体どうしたものやら。
パリに出て来てからの話は面白い。
でもリュシアンは奈何ともしがたいな。 -
リュシアンがあほの子でコラリーがおきゃんでかわいい。仏文学お得意のよけいな話がやたら多かったりする…。