みんな友だち

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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784900997134

作品紹介・あらすじ

セネガルとフランスの混血作家、ロブ=グリエ、ル・クレジオらが絶賛するフランス現代文学の旗手マリー・ンディアイ、本邦初訳。サスペンス溢れる眩暈の世界、リアルな奇想、微細な心理描写と酷薄なユーモア、そして悪夢の果てに訪れる慰藉…。フランス郊外を舞台に、鍛えぬいた技巧と圧倒的な完成度で、リアルでサスペンスフルな眩暈の世界に中流階級、貧困層の生活風景を浮かび上がらせる。パリを舞台にする従来の仏文学のイメージを覆し、階級社会の現実と生活意識、そこに生きる家族の風景を描いて心を揺さぶる短篇集。書き下ろし作家解説55枚収録。

感想・レビュー・書評

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  • "Les garçons"は『三人の逞しい女』の最後の一編に近い読後感。語り手の眼前に何があるのか、概形は掴めるものの詳細までは描写されないことで、これまで語られてきたことと読者の想像力とが掛け合わされ、際限のない絶望感の言いようのない恐怖が立ち現れる。そしてそれは強烈な印象を残して唐突に終わってしまう。マリー・ンディアイの小説だ、と感じる一編だ。

    彼女のどの作品にも通じるが、物語の舞台や語り手が如何様であるか、は独特なエクリチュールを根気強く追うことでしか見えてこない。"Les garçons"は決定的な「お金のことはあとで」というセリフにより、ここで起きている悍ましい出来事の概形が掴めるが、その他の四編は紡がれる言葉を追っていくことで徐々にその形が見えてくるような見えてこないような、そんな感じだった。現実と妄想のあわいかのような状態が続くものもあり、私はそれほど幻想小説が好きではないのだけど、彼女の作品は唐突に地に足ついた絶望や恐れ、狂気の瞬間が訪れるから、その緩急のリズムに乗せられて、あっという間に読み進められてしまう。

    訳者方の以下の発言は、マリー・ンディアイのスタイルを的確に表しているように思えたのでメモ↓
    「外界の描写にしても、ンディアイは、目の前にある風景のあらましを最初から読み手に呈示するのではなく、見ている登場人物の目に留まるぼんやりとした細部を徐々に重ねていって、かなりの時間が経ってから全体の輪郭が読み手の前に姿を現す、といった描き方をする。それは、ある場所に足を踏み入れた人間がその目に受ける光の強度を描くことと似ている。皓々と照らされた明るい部屋から完全な暗闇まで、それがどこだかまだわからないうちに、人はすでにその場所に入ってしまっている。目が慣れるのはその先のことだ。個人の生のありようを身体そのもののレベルにおいて描き出すことへ向かって、ンディアイの文体は作品ごとに研ぎ澄まされていく。」

  • 貧困の中でお金持ちに買われることを夢見る子供たちの表題作はこれぞ海外文学!といった世界の現実を見せつけられる短篇です。

  • 著者のマリー・ンディアイは、1967年フランス生まれの作家だが、名前の「ンディアイ」はフランス人の名としては聞きなれない。

    それもそのはず、「ンディアイ」という名は、アフリカ系の苗字で、マリー・ンディアイは、父親がセネガル人であるという。(母親はフランス人)

    マリー・ンディアイの写真を見るとアフリカ系の容貌をしている。
    そのことを思い出さずにはいられない不思議で衝撃的な小説を一話から読まされる。

    夫婦と息子二人が暮らす家に、母親と同じくらいの年齢の女が現れ、顔立ちの整った下の息子を連れて行く。
    息子はその女に売られたのだった。
    そのお金で、実の母親はパソコンを買い、インターネットの画面で、自分の売った息子が自分と同じくらいの年の女と裸で戯れている画像を見る。
    画像を何枚見ても母親には悲哀はない。「きれいな子だ」といって嬉しがる。

    母性の希薄や消失は、どの場合もたとえようもない悲嘆と絶望を漂わせる。
    しかし、ンディアイの描いたこの小説は、見事に母性とは乖離しているのだ。
    「美しい息子は売れる。私の息子は美しいから売れたでしょ。どうよ、私はこんなにいい商品を生み育てたのよ」

    アジアの貧しい国のある場所では、幼児売買が行われていると聞く。
    親が、食べ物を買うために、ほかの兄弟を救うために、子どもたちは売られ、幼児売春をさせられたり、臓器売買に利用されたりしてるという恐ろしい出来事もあるという。

    ンディアイのこの小説は、生活にそんな切羽詰った印象はまったく与えない。
    母親は息子を売り、パンではなくパソコンを買う。
    父親は家畜を全部殺して出て行く。
    そして、自分も売られたいと思う青年がいる。「ぼくを売ってよ!」

    表題の「みんな友だち」も不思議な小説だ。
    主人公の家にはセヴリーヌという家政婦がいる。彼女は今家政婦であるが、主人公の教え子でもある。
    教え子たちの恋愛関係の横糸に、主人公の元教師の威圧的な狂気が縦糸となり絡まりあう。

    この本は、なぜか、訳者の解説が30ページもある。
    ンディアイのことについて色々と書いてくれている。
    17歳で文壇デビューして以来、小説や戯曲、児童文学などたくさんの作品を発表しているようだ。

