- Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
- / ISBN・EAN: 9784898311783
作品紹介・あらすじ
「秦」「漢」「唐」「元」「明」「清」異種族王朝が興亡しただけの2200年間、「中国」という国家は存在しなかった!厄介な隣人、中国と中国人はこの1冊でわかる。
感想・レビュー・書評
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●古代中国にはもともと「漢族」と言うものはなかった。蛮・ 夷・戎・狄が接触して、その交渉を持った中間地帯に都市が生まれ、出身の種族に関係なく、都市生活を営むようになった連中が中国人になったので、「中国人」とか「漢族」とか言う種族があったわけではない。
●秦の始皇帝が統一したことによってようやく中国史が始まる。このとき初めて中国文明の3大要素、皇帝・都市・漢字が出そろうからである。
●紀元前100年前後に司馬遷が史記を編纂。中国の歴史文化を作り出したのは司馬遷である。
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面白かった。持っていたい本
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昔から歴史を読むのが好きです、一つの時代を掘り下げて解説されたものも確かに面白いのですが、歴史というものは前後に必ず繋がりがあるので、「通史」にも興味を持つようになりました。
通史を読んでいて良いのは、一人の著者により書かれているので、読む方にとっては、読みやすいことです。歴史を研究する場合、「通史」というものは以前は認められていなかったせいか、本も少なかったようですが、最近では、様々な通史に関する本が出てきて嬉しい限りです。
この本は、中国の通史について、岡田氏によって書かれた本です。彼の本は初めて読んだと記憶していますが、とても分かりやすくて良い本でした。この本を読んで、日本の場合、天皇家が1500年以上続いている(仁徳天皇から起算)のは凄いことだなと思いました。
内容もさることながら、私にとって一番興味深かったのは、巻末に、中国・日本・欧州別に、年表があることでした。この年表を見ながら、歴史上に起きた事件・戦争を見ていくと関連性が分かると思いました。
以下は気になったポイントです。
・国(こく)は、日本語の「くに」を意味するより以前に、城壁をめぐらした「みやこ」を意味した。国とは、天子の都するところをいう、とも言われる(p14)
・国の本字(國)の、外側の「くにがまえ」の四角は、すなわち城壁をあらわし、内側の「或」の音の「ワク・コク」は、武器を持って城壁をまもる意味をあらわす。日本とはちがい、中国の都市はすべて城壁に囲まれていた(p15)
・中国における天下の名山は8つ、その3つは蛮夷にある、崋山・首山・太室・泰山・東來、の五山は黄帝がつねに遊び、神と会したところと言われている。(p15)
・支那の「支」は「庶子」、「那」は、あれ、という意味になるので、「中国」が全国の呼称として使われた(p18)
・中国の歴史は、2200年あまり(秦の始皇帝が中原を統一してから)であり、それ以前は、生活形態のちがう「南蛮(焼畑農耕民)・東夷(農耕・漁撈)・西戎(遊牧民)・北荻(狩猟民)」の人々が入り混じっていたので、のちの中国人は、人種としてはこの「四夷」の子孫、これら異種族の混血である(p19、29)
・中国人に含まれる人々の範囲を基準として区分すると、中国は3つの時期に分けられる。紀元前221年の始皇帝による統一から、589年の隋の文帝による再統一まで(第一期)、1276年の元の世祖フビライ・ハーンによる南北朝(北魏と南宋)統一まで(第2期)、1895年の日清戦争の敗戦まで(第三期)と分けるのが実情にかなっている(p23)
