3作目の本書も、著者の基本スタンスは変わらない。小手先のテクニックや、撮れたからいいというだけで済まされない、人間としての矜持があっての写真だという思いに貫かれている。
が、先の2作に較べると過激さがやや影を潜めた感はある。どの著作の中に書いてあったか、出版社のサイトの情報にあったものだったか忘れたが、1作目、2作目がギャラリー開廊から閉廊に至るまで、それ以前の記憶やそれまで鬱積していた思いをぶちまけたものだが、本書はその後の気持ちを整理して書いたものだったとかいう記述。三部作の集大成というところか。辛辣な安友節も健在ではあるが、直接的な物言いではなく、むしろ禅問答的な問いかけが増え、より一層、深く思索の必要に迫られる。
曰く、
「写真家というものを言い表すとしたら、それは、撮れないものがあり、撮ってはならないものがある、ということを知っている人なのではないだろうか。」
「なにかをわかる自分がいるからこそ、「わからない」ということが分かるのである。」
「写真は結論ではない。状態である。そこに写されているものは、あらゆるものの状態と、それを写した作家の心の状態である。」
なにごとも突き詰めて考えていくと、こういう空を掴むような話に行きつくのかもしれない。
その前に、写真という表現手法が、美術史において極めて近代に発生したものであり、まだその様式、定義が定まっていないばかりか、科学的な技術に負うところが大きいが故にまだまだ発展の途上にあるというところが難しい点。写真論的なものも確立されていないのであろう。
「ものの本質を見ようとするとき、あれもこれも同じように貫いている一本の串刺しの串を探さなければ話にならない。けれども、どうも、写真はその串刺しの串の論理なくして今日まで来ているようなのである。」
であるからこそ、自らその論理、表現方法を確立しようと作家は日々奮闘努力しているに違いない。土門拳はこう言っていた。
「世界の誰だって写真での表現にこれまでピリオドを打ったものはないんだ、いかにすばらしい表現が可能かは今後の問題だ、自分の手によってこそ古典になり得るような価値高き表現を確立すべきではないか、とその度に自分を励ましています」
写真の場合、そこに輪をかけて、というか作家自身の努力を軽く凌駕して技術が更新されていく(それも含め、土門は”未だにピリオドが打たれてない”と言ったかもしれない)。であれば、いっそのこと技術の領域は完全に度外視して、銀塩だろうがデジタルだろうが、あとから加工しようが合成しようが印画紙に写されたそれだけが評価の対象とすれば話も早い。究極のところ、著者もそう言っているのだろうと思う。そこに作家の”何が”写し込まれ表現されているか?!それだけのことだろう(著者はそれを作家の「確信」という言葉で表現する)。
一方で、著者は「効率の良い作業を求める人に何の魅力も感じません」とも言う。簡単に言うと合成やレタッチなどの作業で、後から糊塗した作品はNGだということか。アナログかデジタルかを見抜く眼力があればいいが、技術が進み昨今それは見極めは困難、むしろ全く見分けがつかないレベルにまで達している。あるいはデジタル処理でさえも、作品の質の向上、あるいは自分が表現したいコンセプトを示す最適な手段であれば(作家が”確信”とやらを以って作業したとしたら)、それは十分に作品として成り立つと思うのである。少し著者の論理にも矛盾が見られる点ではある。
が、著者はこう言う(これは前著『撮る人へ』での記述);
”「合成ではない」と思い込んでいた写真に「デジタル処理しました」と言われた途端に興ざめするのはなぜでしょう。作品に必要なのはアウラであって、処理という効率ではないのです。ですから、もしここに、基本的にまったく同じイメージがデジタルとアナログで目の前にあるとすれば、少なくとも私は迷わずアナログを選びます。”
”基本的にまったく同じイメージ”という条件が付いているが、では、デジタル処理のほうがあきらかに優れていたら?明確に作家のコンセプトを表現し得ていたら?著者はどちらを選ぶのだろうか。恐らくこれはまだ現時点では答えの出ない究極の質問かもしれない。 ふと、スポーツ界におけるドーピングの問題のようにも思えてきた。あのイタチゴッコにも際限がない。ドーピングは人体に影響があるという負の副作用がある程度明確ゆえに禁止とする向きが大勢だが、実は科学や医学を背景に資金力のある者が有利という不公平感に対する反発もないともいえない。写真に関しても最新機種、最先端技術の詰まったレンズを使ったほうがより人目を惹く作品をものする可能性が高まるわけで、資金力がある者が有利という論点ではなんらドーピングと変わりないとも言える。人体にこそ影響を及ぼさない、それだけだ。
ただ、人の身体に悪影響がなくても精神面ではどうか。より自分を磨こう、人間として自らを高めようする気概みたいなものには幾ばくかの影響を及ぼすかもしれないというのは想像できる。故に、著者は警告を発しているのかもしれない。