  • 「未来」という雑誌がある。未来社というところが出しているらしい。
    或る場所で見つけ、手にとってみた。目次に、ミルチャ・エリアーデが云々、とあったからだ。

    怠惰な私は、この高名な宗教学者の本を読んだことがない。『永遠回帰の神話』だの『オカルティズム・農耕・女性』だの、なんだか凶々しい題だが(事実、トンデモだという意見もある)、いつか挑戦してみたいと思っている。
    彼は小説家としても評価が高いが、そちらもまだである。たしか二、三年前に小説集が出たはずだけど……。
    その程度の情けない非・読者であるのにこの雑誌に魅かれたのは、彼が『20世紀を読む』の主要登場人物だからにほかならない。

    私は丸谷才一・山崎正和『20世紀を読む』を何度も読み返しているが、この本は不可思議な20世紀を六つの切り口でさばいている。アメリカの写真家、オーストリア帝国最後の王女、中国の匪賊、日本の日蓮主義者、イギリスのフーリガン、そしてルーマニア生れの宗教学者。

    丸谷・山崎の名コンビは「辺境の知識人」というテーマでエリアーデの劣等感と努力(たとえば鴎外のような)、第二次大戦時のルーマニアの苦しい立場(なんと「幕末の東北の諸藩に近い」という!)、20世紀的歴史観の四大潮流(マルクスの共産主義、サルトルの実存主義、ベルグソンの「生命の流れ」、エリアーデの「祖形と反復」)を語り合い、あるいは茶々を入れ、あるいは深刻に考えこむ。
    そこで語られる大知識人エリアーデは、ものすごくかっこよかった。世界苦を一身に背負う英雄、という気さえした。

    しかしこの「未来」9月号では(ようやく本題に入りましたな)、エリアーデの暗黒面―― 自ら「恥」と呼ぶ過去の行い――についてふれていた。
    そもそも主軸はエリアーデにはない。目次にはこうあった。

    ミルチャ・エリアーデの陰に
       ――作家ミハイル・セバスティアン
                  笠間直穂子

    『20世紀を読む』でも、山崎正和はエリアーデの主張について「反とはいわないまでも非ユダヤ主義が入っています」と評しているが、笠間直穂子はもっとふみこんだことを言っている。戦間期のルーマニアにはファシズムと反ユダヤ主義が跋扈し、エリアーデ、シオランといった誠実な知性の持ち主さえそれに染まってゆく。ミハイル・セバスティアンはエリアーデの友人だった。二人は互いに研鑽し高め合う、かけがえのない仲間だった。しかしセバスティアンはユダヤ人だった……。

    次第に極右に傾いてゆくエリアーデ。「ふたりは交友を絶ちはしないが、話題は限られる。居心地の悪い沈黙で会話は途切れる。」なおも厳しさを増すユダヤ人迫害、そして戦争。
    ‘96年になってようやく公開されたセバスティアンの日記を通して、笠間直穂子は彼の静かな哀しみを伝える。

    「エリアーデへの思いは、時を追って苦みを増す。あれだけ戦争を煽りながら、いまは国外で平穏に暮らしているらしいミルチャ。ロンドンからリスボンに移ったエリアーデは一九四二年にブカレストに立ち寄るが、セバスティアンには知らせないまま去る。」

    セバスティアンは戦争を生き延びたが、そのすぐ後交通事故であっけなく死ぬ。
    彼もまた作家であり、『事故』『二千年以来』などの小説を書いた。その日記はルーマニア・ファシズムの証言として、また、それ以上に一人の人間の精神の記録として、高く評価されている。
    しかしミルチャ・エリアーデにとっては、おのれの罪の象徴だった。祖国を離れ根無し草になったエリアーデは、悔恨に打ちのめされる。

    「ミルチャ・エリアーデの陰に」は二段組とはいえわずか8ページの小文だが、大変な感銘を受けた。しかし私が思ったのは別のことだ。
    丸谷・山崎対談は‘95年に行われた。
    セバスティアンの日記が公開されたのは‘96年。
    そして……ミハイル・セバスティアンの邦訳は、いまだ全くない。

    この文章の著者、笠間直穂子は仏語訳でセバスティアンに出会ったという。
    同じヨーロッパとはいえ、日本語とフランス語の、なんという速度の差!
    明治維新から百四十年、私はいまだに西欧との時差を感じている。
    (東亜に関してはあまり感じない。これは悪い冗談だが、大東亜共栄圏というものは今こそ出来つつあるのではないだろうか。気にかけなければ悪口も生れないのだ)
    翻訳は国の礎を築く。どんなに重視してもしすぎるということはない。

    最後に、エリアーデが旧友を追悼する場面を引用したい。

    「セバスティアンの訃報に接した日、エリアーデは日記にその衝撃と心痛を綴った後、「さようなら、ミハイ」と書きつけた。友人として語り合うとき、セバスティアンにとって彼がミルチャだったように、彼はいつも、ルーマニア風に相手をミハイと呼び、他の名では呼ばなかったはずだ」

    セバスティアンの邦訳は、気長に待つことにしよう。
    その前にエリアーデの本を読まないとね。



    そうそう、笠間直穂子訳の『みんな友だち』も読まないとね。
    肝心なことを言うの忘れてた(笑)。

    2007年11月16日記

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