写真家へ―写真家であり続けるためのターニングポイント

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  • 窓社
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  • Amazon.co.jp ・本 (184ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784896250435

感想・レビュー・書評

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  • 内容がより辛辣に?!
    前作『撮る人へ』から『写真家へ』と、対象が素人、一般大衆だったものから専門家、プロ(あるいはそれを目指す人)となっているから手厳しくなるのもしょうがない?!

    例によって、奔放な物言が炸裂するので、2、3記しておく。

    ”撮って、撮って、撮りまくる、というのはカメラ持った体操みたいなもんで、体は丈夫になるかもしれませんが、写真的には意味ありません。”

    凄いなぁ、完全に土門拳にケンカ売ってるよ、この人(笑)土門拳は、「カメラを保持、ファインダーをのぞき、シャッター切りという一連の操作を一組にしたトレーニングを横位置五百回、縦位置五百回、合計千回づつを毎日晩御飯後の食休みにやった。本当に撮影しているときの気分を出して、毎日千回シャッターを切った」と語っていた(弟子にはレンガを持たせて同じことをやらせたというから、まさに体操だ・笑)。そうした旧態依然の行為を痛烈に批判している。そういえば、本書だったか前書か次の本だか忘れたが、土門拳の作品の良さも分からないと書いていたっけ。ま、土門も上記のように練習はするが、モチーフと対峙したときは、「ここ!」という1点から1枚だけ撮るみたいだけどね。

    ”「世に出るための手段」と言っても、その目標も最近は「作品が」じゃなくて「自分が」なんですね。だから「作家活動」とか「自己表現」とか「作家としては」って言い回しがつかないといけなくなるわけです。”

    うーん、手厳しいぞ。それもありだとは思うけどね。そうなると、美術として、文化の一翼を担うものとしての「写真」に失礼にあたるということか?

    ”「写真界には真の文化人がいない」と言われたことがありましたが、つまり、外から見ると、そういうふうにしか見えてこない、というのが現実です。”

    またまた、言わなくてもいいようなことも放言して敵をどんどん増やしているかのような奔放な文章が続く。読んでいるほうは痛快でもある。


    さて、それでは本書の主眼は?ってことだが、前作を引き継いで何を以って「作品」か!? 作品を見極める著者としての着眼を説いている。

    「私は写されているものを見ていない」と言い、印画紙の向こうの「作家の確信を見ている」のだと。
    「確信があるかないのか。あるとすれば、それはどんな確信なのか。最優先すべきはそのことだと」言う。

    では、「確信」とは何を意味するか?
    その後本書では何度となく「確信」を以ってして作品を、作者を見極めると出てくるが、一向に判然としないが、「他の視聴覚表現と比較すると判りやすい」と記す。また、「作風というのは画面構成の様式ではなく、この確信の引きずり出し方を示すものだと私は思っています」ともある。 作風にヒントがありそうだ。

    となると、作家の作風はどのように判断されるのか?これは前著『撮る人へ』にあったが、

    ”コンセプトのある作品、ない作品、よくこんな言い回しもされますが、前述の通り、コンセプトとは、作品という小さな形態の中に納まるもんじゃない。それは、あなた自身に「人間としての本質を捕らえる思考の形式、および、人生を貫く基本的な考え方、視点」があるか否か、という問題なのです”

    やはり一過性のものではなく、「人間としての」なにか、が問われるという論調だ。また、これも前著にあったが、作品と作家自身は強く結びついているということ。

    ”その作家の生涯と作品の密着性を発見することです。美術史上に作品が残っている人で、人生と作品に密着性のない人はいないはずです。(中略) 「人生と作品はほんとによくくっついている」このことをまず知ってください。”

