SWISS

著者 :
  • 赤々舍
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本棚登録 : 53
レビュー : 7
  • Amazon.co.jp ・本 (214ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903545592

感想・レビュー・書評

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  • さいしょは
    ずきずき痛い。
    まだ生々しい、寂しさとか、弱い強さとか。

    それから、
    すとんと豊かなきもちを受けとる。

    素晴らしい本。
    写真も文章も、瑞々しくて「ほんとう」で、はっとさせられる。

    植物。
    愛について。


    ニュートラルになりたいときに、開きたいと思う。

  • この人のことは僕は文章から入っている。のだけど、もう久しぶりにこんなにすんごくいい写真集を見たな、と感じた。とてもとても、いい。手元に置いておきたいなぁ、これは、と思った。潔くて、でも、佇んでいる部分があって、いろんなものを噛み締めていて。とてもよかった。(11/10/1)

  • センチメンタルジャーニー。な写真。

  • 流行通信の連載も好きだったけど、文字と写真の距離が良い。

  • 「異国にいる「孤独」が浮かびあがらせたもの」

    彼女のこれまでの仕事を知っている人は、この写真集を開いてホントに長島有里枝?と首を傾げるかもしれない。1993年、大学生のときに「アーバナート」展でパルコ賞を受賞しデビュー、受賞作は家族のヌードという、それまでの写真表現の枠を破るような過激な内容だった。
    審査の会場で長島の作品に目を付けたのは荒木経惟だった。候補作からもれていたのを、遅れて審査の場にやって来た彼が「これを入れなきゃだめじゃない」と主張して審査の流れが変り受賞したという半ば伝説化したエピソードがある。それから17年、『SWISS』と題されたこの写真集には、つねに生きることを問うてきたこの写真家の生の温度と、自分を「他者」として見つめる冷徹な視線とが脈打っている。

    写真と言葉を一緒に載せた本は多いが、両者の関係がうまくいっていると感じる例は案外少ないものだ。両方の必然性がぎりぎりまで切り詰められ、問い直されている本書では、言葉でなければ表せないことと、写真でなければ伝わらないものが、まさにここでしかないという地点を探って手をつなぎあっているのを感じる。写真というメディアを考え抜いてきた彼女の一つの到達点を示していると言えるのではないだろうか。

    野草のような黄色い花のアップではじまる。つぎは群生する白い花。それをめくると薄紙に文章が印刷されており、見出しには「1st WEEK DAY 1 2007.07.23」とある。散文詩のようなストロークの短い文がつづき、「わたしと息子 ここで3週間やっていけるだろうか」という言葉に出会う。

    詳しい説明はなされてないが、スイスの田舎にある大きな庭のある家に「わたしと息子」はたどり着いたところのようである。ひとりだったり、子連れだったり、カップルだったりするアーチストが共同生活しながら創作をしている「アーチスト・イン・レジデンス」と呼ばれるプログラムである。

    2日目の文章には「ここに連れてきた大切なもの 男の子 祖母の撮った花の写真 ヘルマン・ヘッセの「庭仕事の楽しみ」とある。そして花の写真を貼り付けた壁の写真。明らかに日本の庭とわかる。祖母の撮った花の写真とはこれだろう。花作りが好きで、花が咲くと写真に撮り溜めていた。目の前に広がるすばらしい庭を眺めながら、画質の悪い10円プリントに写っている祖母の花を、「わたし」はいま「美しい」と感じている。

    彼女が庭で撮った草花の写真がつづくが、一見して日本のものとちがう。それは花の種類ではなく、色である。ちがう土と光のもとでは花はちがう色の花を付け、それを写した写真もまたちがう色を発する。風土のちがいとレンズの集めた光によって二重に異化された「現実」。冷たく乾いた澄んだ空気がコクのある色彩から伝わってくる。

    文章の頭には日付がふってあり、そこでの出来事や心のありようが綴られているが、滞在中につけていた日記をそのまま引き写したようなものとはちがう。撮れた写真をセレクトして写真集を編むように、記録したことのなかから活かすものと捨てるものを選び出し、吟味し彫琢した言葉によって流れを作り上げていく。

    5日目の日記にはっとさせられた。いつもなら食後に庭でみんなと雑談するのに、ひとりだけ場ちがいな気がして「わたし」は部屋に引き返す。「涙が出そうなほど寂しい」。小さな子がそばにいることで彼女はその寂しさを「夕日を受けて長くのびた影」のように大きく感じる。「こんな気持ちになったことはほとんどないのに 遮るものが無さすぎて 見ないふりができない」。

    守られている場所から引き離された孤独。その孤独は幼い子どもとともにいることで濃さを増している。無理強いされたわけでなく、彼女自身が選んだ孤独にもかかわらず、いや、それだからこそ、その孤独の質が彼女を不意打ちしたのだ。

    「話す相手は近くにいるのにそうしないで
    それでもまだ誰かと話したいと思う
    誰かというのはここにいる人ではなく
    わたしの中に住んでいる人だ」

    人といるゆえに生れてくる孤独というのがある。万人が感じとるものではないかもしれないが、彼女はまちがいなくそれを感じてしまうひとりである。人と交わり陽気に流暢にふるまえばふるまうほど孤独がくっきりしてくる。だれかと話したいと願うものの、それは実在の人ではない。自分のなかに住む人。実在の人物から自分が作りあげたフィクショナルな人。恋こがれるほどに現実から遠のいていく人。彼女は恋の入口に立っているのだ。異国にいて感じやすい心が、そのことでますます多感に傷つきやすくなっている。