・秦えい、という人が周の孝王(紀元前9世紀)によって秦(甘粛省清水県)に奉ぜられたのに始まり、ぼく公(前659-621)の時代に西戎の覇者となり、前325年に恵文王がはじめて王と称した。その4代後の子孫が、中国史上初の「皇帝」となる、始皇帝である(p35)
・始皇帝が、華北・華中を統一したことで「中国史」が始まる、中国文明の三大要素、「皇帝」「都市」「漢字」が出そろうから(p46)
・かつて「国」と呼ばれていた都市が、皇帝制度のもとでは「県」となった、県は直轄という意味で、皇帝に直属する都市を指した。いくつかの県を統括する36の軍管区が「郡」で、「軍」と同じ意味で、常備軍のこと。これを、郡・県制度といい、始皇帝が確立した皇帝制度の骨格(p48)
・焚書とは、今後文字を学ぼうとする者は、「吏を持って師となす」ということで、特定の教団に入って教徒にならなくても、公の機関で文字の使い方を習う道をひらいたもの、3300の文字のみを公認、字体と発音を統一した、漢字という中国で唯一のコミュニケーション手段の公開・国有化であった(p51)
・朝貢したからといって、皇帝の臣下になったわけではない、中国の支配権を受け入れたわけではない。朝貢は国家間の関係ではなく、個人としての君主が個人としての皇帝に友好を表明するもので、皇帝が朝貢を受け入れるのは同盟関係の承認にすぎない(p57)
・年頭が10月であったのを正月にかえたのは、「水徳」から「土徳」にきりかえるという意味があった。五行思想によると、木・金・火・水・土の5つの「徳」(エネルギー)によって時代が区分され、次々と交替することになっている。周王朝は「火徳」であり、それと交替した「秦」は、「水徳」、これに配当される四季は「冬」なので、陰暦10月を年頭とした。漢の時代は「土徳」にもどったとされ、正月が年頭となった(p61)
・175年、あらたに公定した儒教の七経(7種の経典)がテキストとなった。以後の漢文は、すべて儒教の枠組みをもとに書かれることになった(p77)
・宗教秘密結社は、兵役で農村からかりだされ、都市生活を初めて味わって、除隊してから帰るべき家、たがやすべき田畑をもたない人々の相互扶助組織として発生した(p78)
・三国(魏後蜀)の時代には、中国であった世界に三人の皇帝があらわれて、一つしかなかったはずの「正統」が三つに分裂するという異常事態であった(p85)
・華北を支配した「魏」、現在の武漢、南京を中心とした長江流域を支配した「呉」は150万人、四川盆地を支配した「蜀」は90万人程度、三国の合計は500万人程度、黄巾の乱から半世紀で、中国の人口は10分の1以下に激減、これは事実上、漢族の絶滅である。三国を統一した晋は、わずかに生き残った人々を「中都の地=中国」に集めた、その数250万人程度。(p85、92)
・遊牧民(五胡)の移住、五胡十六国の乱、、南北朝の時代をつうじて、華北の支配者がすべて北方の遊牧民アルタイ系、チベット系であったので、漢語を話す人々ももはや漢族ではなく、漢語もそれまでの秦・漢時代までの減とと同じでなくなった(p103)
・隋の時代の日本列島の内部はまだ統一されておらず、倭国は「邪ま堆=やまと」という都を中心とした限られた地域を支配していたのみ、それ以西には独立国があり、そのなかには中国人の国もあった(p117)
・天命は原則として男系の血統でつたわるのが「正統」だが、例外は禅譲による継承と、放伐による継承がある。自分より資格のある者に譲るのが「禅譲」、先の皇帝から実力で奪うのが「放伐」(p121)
・嫁が夫の父親と再婚するのは漢人にはとうてい考えられない、儒教道徳に反する行為なので。これは唐の皇帝が漢人でなかった証拠(p127)
・天智天皇が668年正月、近江の京で即位して、最初の日本天皇となった、日本という「国号」と、「天皇」という称号は、このとき制定された(p129)
・五代とは、907年から宋が建国される960年までの間に華北の黄河流域で興亡をくりかえした、5つの王朝(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)と、、中原以外にあった10余国が乱立したものを「10国」という(p145)
