本は読めないものだから心配するな

著者 :
  • 左右社
3.97
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本棚登録 : 187
レビュー : 22
  • Amazon.co.jp ・本 (268ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903500188

作品紹介・あらすじ

ヒトの滅びに先行して、文の滅びが待っているーー旅の途上で、満天の星の下で、本を語り、世界に通じるためのレッスンを語るエッセイ集。

感想・レビュー・書評

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  • 題名が好きだったので手に取ったがなんとも読みづらくとても時間がかかった。本が読めないことを安心させてくれるかと思いきや、この本自体を読み解くことが出来なかったので、題名はこの本に対しての、ということでよいのだろうか??

  • 本など読めないものだから心配するな。そうは言われても手に取らずにはいられない性。たとえ、大半の本が、自分に取って読む前と同じ状態になってしまうのだとしても。自分というザル以下の目の粗いフィルターを通してみたいという欲望を抑えきれないから。そうは言っても。/以下、備忘録的に。/過去とは記憶に残る心像と言語によって構築された何かであり、未来とは過去を素材として想像力と言語によって構築された何かであり(したがって未来はすでに一種の過去としてしか存在せず)、人の意識にとってはただ「現在するものの現在」があるだけで、それは五感のすべてをまきこみながら「いまここ」で体験され、刻々と姿を変えてゆく。p.33-34/田村隆一からの引用。「言葉なんかおぼえるんじゃなかつた」「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかつて」「魂は形式/魂が形式ならば/蒼ざめてふるえているものはなにか」。/でも、ただひとりになったとき、どうにもごまかすことができず、自分と自分との関係をむすびなおすための言葉は、自分で準備してゆくしかない。そのやり方を教えてくれるのは、陽気な孤独のうちにつむがれた、すべての先行する詩の言葉だけなのだ。p.49/田村隆一の現代詩文庫、上野清士「南のポリティカ」、工藤庸子「ヨーロッパ文明批判序説」。/エイミーは浴衣姿で、ぼくらは前から二列目。音が鳴り始めるととたんに東京在住のセネガル人全員が舞台前で踊りだし、あとは狂熱のダンス・パーティーになってしまった。その上を響き抜ける、ユッスのきらびやかな声がすばらしい。p.105/追憶は、人生には、たぶん修辞学的にしか役立たないと思うようになっている。p.107/水村美苗「日本語が亡びるとき」からの福沢諭吉の引用。教育とは家庭環境が与えないものを与えることである。教育とは、さらには市場が与えないものを与えることである。p.223

  • テーマがどれも気になる作家の一人。詩的でありながら硬派な文体がすごくかっこいい!あまりにわかりやすくては感動がないし、あまりに難しくては挫折する。わかるようなわからないような、手が届くか届かないかくらいの本がいちばん面白いし、読書体験としても有意義である。この本はドンピシャそのライン上にある。ひとまず図書館で借りてみたけど、これは買うに値する本。

  • 自分の名の「文」という字があちこちにあるのに気づいた初めは、電柱だった。子どもの頃住んでいた団地のすぐ前は学校で、そこいらの電柱にはスクールゾーンを示す緑に白抜きの「文」がいくつもあった。そんな「文」のことを、管啓次郎の『本は読めないものだから心配するな』を読んでいて思い出したりした。

    この本には、文字、文章、文学といった言葉も出てくるのだが、「文」もあちこちに顔を出す。「文の道は錯綜し、からみあい、無限につづき、それは誰がどこまで歩いていってもいい。」こんな一文を読むと、私の行く先は、ごちゃごちゃと入り組んでいるような気分にもなるし、「われわれの心は、否応なく文によって作られている」などは、まるで私がヨソさまの心にこんにちはと入りこんでいる気がしてくるのだった。

    ▼心がどのような言語で語られるどのような文によって育てられるかは個々の人の自伝に属することだが、その心の自伝は別にいずれかの国語、いずれかの文学に忠誠を誓う必要はまったくない。文字という徴が描き出す文という紋様の非人間的な自由さは、そんな境界をまったく意に介さず、誰にとっても接近可能なものとして、そこに与えられている。(pp.226-227)

    延長もして、期限ぎりぎりまで、ゆっくり、ゆっくりと楽しんだ本。なぜかこの本は、まったくイッキ読みができず、ゆるゆる~と時間がながれた。また、しばらくしたら借りてきて、このゆるゆる時間をすごしたいナーと思う本。

    ▼目で見る風景は、切り取られたその一部ではあっても、持ち帰ることができる。耳で聴く音も、洗練された録音機器によって、身近に留めておくことができる。だが旅の「その場性」を担うもっとも重要な感覚は、じつは視覚でも聴覚でもないだろうと、いつからか思うようになった。
     「私」がある時そこにいることをもっとも直接的に教えてくれるのは、触覚だ。全身の肌が感じる空気の、温度、湿度、動き。この全面的な包囲は、どんなかたちでも置き換えることができないし、媒体に記録することもできない。だから「風が吹く、ゆえに、われあり」。(pp.146-147)

    こんなところを読んで、錯覚にもだまされにくい「触覚」という感覚のことを思う。

    ▼理解とはつねに自分勝手な暴力で、こうしてみるとそれはもともとたしかにあった現実の、影絵芝居の、影絵芝居の、影絵芝居のようなものになってしまう。そしてまた、人はそれを気まぐれか必要に応じて再話する。(p.133)