    自分の人生を、たった1枚の写真に焼き付けることが出来る人がどれくらいいるだろう。1枚はとても無理だとしても、数枚で、例えばフェルメールくらいの30数作品なら可能か? そこで、ふと、前著で感じた、写真1枚に値段はつけられないけど…という疑問の解が見え隠れしているような気がしてきた。そう、写真1枚は買う気がしないが、写真集なら買おうと思う。いや、実際に何冊か買って所有している。写真のコンセプト、作風、作者の”人間として人生を貫く基本的な考え方、視点”は、一連の作品を見ることで初めて理解しえるのかもしれないと。

    そういう意味で、一発屋的に、たった1枚の傑作をものしても、その1枚が価値を持つかというと(用途、目的に応じてはなんらかの価値はあるとは思うが)、決して単独では成り立ちえない、し難いということかな、と思いいたるのだった。著者曰く、

    ”写真は瞬間性であり表層性であるわけですが、その上に、押せば写ると言うことは、確信が存在しなくても写る、ということです。これが、いい意味でも、悪い意味でも写真の特徴です”

    つまり、写真は「まぐれ」が大いに存在しうる。あるいは偶然の産物としても産みだされる。 いい意味でも、悪い意味でも。
    その作品がまぐれや偶然でない、ということを見抜くためには、著者のように眼力があれば、その”確信”とやらを印画紙を突き抜けて見抜けばよいが、それが出来ない場合は、一連の、ある程度のヴォリュームを以って判断せざるを得ないのかなと。 ある程度の量を見れば、素人なりにも、作者の意図、言わんとすること、確信に近いものが見えてくる気がする。ゆえに、1枚ものには値段を付ける気がせず、写真集はお金を出して買う。 ひとつ、自分の行動に対する解を見つけたような気がした。

    『撮る人』と『写真家』の差、プロとは何かと言うと、一定の量を生み出せる持続性、あるいは作家としての純度なのかもしれないなと思った。プロについてはいくつか記述がある;

    「何をしてプロと呼ぶかと言えば、絶対的な安心感だと思います。つまり、どんなアクシデントも無きがごとくに冷静に対処できる。そのためにはあらゆる写真に対する対処方法を経験として積んでいなければいけないわけで、決してフリーになったから、あるいは報酬をもらううからプロなんてことはあり得ません。」

    「プロというのは、何を覚えているかというと、その時の快感ではなくて、快感を得るために使った自分の体力です。つまり、自分が何かを相手に届けた、と実感できた、あるいは納得できた時の、モチベーションとかアプローチとかフォームとか、練習量とか、そういった、そこに至る経緯を覚える。だから、あのくらい届けるには、自分には普段どういう意識が必要か、ということがわかっています。意識を日々継続できるということは、そういうことです。」

    こうした”安定性”と”再現性”を兼ね備え、一定の量のものを送りだせてはじめて、写真は前著でいうところの「写真機の写真」から「表現メディアの写真」へと軸足を移せていくのかもしれない。 三作目の『あなたの写真拝見します』にも以下のように書いてある;

    ”絵画や彫刻のような一点ものを見て行く方法では、実際のところ、写真は見えてこない。写真の場合、量、つまりイメージの堆積から、その作家の考え方なり人となりを見てゆくことになり、そうして作風を理解していくのである。”

    作風の理解には、一定の量が必要なんだな。

    もう一点、本書で強く主張していることがある。言葉を以って、作品を、そのコンセプトを自ら語ることの重要性を著者は説く。

    「何が写っているか、でしか答えられないということは、テーマを示す言語を持たないわけで、そこに意識(それそのものがなんたるかという哲学)が働いてないってことです。意識が働いてないというのは、撮ることしかやってないってことです。」

    これには異論が出そう。作品にタイトルを付けることは次の著作でも語っているので、言葉を以って作品を表す件については、そちらで考察しようか。


    ただ、著者の論理の破綻もだんだん見え隠れしてきた。
    果たして、この著者が見てるのは、作品の背後の作家の人間性なのか、技術云々には頓着しない作品そのものの出来栄えなのか?
    その答えが出るかどうか分からないけど、続けて3作目も読んでみることにする。

  • 書籍番号
    M110131-046-9784896250435

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