・中国では官僚は原則として無給、官僚はその地位を利用して適当に稼ぐものとされたので、そのため賄賂はあまり程度がひどくない限り合法であった(p155)
・北宋が600年ぶりに漢人の王朝を統一した矢先に、遊牧帝国のひとつである「キタイ」に負けて、二人の皇帝の併存を公式に認めざるを得なかった。この屈辱の反動で、古い時代に先に入植した遊牧民の子孫に過ぎない人々が、自分たちが正統の「中華」「漢人」だといいだしたのが、中華思想の始まり(p157)
・北モンゴルに直接手の届かなかった金帝国は、遊牧民による侵入と略奪に対抗するために、遠方の遊牧民族と同盟して、国境に近い遊牧民を挟み撃ちにする戦略をとった。その同盟相手の一人が、ケレイト王トグリル・オン・ハーンであり、その部下がモンゴル部族のテムジン(チンギズ・ハーン)である(p162)
・モンゴル族の元朝が1341年にはじめて朱子学の解釈を基準とした科挙を実施、これ以来、新儒教(道教中心の思想体系はそのまま、用語を古い儒教の経典に置き換え)は中国の国教となった。しかし一般の中国人の信仰の内容は依然として道教と、それに習合した仏教であった(p167)
・金帝国を滅ぼしたオゴディ・ハーンは、華北の新占拠地で人口調査を実施した、1236年の統計では500万人程度(111万戸)であった。これは、宋代の漢人の子孫のほかに、契丹人・女真人・渤海人・高麗人が含まれていた(p179)
・モンゴル帝国には遊牧君主のウルス(所領)がいくつも存在し、一つのウルスは専属の遊牧民の集団とその家畜、おなじく専属の定住民から物資や労働力を徴発する権利を持っていた、最大のウルスは4つあり、フビライ・ハーン(チンギス・ハーンの4男トルイノ子、フビライ家:大元)、中央アジアには、チャガタイ・ハーン、西アジアには、イル・ハーン、東ヨーロッパには、キプチャク・ハーンであったが、中小のウルスは多くあった(p186)
・1370年に明軍が応昌府を襲って最後のハーン(ビリクト・ハーン)は中国の所領を失い、元朝時代は終わったが、元朝が滅びたわけではない。モンゴル人から見れば、故郷のモンゴルに引き上げただけ。この後の元朝を、北元と呼ぶ(p201)
・1393年、李成桂は高麗の親元朝派を追放して王位につき、明の太祖洪武帝(朱元璋)から「朝鮮」の国号をさずけられ、モンゴル帝国から分離独立した(p199)
・北方の遊牧民族をおそれた明は、さらに内側に引っ込んで、16世紀末にいたるまで150年以上にわたって長城を築き続けてその中に閉じこもった(p215)
・太宗ホンタイジの後を引き継いだのは、モンゴルのホルチン人の皇后から生まれた6歳のフリン、そして清朝は瀋陽から北京にはいった。こうしてチンギス・ハーンの子孫に代わって中国を支配した(p221)
・チャイナドレスは、旗人(満州人)の服、漢人たちは満州服にあこがれながら着ることができなかった。それが20世紀初めに清朝が国民国家化にふみきってから、漢人たちに満州服が許された。(p229)
・モンゴル高原でも、元朝(北元)を名乗る王家が17世紀まで存在したが、最後のハーンの遺児は満州人に幸福して、モンゴル帝国の統治権を清朝に引き継いだ。(p242)
2015年12月23日作成 -
岡田史観を年表に基づいて整理した書籍。日本びいきのフィルターのせいでアヘン戦争以後の解釈はあまり説得力がないが、アヘン戦争以前については、グローバルな視点で説得力があります。
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この本を読むと中国史に対する見方が変わると思う。初めてこの著者の本を読む人にとって最も衝撃的なことは、漢代の中国人と現在の中国人が人種的にほとんど繋がりがないことを指摘してることだろう。
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面白い!!
ユーラシア大陸東南部の歴史が良く分かる!!