この母と、この子 -2008.10.15記
「暗きより暗きに移るこの身をばこのまま救う松かげの月」
松永伍一の「日本の子守唄」-1964年初刊-が、角川文庫版となって初版されたのは84-S59-年だったようである。
とすると私が読んだのもそれ以降のこととなるが、そのずっと前に読んだ彼の「底辺の美学」の記憶とごっちゃになってか、もっと昔のことだと思っていた。
この短歌、松永伍一の母が85歳で亡くなったその辞世の歌だという。字句どおり素直に読めば、自ずと歌の意は通ずる。
「暗いところから暗いところへ移っていく、この私のような極悪非道な人間こそ、如来の慈悲に救われるでしょう‥。親鸞の悪人正機を理論的に解明したりとか、分析したりするようなことではなくて、自分の生きてきた悪をこのままの状態で如来様は見て下さるという意味でしょうか。」と、松永自身、誌上の対談で言及もしている。
ただそれだけのことなら、とりわけ強い印象も残らずにやり過ごしてしまったところだが、ここで彼は一つの具象的な像を差し出すことで、歌の内実に迫り、この私は震え、込み上げてくるものを禁じ得なかった。
このところ読みながら感きわまって突如涙する、といったことが多くなったおのが姿につくづく老いを感じる始末だ。
彼はこの辞世の歌に「間引きの背景が見えてくる」と語る。
「私は戸籍上8番目の子でも、上のほうが途中で死んでましたから、生き残っているのは私が5人目なんですけれども、8番目のわが子を間引きしそこねて、それで私が生まれたんです。母は44歳でした。間引きというのは、話は聞いてましたけれど、子守唄の調査をしているうちに、意外と間引きの歌に出会うわけです。育てられなくて間引きしたり、この子は育つ力を本来もたない子だとわかるから間引きしたり、‥その時は『日本の子守唄』によそ事のように書いていましたら、今度は母が亡くなった時に、一番上の姉から、『あんたはほんとは生まれてくるはずじゃなかったのよ。お母さんが間引きしようとして、水風呂に入ったり、木槌でおなかを叩いていたりしてた』というのを聞いた時、ああ、子守唄を書いていてよかったなと思いました。そのことを先に聞いて本を書いたんじゃなくて、子守唄の本を書いてから、その母の悲しみにふれる結果になって、‥」
「母が亡くなる少し前に、故郷にちょっと見舞を兼ねて帰りました時に、二人の姉と兄と私と計4人生き残っておりましたから、その4人で座敷の真ん中に寝てた母親を布団のまま縁側に連れ出して、母親の体から生まれ出た4人で、生きてるうちに体を全部きれいに拭いてあげたんです。その時、ものすごくエロチックな感動を覚えましたね。母親のここから生まれてきたんだなという。これは特別な感動でした。」