河原者ノススメ: 死穢と修羅の記憶

著者 :
  • 幻戯書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (385ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784901998505

作品紹介・あらすじ

芸能がつくりあげた荒唐無稽こそ、宇宙の片隅で漂う人間の叡智の産物かもしれない。構想50年-日本映画界の旗手が、芸能者たちの"運命"を追跡し、この国の"歴史"が時系列で記される単純化に抗する、渾身の書き下ろし作品。

感想・レビュー・書評

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  • 著者、篠田正浩さん、どのような方かというと、ウィキペディアには次のように書かれています。

    篠田 正浩 (しのだ まさひろ、1931年3月9日 - ) は、日本の映画監督。株式会社表現社代表取締役、早稲田大学特命教授、日本中国文化交流協会代表理事、城西国際大学メディア学部客員教授。

    で、本作の内容は、次のとおり。(コピペです)

    芸能がつくりあげた荒唐無稽こそ、宇宙の片隅で漂う人間の叡智の産物かもしれない。構想50年-日本映画界の旗手が、芸能者たちの"運命"を追跡し、この国の"歴史"が時系列で記される単純化に抗する、渾身の書き下ろし作品。

    篠田正浩さんというと、映画監督というイメージです。
    もちろん映画監督ですが、本作を読むと、深く研究されており、大学教授の一面が拝見できます。

  • 52年前の1960年のデビュー作『恋の片道切符』から監督引退宣言をした2003年の『スパイ・ゾルゲ』まで、全映画30本を世に送り出してきた篠田正浩は、映画製作に携わってきた43年間よりも長い、構想50年を費やしてこの本を書いたといいます。

    都合3度読んで興奮冷めやらぬ私は、本書が9年前まで第一線で映画を撮っていた映画監督の手になる書物だとは未だに信じられません。本書は、芸能の起源に被差別民の生成を関連させて、従来の歴史観を根底から突き崩して日本の芸能史を書き換えてしまった衝撃的な本です。

    この差別という視点から芸能の根源的なるものを解読するという方法は、かつて広末保の『悪場所の発想』(1970年三省堂、現在『新編 悪場所の発想 』ちくま学芸文庫)に強く惹かれた私にはとても魅力的なものでした。

    かつて篠田正浩には手酷いしっぺ返しをもらったことがあります。

    たしかに『瀬戸内少年野球団』は、あの凛とした夏目雅子扮する初々しい駒子先生ばかりが脳裏に鮮明に焼きつく映画ですが、浅はかにも、彼を単なる有名俳優を起用して青春映画を撮る監督くらいに甘く考えて、全映画を見ようと軽はずみな行動をとったのが運の尽きでした。

    『舞姫』や『少年時代』はまだよかったのですが、『心中天網島』や『無頼漢』でつまずいてしまいました。もちろん、彼は前衛的難解や革命的過激などというものからはもっとも遠い存在なのですが、その独自の美学や歴史観には底なしの奥深さを感じて、思わず身震いしたものです。

    これがとば口で、初期作品=60年代の一連の映画
    『乾いた湖』『夕陽に赤い俺の顔』『涙を、獅子のたて髪に』『乾いた花』『暗殺』『美しさと哀しみと』『処刑の島』なども怒涛のごとく見まくり、そして彼の岩波の20世紀思想家文庫『エイゼンシュテイン』との出会いです。

    今まで淀川長治からも勧められていたのに、敬遠して近づかなかったのですが、篠田正浩によっていかに重要で見応えがあるかと説かれて、エイゼンシュテインを思う存分あびるほど見ましたが、これがまた期待以上のすばらしさです。その豊かな表現力には目を見張る以外になく、ダイナミックで繊細なタッチは今まで見たどの映画よりも、ナイーブで思慮深くて、それこそその映像と音響のめくるめく饗宴は、あまたの世界中の享楽と分別を曼陀羅のように包括しているような感じです。

  • 「河原者」という言葉は死語になってきているかもしれない。
    映画監督であった篠田さんの芸能にかける思いを感じる一冊であり、このような視点で芸能を捉えることのなくなっていく現代、自分と同じ方向性を持った人に出会えた喜びも感じられた。

    日本の「河原」という禁忌の場所から発生し発展していったことを再考させる。映画を作製する場から、このような視点を持った監督は今後いるのだろうか。
    良い作品が出るそのパワーは、底知れない陰の部分を含んだもの。
    そんなことを実感させる本です。