「機材が的確に操作されているか、水平線が平行か、というようなことを見たいわけではない。」
「カメラという機材に人間を順応させて行く、という全く本末転倒のおかしなことをやっているわけだから、誰もかれも同じ写真になるのは当然と言えば当然なこと」
と、機械としてのカメラ、その延長線上にある作品の質だけを追いかける姿勢、技術的ドーピングに走る手合いには手厳しい。それは撮る人だけの問題ではなく、写真をとりまく環境、教える立場などあらゆるものが、今は(昔から?)、機械の性能をいかに引き出すか、それをいかに巧みに駆使するかという方向にしか開かれていない、向いていないことが原因なのだろう。また、教える側にしても、そっちの説明の方が教えやすいし理屈も付けやすい。でもそれが写真作品の本質を高めることになるかというと別問題だということだ。
これは前著『写真家へ』にあった言葉。
”「講師にはもっと寄れって言われたんですよね」とか言いつつ、写真を見せる人がいるわけです。で、その時、なんで寄らなきゃいけないのかは言われた側が突っ込んだほうがいい。突っ込んで的確に答えられないような講師の授業はとらないほうがいい。そして、寄れと言われて、単純に撮り直しに行くようだったら写真なんか止めたほうがいいってことです。”
非常に難しい問題ではあるが言わんとするところは分かる。しかし、あまり考えすぎると切磋琢磨もしずらくなる。同好の士の集まりで、互いの作品を講評し合うが迂闊に意見も言えなくなってしまうなと本書を読んで思ったものだ。ありがちな行為として、構図の指摘などは、すぐにしてしまうが、著者はこう言う;
「構図というのは写真にとって人格と同じである。だから本人がくどい写真、歪んだ写真が撮りたいとしたときに、それを否定することは人格を否定することと同じことである。」
「構図を教えるのであれば、著作権を侵害するのに等しい覚悟を持って教えて欲しいということである。」
重い指摘であるが、逆に人から指摘を受けた場合も、漠然と「三分割で、いいと思いました」という答だけでなく、なぜその場面には三分割構図がいいと思えたか、そしてなぜいいのかと突き詰めて考えておくべきということだろう。なぜいいのかは、自分が表現したい何かに合致しているからという解になると思うのだが、今はまだ、その自分が表現したい何か、著者のいう「確信」を的確に言い表すことは出来ないでいる。
的確に言い表すことに関しては、前著においても言葉を以って作品コンセプトを自ら語ることの重要性を著者は説いている。本著では、作品にはタイトルが必要、「名前ということは、存在定義である」と記している。例として、ユージン・スミスの有名な作品「楽園への歩み」を引き合いに出しての説明は見事に腑に落ちるものがあった。
”「・・・とはこのことである」とそのタイトルの下に付けてみるのである”
というのだ。作品タイトルというものは、一見、言葉で作品を補完しているかのように思えるが、この「・・・とはこのことである」を付けることで作品は言葉という抽象概念を超越する。確かにあの作品を見ながら「楽園への歩み、とはこのことである」と呟いた時、あぁ、まさにそうだなと思えれば、作品としての存在定義が確立する(が、一方で、タイトル勝ちだな、って思いも消せないでいるけど・笑)。
いずれにせよ、作品、コンセプト、言語化による明確化は、こと写真に関してだけでなく、あらゆる芸術活動において必要な行為なんだなと思える。
安友氏の著作三冊を一気読みしたが、なかなか刺激ある体験だった。まだまだ消化しきれず、自分のなかでもやもやしている部分もあるが、技術と表裏一体、ややもすると技術が勝る芸術表現メディアである写真の危うさ、脆さを強く意識せられると共に、自らの人間としての矜持、芯を持った生き方の必要性を強く再認識させられた。
”「見る」ということと「考える」ということは同義語である。”という指摘も深い。英語の「see」は”見る”のほかに”分かる”、”考える”という意味を含む。写真は見る行為だ。そこに思索や、世界への理解、”考える”ことがないと非常に危険である。
「写真は人間を希薄にする要素を含んでいるのである」
おっしゃる通り。機械任せに撮れてしまう像のなんと無意味なことか。それを良しとした時、ファインダーのこちらの自分自身も薄く軽くなっていくんだと思い知ろう。そのためには、第1作にあった「道具を持って何かをやるってことは、道具を持たない自分を強く認識すること」、これを常に意識すること。自らの人生を磨くこと、実のある実体験を豊富に積むこと、これに尽きるのかな。
「その毒性に取り込まれないために伝えたいことは、木には触れなさい、という、やはりそのことである。」
ファインダー越しではなく、直接、被写体に触れよう、世界に触れよう。常に現実社会と関係を持ち続けよう。そうして自分を高めていこう。
著者の考え方に100%賛同はしない。自分でもまだまだ試行錯誤、思索を深めていく必要はあるけれど、そうした考察の端緒をたくさん見つけることが出来た。刺激的な3冊であった。