    こんなところを読んで、張領太さんと話した「わからなさを大切にしたい」のことを思い出す。

    ▼「本」はすでにあまりに硬く制度化されているようにも思えてきた。本のかたちをとれば、書店で売られたり、図書館に並べられたり、個人の部屋の中でも、本棚に立てられたり、机に積まれたり。モノとしてのそれなりの「お行儀」が決まってくる。もちろん流通や収蔵のための便利さを考えれば、本という形態は圧倒的にすぐれている、ぼくは本が大好きだ。でも本におさまらないもの、ずっとプリミティヴなもの、何かの芽生えみたいなものには、「らくがき」以外の存在の仕方がないものがたくさんあるようにも思う。「らくがき」だけが救う表現、命。(p.165)

    本は私もスキだけれど、もやもやと、わやわやとしたもの、どうやっても本というかたちにはおさまらないものってあるよなーと思う。

    ▼5月5日(土) 連休って何。「木」のかたわらに人がたたずむのが「休」だとして、「本」のかたわらに人が立ちつくすのが「体」だというだから漢字はおもしろい。やることが多くてあまりのんびりはできないが、せめてもの休みを求めて、本をもって川原にゆき、体はニンベンを下に、しばし寝そべる。(p.136)

    私もこの本を読みながら、ニンベンを下に、お腹に本をのせたままで、うとうとしたりもした。
    きもちのいい本だった。

    (11/6了)

  • もう一度読み直す必要ありかも。。。

  • 読むことは簡単にはやめられないということ。図書館で借りて読んだが、購買に値する保存型書物。

  • 今すぐ読めなくても、手元に置いておいて、気が向いたときに、ぱっとてきとうに開いて読みたい、そんな本!

  • 「本に「冊」という単位はない。これを読書の原則の第一条とする。本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな。ぼくらが読みうるものはテクストだけであり、テクストとは一定の流れであり、流れからは泡が現れては消え、さまざまな夾雑物が沈んでゆく。本を読んで忘れるのはあたりまえなのだ。本とはいわばテクストの流れがぶつかる岩や石か砂か樹の枝や落ち葉や草の岸辺だ。流れは方向を変え、かすかに新たな成分を得る。問題なのはそのような複数のテクスチャアルな流れの合成であるきみ自身の生が、どんな反響を発し、どこにむかうかということにつきる。読むことと書くことと生きることはひとつ。それが読書の実用論だ。」

    「読書の<内容>が水だとすれば、ひとつの脳=ダムにあまり多くの水を溜めていいことなんて、ない。水はよどみ、やがてダムは決壊する。...(略)...水はどんどん海という共有場にむかって流れてゆけばいい。あるいは蒸発し、雲になればいい。流量を誇ったり人のそれと比べたりするのはまったくばかばかしい。」(p. 262 あとがき より)

    図書館モニター ジロ

  • 『その「何か」が何なのかは、わからない。それはたぶん事後的にふりかえったときにしか、わからないものなのだろう。わからないなりに、その何かへの期待があるからこそ、本を読む』-『本は読めないものだから心配するな』

    ひょっとすると、この引用した文章を読むこと、それがこの本を手に取ったことの全ての意味なのかも知れない、と思うのである。誰かにそう言われたからといって、100%の証明がなされたわけでも、何がどう変わる訳でもないけれど、ああやっぱりそうなのか、と思ってみることで自分の気持ちの整理がなされたようになって、人心地つくような気になるのは悪い感覚ではない。たとえそれが甘えた論理であるとわかってはいても。

    それならばそれ以上読む必要もないようなものなのだけれども、根っからの貧乏性ゆえ頁を繰る。すると読書の海の途方もない広さに眩暈がし始め、再び心細い気持ちとなる。なのに、本を読み、そしてこんな文章を書きつけている。何故なのかは、自分でもわからないけれども。

    『知らないことについて話すということは、われわれの社会の流行なのか、悪癖なのか。強いられているのか。避けられないのか。必要なのか』-『「隣のアボリジニ」の隣へ』

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著者プロフィール

1958年生まれ。詩人、批評家。明治大学理工学部教授(批評理論研究室)。比較文学研究者、翻訳者、エッセイストとして四半世紀を過ごした後、詩の実作に転ずる。第一詩集『Agend’Ars』以後、『島の水、島の火』『海に降る雨』『時制論』『数と夕方』『狂狗集 Mad Dog Riprap』(いずれも左右社)、英文詩集 Transit Blues (University of Canberra)を発表。また『Agend’Ars』四部作からの撰集(西日併記)がAgend’Arsとしてメキシコで、Transit Bluesスペイン語版がスペインで出版されている。2010年、スタンフォード大学での学会Transpoetic Exchange にジェローム・ローセンバーグとともに詩人として招待されたことを皮切りに、これまでに十数カ国の詩祭および大学で招待朗読を行った。エッセイストとしては読売文学賞受賞(2011年)の『斜線の旅』(インスクリプト)ほか著書多数。また仏西英からの翻訳者としてもエドゥアール・グリッサン『〈関係〉の詩学』『第四世紀』(いずれもインスクリプト)をはじめ、三十冊ほどの訳書を発表。

「2019年 『犬探し/犬のパピルス』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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