  • カブクものたち、河原者と呼ばれた被差別人、漂流する人々こそこの国の文化を担ってきたのではないだろうか。
    「芸能が人間という生命体の枠組みでしか成り立たないとすれば、それはすでに宇宙の運命と連動する世界でもある。(中略)芸能がつくりあげた荒唐無稽こそ、宇宙の片隅で漂う人間の英知の産物かもしれない」
    というシノダ監督の思い。映画制作を離れてもライフワークに関連する課題を論証していく知の力に打たれる。

  • 「河原者ノススメ~死穢と修羅の記憶」
    篠田正浩
    2009年  幻戯書房

    大島渚、吉田喜重と並び、松竹ヌーベルバーグと呼ばれた映画監督で、岩下志麻の夫。映画監督に関しては2003年「スパイ・ゾルゲ」を最後に引退していて、今は著作業などで活躍中。

    「河原者」とは、いうまでもなく被差別民のことで、中世以降に使われてきたらしいが、出雲の阿国が四条河原町でかぶいたせいか、どうしても芸能者のみをイメージしてしまうが、他の被差別民をも指す。ただ、この本は篠田さんなので芸能を中心に研究しているが、他の差別についても触れている。難点は、あまりに色々盛り込みすぎて中身が濃すぎることかも。

    「代受苦」を芸能者が担ってきたという論点が興味深い(神道学者、西田長男が唱えた説を踏襲)。代受苦は他の者に代わって苦を受けることで、菩薩の行とされる。以前、奈良にあるあじさいの名所、矢田寺を取材した際、本尊が地蔵菩薩であるため、丸い花がお地蔵さんの頭に似ている上、梅雨に打たれてひたすら堪える姿が代受苦をイメージさせる、とお寺の方に伺ったことがある。
    篠田氏によると、将門、道真、内匠頭、義経、お初徳兵衛など、「無惨で痛切で憤怒の形相も露わに、非命に倒れた霊神たちを主役とする芸能は枚挙にいとまがない」とし、芸能者が人の苦しみ、恨み、怒りなどを一手に引き受けている姿をこの本では解説してくれている。これは、軽すぎると軽蔑されがちな現代のお笑い芸人に対しても言えることかもしれない。

    結構、難しい本かも。


    (メモ ほんの一部)

    ・篠田氏が直接浴びせられた差別の言動。
    篠田氏の妻、岩下志麻の伯母は俳優、河原崎長十郎(河原崎家は自ら河原者を名乗った興行師だった)の妻、河原崎しづ江。1960年代、テレビの仕事で篠田氏、岩下志麻氏が河原崎しづ江と大阪で滞在していた時、長十郎の贔屓筋の紹介で桂離宮を飛び込み見学できることに。受付の老婦人は記帳した姓名と肩書きを見ると「河原もんはいかん」と言って、しづ江と岩下志麻の入場を拒否。(31)

    ・阿国歌舞伎の発祥は四条ではなかった
    鴨川四条の中州には広大な河原。男装の阿国歌舞伎に任期が集まると、その亜流が続々と参集。六条三筋町で廓を経営する佐渡嶋、林又一郎らも、舞台をつくり、専属の遊女の総踊りを上演。遊女歌舞伎を登場させ、客はその中から相手にしたい遊女を選ぶシステムを確立。廓の淫靡さが四条河原を支配すると、阿国歌舞伎の消息は途絶える。
    一方、郡司正勝の1997年の著書から判断するに、阿国歌舞伎発祥の地は四条ではなく、五条橋畔から北野天神頭であったというべきだろう。(45)

    ・仲哀天皇の死と芸能による代受苦
    仲哀天皇崩御により行われた大祓の儀式では、獣の皮を生きながら剥ぐ、尻尾から逆さに剥ぐ、水を湛えた神聖な田の畦を壊す、水路を塞ぐ、脱糞して所構わずまき散らす、近親相姦、牛馬を姦淫、鶏と交接など、恐ろしいほどの背徳の限りが尽くされる。スサノオと同様の悪行を演じて見せることで、人間の罪障の一切を引き受ける演者たちが、そこにいたはず。芸能の本性が暴露されたように感じた。悪行を暴露する芸の大証としてこの世の洗浄を獲得する、キヨメになる。「代受苦」か。(49)

    ・えべっさんは水子供養?
    西宮神社のエビス神は、生誕した時に未熟児の蛭子であったことから葦舟で流された。この伝承から遊女たちの水子供養が想像される。(86)