    そのページをめくると写真が現れる。少年がこちらに背中をむけてヨーロッパによくある両開きの窓の前に立って外を眺めている。肩のラインが暗示するなにかを堪えているような緊張感。それとは裏腹に顎のわずかなラインは外の世界への熱中を示している。内界と外界を循環する意識の活動を感じさせる写真集を象徴する一点と言っていい。

    少年は母の意向によってこの地に連れてこられた。子供の行動は多くの場合、そのようにして決められる。自分で選べるものはわずかで、ほとんどが与えられるものであり、それを拒否するのが困難なのが成長期の特徴なのだ。人々の話す言葉がわからない彼は、ここに来てから母親ともうひとり6歳の女の子としか交わらない。彼もまたこれまで体験したことのない質の孤独に直面しているのだった。

    「孤独」という言葉は「寂しい」という言葉に結びつき、「寂しい」という言葉は「悲しい」という言葉を連れてきやすい。だが、本当に「孤独」は「悲しい」ことなのだろうか。そして「悲しい」ことは「よくないこと」なのだろうか。読みながらそんな自問自答をする。たしかに「孤独」を「悲惨」に感じる場面もあるけれど、「悲しみ」のなかに「豊かさ」を感じることもたしかにあるのだ。

    メイ・サートンは『独り居の日記』のなかでこう書いている。「いま起こっていることやすでに起こったことの意味を探り、発見する、ひとりだけの時間をもたぬかぎり、友達だけではなく、情熱をかけて愛している恋人さえも、ほんとうの生活ではない」。「孤独」がむきだしにする物事の本質。それを探ることなしには生きている実感がないと言うサートンと同様に、彼女もまた「ほんとうのこと」へとむかっていってしまう精神の持主であるのかもしれない。

    長島はこれまで身近な人間を撮って作品集をまとめてきた。関心の核となっているのはつねに自己と他者の関係であり、カメラはそれを見つめるための手段だった。『Empty White Room』では一緒に遊んでいた仲間を、『家族』では文字通り自分の家族の日常を、前作『Not Six』では夫を撮った。そして『SWISS』では息子との関係を、これまでにないくらい繊細な手つきで探っている。その繊細さは息子の写真の扱い方によく出ている。顔を示さず、気配で見せている。子供への視線には夫のときにはなかった「他者性」が色濃い。

    田舎家で出会った人々との会話を楽しむうちに彼女は自分たち親子に欠けているものを意識するようになる。「わたしたちは親子であっても家族ではない」と書く。そしてつぎの日の日記には、父親と暮らせないことを息子に説明するのはむずかしいという記述がある。その話をしている最中、息子は父親を思いだして「水のはいった風船が割れたように」に泣き出してしまう。そのとき「わたし」はたと心づく。「この1週間でわたしが感じたのと同じ喪失感を彼もまた味わっていた」ということに。周囲と打ち解けているように見える「わたし」を見て、彼は母親という味方すらも失ったように感じたかもしれないということに……。

    息子の引き起こしたささいなトラブルに過剰に反応したためにできてしまった彼との亀裂、それが埋められていく夜の情景は本書のクライマックスであり、すばらしい。しかもそこで選択されている写真が心にくい。情景描写でも、「わたし」の心境説明でもなく、5歳の少年のなかにある衝動とその鎮静とを暗示するセレクトと展開になっている。

    到着して4日目の日記に、こんな言葉があったのを思い出す。
    「ゆうがた 
    庭にでて花の写真を撮る 
    花とむきあっているときはこんなに気が楽だ
    人と向き合う時だけ 
    わたしはいろいろなことを考える」

    庭中の花の世話をしているイルミ、話していると気持ちがリラックスしてくるレス、踊りのうまいマヌエラなど、人々との印象的な出会いが語られるが、彼らの写真はでてこない。息子を含めてこの写真集では人の姿が前面にでてくることはないのだ。その代わりに繰り返し登場するのは庭の草花である。植物は人に見られようが見られまいが咲いている。「わたし」はそのことに心を打たれる。誰かに見せようなどという下心がうかがえないさまに、一瞬人間であることを忘れて見入るのだ。

    しかし写真から伝わってくるものは同化の感覚とは少しちがう。花たちにも「他者性」がある。「見られている」という感覚、視線を注がれている誇らしさのようなものがにじみ出ているのだ。「見る」という行為をつうじて生起する他者との関係性に改めて目を開かれる思いがした。

    たえず言葉を生みだし、その言葉に呪縛されもする彼女の心にはいつも荒波が立っている。息子をしかりつけるくだりからは、舌鋒の鋭さが他者を追いつめてしまうことがあるのも想像できる。ページのおりおりに登場する花たちは、彼女の内界と外界の隣接面に佇んで何事かを語りかけ、慰撫するかのようだ。
    「花々はわずか数日のあいだ生きて、死んでゆく。彼らは私を、プロセス、成長、死に触れさせていてくれる。私自身、彼らの生の時の間を、漂っているのだ」という先の著作にあるメイ・サートンの言葉に、彼女はきっと同意するだろうと思う。

  • 表紙のバリエーションが20色!!
    迷って桜色。
    それだけでなく、紙の選択から、挟まっているものから、たいへん凝った丁寧な造り。
    目と頭と指先で味わう本だった。
    一人の女性と子どもの三週間の物語だった。
    単なる写真集と思っていたので少し驚いた。

    正直で誠実でかたくなな人物を感じた。
    途中で閉じるのが失礼なような気持ちになった。
    語り手の気持ちを追いかけて行きたかっただけかも知れない。

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