    ・浄瑠璃は三河発祥
    浄瑠璃は盲人座頭が室町末期に三河矢作の宿で、奥州下りの途上にあった牛若丸と宿の遊女、浄瑠璃姫の悲哀を浄瑠璃御前物語という十二段構成で語って世に広めたことが起原とされる。浄瑠璃姫は、矢作宿の長者とその愛人である都の貴人の祈願によって、薬師如来の申し子として生まれた。この縁起を種に、三河にある「峰の薬師」として信仰を集める鳳来寺を本所とする芸能盲僧が浄瑠璃姫の物語にしたとも言われている。(90)

    ・引き上げられた身分が被差別に戻された
    天平勝宝3年(751)の続日本紀に、大仏造営のために動員された雑戸(ざっこ)らは「汝らの今負ふ姓は人の恥じる所」からは解放されていたが、この大事業が完成すればもとの「恥じる所」に戻す、と書いてある。雑戸とは、鉄工、銅工、甲作(よろいづくり)、矢作(やはぎ)、鞍作りといった高度な武具や調度などを作る技術者集団であるが、「恥じる所」に隷属する人々だった。大仏鋳造の間は平民に引き上げられたが、終わると戻された。(137)

    ・病気を引き受けた芸能による「代受苦」
    説経の「しんとく丸」は古来から天刑病とされた「癩」者の物語。罹病して醜く崩れたしんとく丸は、大阪四天王寺門前にある引声堂の床下に捨てられ、物乞いする姿をあざけられる。継子いじめの「あいごの若」と合体し、近世、歌舞伎劇「摂州合邦辻」となる。語りの芸能「説経」が、数々劇化され、能、人形浄瑠璃、歌舞伎となったが、ハンセン病の身体を引き受けることで、芸能者に「劇的なもの」の力が付与された。この「代受苦」には、近代が自覚した人権やヒューマニズムという美徳では説明できないエネルギーが秘められている。(168-169)

    ・庶民の死体は鳥や獣の餌になった
    清水寺への参道、清水坂。その坂の「坂非人」は、人が死ぬと鐘を打ちながら葬送の仕事を果たした。上流階級は荼毘にふされ、塚や卒塔婆が建てられた。庶民は遺体を布でおおって供え物をおくだけ。鳥や獣に食いちぎられる運命が待っていた。(177)

    ・京都の遊郭が「島原」である理由
    寛永17年(1640)、幕府は洛中六条室町の遊里を丹波街道につながる六条西に強制移動させた。二年前、九州島原の原城に籠城していたキリシタンは幕府軍に敗れ、餓死寸前の数万人が一夜にして虐殺された。その戦乱と遊女たちの引っ越し騒ぎが似ているという風評が立ち、都人は新しい遊里を「島原」と言いはやした。周囲を塀で囲まれて大門一つしか出入り口がない遊郭の構造と、一揆を警戒して築城された島原城の縄張りが酷似しているからだという説もある。(236-237)

    ・上方は「和事」、江戸は「荒事」は撤回すべき
    江戸の市村座で初代市川團十郎が演じた「金平(こんぴら)六条通ひ」は荒事の創始と言われている。原作の金平浄瑠璃は明暦年間(1655-58)、江戸浄瑠璃の開祖薩摩浄雲の門弟、和泉太夫がはじめたとされる。これが世に受けて上方まで進出し、團十郎の手で歌舞伎かされて荒事は創出された。上方は「和事」。江戸は「荒事」という定義はそろそろ撤回した方がいい。(254)

    ・近松は鎖国に抵抗していた?
    近松の浄瑠璃には、外国がらみがよく出てくる。鎖国による近松の鬱屈がしのばれ、人間の自由や想像力を奪った鎖国の壁、その向こう側にあるキリスト教国への思想文化への憧憬が秘められていたのではないか。幕府が「心中」を禁句として、「相対死(あいたいじに)」への改称を命じたのも、この心中という死に様に島原の異教徒らの殉教を感じ取ったのではないか。(290-291)

    ・助六は大坂発祥
    初代市川團十郎は、宝永元年、市村座で出演中、同じ役者の生島半六に刺殺された。舞台上で横死。原因は不明。
    継いだ二代目團十郎はまだ16歳。しかし知的な才能があり、上方文化への憧憬があった。そんな中、大坂道頓堀の千日前で、島原の遊女、総角(あげまき)と商人萬屋助六が心中した。さっそく、浄瑠璃一中節で語られ、京都で「助六心中紙子姿」として歌舞伎に。それが江戸に登場し、やがて現在の「助六」に。市川宗家十八番の一つとなる。(304-306)

    ・芸能を仕切った弾左衛門
    「穢多非人頭」の弾左衛門は、江戸時代、7万人の被差別民を支配し、浅草新町に広大な邸宅を構え、行刑、弊牛馬処分、皮革細工、遊里のほか、能・傀儡師の興行をもその支配下に置いた。弾左衛門は人名でありながら、役職名でもある。莫大な利益を独占し、農民より収益が高く、農耕地として痩せた所しか与えられなかったという説は正確ではないという。
    弾左衛門は権限申告で頼朝により承認された「頼朝御証文」を江戸幕府に提出したが、長吏、座頭、舞々、猿楽、陰陽師、青屋、非人、申曳き、獅子舞、傀儡師、傾城屋等々、28種(その後50種になる)におよぶ被差別職人、芸能者の群を支配すると主張した。(321-312)

    ・勝扇子事件
    歌舞伎、人形浄瑠璃興行も、幕府の認可を必要とし、江戸歌舞伎については、堺町の中村座、葺屋町の市村座、木挽町の森田座と山村座だけが許可された。芝居町、傾城町は幕府直轄下とはいえ悪書であったため、中世以来の差別のタブーを背負っていて、弾左衛門の差配と重なった。
    京都の人形師小林新助は、宝永五年、江戸堺町で金銭的苦境にあった操り浄瑠璃の座元を助けるために江戸へ。顔見せ興行を成功させた。その行き掛かり上、薩摩小源太一座による房州での旅芝居まで応援。しかし、地元の「穢多」に小屋が襲われ取りつぶし。
    小林は、「穢多」に興行権を渡した例は上方にないと奉行所に訴えた。「穢多」側は、弾左衛門の「頼朝御証文」により、関東八州は自分の支配下にあると主張。小林はそれに対し、歌舞伎芝居が生まれて80年なのに頼朝が許可とは理屈に合わないと反論。奉行所は房州の「穢多頭」たちに遠島などの重い処分を科した。
    裁判記録の写本が市川家の手にわたり、伝承。写本は「勝扇子(かちおうぎ)」と呼ばれた。歌舞伎「助六」は「穢多」から切り離された歌舞伎界の解放宣言に。(313-316)

    ・歌舞伎と象徴天皇
    歌舞伎の「型」は、戦後の象徴天皇の神聖な「無」と共通するのではないか。人々は「型」をつくり出した異形の化粧の裏側に興味津々。「型」の中の本音を知りたいという民衆の願望は、一切の政治的発言を禁じられている象徴天皇が、現行の政治や外交に本当に同意しているのかを知りたいと思う気持ちと通じている。(331-332)

    ・遠山の金さんが守った歌舞伎
    「勧進帳」上演の翌年、幕府は度重なる都市災害を避けるとともに、遊興の拠点がお城の足許にあることを不謹慎として、芝居町を場末の浅草観音の奥、沼沢地への移転を命じた。
    「古池や 歌舞伎とびこむ 水の音」
    芝居町が江戸の中心部から引き離されることに反対したのが、北町奉行の遠山左衛門尉景元。廃座ではなく、場所を変えながらも存続できたのは金さんの進言のお陰だった。(354)

    ・歌舞伎が伝統文化の継承の地位を得た明治時代
    明治22年、明治天皇の前で歌舞伎が上演されることに。外務大臣、井上馨の私邸にて。團十郎が、勧進帳などを上演。天皇が追加演目を要求。操三番叟を演じた五代目尾上菊五郎の人形振りの舞踊に天皇は感嘆し、本当に糸があるのではと上目遣いで菊五郎の踊りを追った。この反応により、團十郎を頂点とする歌舞伎界は完全に弾左衛門と切り離され、日本国を代表する伝統文化の継承者の地位を得た。(372)

  • 写真、絵が多いなと思ったら、定価3,600円だった。映画監督による河原者、芸能論。

  • 小説だと思ったら違った。河原者の歴史やら文化やら興味深いものが多い。江戸はやはり――学べることが多いな。

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著者プロフィール

映画監督。1931年、岐阜県生まれ。53年早稲田大学第一文学部を卒業し、松竹撮影所入社。66年よりフリー。
主な映画作品『心中天綱島』『無頼漢』『沈黙』『札幌オリンピック』『卑弥呼』『はなれ瞽女おりん』『瀬戸内少年野球団』『鑓の権三』『舞姫』『少年時代』『写楽』『スパイゾルゲ』

「2021年 『河原者ノススメ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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