- 本 ・本 (392ページ)
- / ISBN・EAN: 9784903619101
感想・レビュー・書評
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いずれ読もうと以前から思っていたのだけど、『同志少女よ、敵を撃て』を読んで、今だなと。
読んでいる間にこんな状況になってしまうとは…。
対ドイツ戦時にロシア軍に加わった、あるいはパルチザンとなった何百もの女性たち。
一人一人聞き歩いた著者は、ウクライナにもルーツがある。
話は皆壮絶。
戦勝国となった側も、個々の人間がいかに体、心、その後の人生を破壊されたか。
今侵略されているウクライナの人々はもちろん、反対を表明して危険な立場にあるロシアの人々も、派兵されているロシア軍の人々も、回復できない苦痛を受けるいわれはない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
第二次大戦時、ソ連では100万を超える女性たちが従軍した。それに加えて、パルチザン部隊や非合法の抵抗運動に参加した女性もいた。看護師や医師のほかにも、戦闘員として戦ったものも少なくなかった。その多くは、戦地では男性と変わらぬ任務に就き、同じように傷を負った。それもこれも「祖国のため」「大義のため」だった。けれど、戦後は「男ばかりの戦地で何をしていたのか」と侮辱の目に晒され、あるいは結婚することを諦め、あるいは勲章をしまい込み、あるいは従軍経験をひた隠しにして生きていた。
男性が証言した戦争の記録は少なくない。しかし、女性の、しかも戦争従事者としての証言は非常に珍しいのではないか。多くの女性が従軍したというソ連の特殊な事情もあるだろうが、著者、アレクシエーヴィチの丹念で粘り強い聞き取りがなければ、こうした証言が日の目を見ることはなかっただろう。
本作を最初に構想した1978年、アレクシエーヴィチは30歳代だった。証言者らは著者の母や祖母の年代になる。彼女らは、娘に、孫に語るように、戦争のナマの姿を語る。
それは戦略や兵站の話ではない。生身の人間が戦闘に参加するとはどういうことか、肌感覚の話である。
戦争は女の顔をしていない。女もまた、戦争に行くことを想定して育てられてきてはいなかった。そのためかどうか、彼女らは、日常のふとした小さな出来事に目を留めるかのように、繊細なまなざしで、戦場の過酷な現実を記憶する。
血で固まり、手が切れるほど硬くごわついた衣服。
死にゆく前に決まって天井を見つめる重傷者。
泥だらけで死んでしまった仲間の娘たち。
殺さなければ殺される白兵戦のすさまじさ。
飢饉に見舞われ、満足に食べるものもない地でのパルチザン活動。
1つ1つ、1人1人の証言が重い。
歴史の教科書には残らないような、些細な部分。誰も聞かなかった細部。証言者が最も隠したかった、同時に最も語りたかったエピソード。
そうしたそっと触らなければ痛みを伴うところに、アレクシエーヴィチは迫っていくのだ。
それは人間の「人間らしさ」を形作る部分なのかもしれない。
ある女性は、ある村で、無残にいたぶられた多くのパルチザンの遺体を目撃する。死体が転がる傍らで、馬が草を喰む。
「生き物の見ている前で何という恐ろしいことをしたんだろう」
平時ならばありえない風景は怖ろしいまでの絶望を誘う。それはまさに地獄なのだ。
戦闘員は完全な被害者とは言えない。だが同時に、彼らは完全な加害者とも言えなかったのではないか。
戦争は終わった。スターリンの時代も過去だ。
もう何を語ってもよいはずだ。
けれど、恐怖は残る。彼女たちは沈黙し、あるいは名字を伏せるように請う。自分のためというよりも、子どもたちに害が及ばぬように。
おそらくはもう、これらの証言者たちの多くはこの世にはいない。
けれど、著者がすくい上げたこれらの証言は残る。
彼女たちが、娘のために、孫のために、いや、もしかしたら、戦争に出かける前の自分自身に伝えたかったであろう、切実な慟哭がずしりと残る。 -
聞き書きを集めたものなので、文章が難解というわけではない。しかしページを滑らかにめくって読める本ではなかった。途中で何度も本を閉じ、深呼吸をしていったん心を休めなければならなかった。あとがきにベラルーシ在住の訳者の友人がアレクシエーヴィチの作品を読むと「読みかけては涙が抑えられずなんども中断して野原に泣きに行った」というエピソードが紹介されているが、あながち大げさではないと思う。
つまり、女たちの声を介して、人間存在の真実が示されているのだ。しかも重厚なポリフォニーとして。この本をノンフィクションだとして、文学作品ではなく反則ではないかと言う人がいるとしたら、間違いだ。なぜなら人間存在の真実を如実にそして鮮明に示したものとして、ドストエフスキーの諸作に比肩するからだ。
具体的に見ていこう。例えばこういう証言がある。
「…ベニヤの標的は撃ったけど生きた人間を撃つのは難しかった。銃眼を通して見ているからすぐ近くにいるみたい…。私の中で何かが抵抗している。どうしても決心できない。私は気を取り直して引き金を引いた。彼は両腕を振り上げて、倒れた。死んだかどうかわからない。そのあとは震えがずっと激しくなった。恐怖心にとらわれた。私は人間を殺したんだ。この意識に慣れなければならなかった…これは女の仕事じゃない。憎んで、殺すなんて。自分自身を納得させなければならなかった。言い聞かせなければ…」(兵長・狙撃兵)
また、こういう別の証言もある。
「想像できます?身重の女性が地雷を運ぶ…赤ん坊がもうできていたんですよ…。生きていたかった。もちろん怖がっていました。それでも運んでいた…。スターリンのために行ったのではありません。私たちの子供たちのためです。子供たちの未来のためなんです…あたしたちは二つの部分からできている。二つの現実で生きていた。このことをわかってほしいわ…」(パルチザン(看護婦))
ほかにも、家族や祖国を蹂躙したドイツ兵に対して激しい憎悪が示される一方で、ドイツ兵の負傷者にも気がつけばソ連兵と同様に手当をしていたという女性の証言もある。ドイツ人にも家族があり祖国があるから…というのは後付けの理屈でしかない。戦争で敵兵を攻撃し残虐な行いをするのも人間だが、理屈を超えたヒューマニティを示すのも人間だ。
そこで読後の私は混乱してしまった。いったいどちらが人間の真の姿なのか?
戦争を体験していない私が軽々しく言っていると取ってほしくないのだが、この本から得た真実は一つだと思う。つまり、どちらも人間の真の姿である、人間は両面を持つのだということ。したがって日本の報道でもよく聞く「あんなにいい人だったのに、なぜあんな犯罪を…」というのは一面しか見ていない。人間とは究極的にはいい人であり、かつ悪い人である。善悪の両面性というのが極端だというのであれば、次の例はどうだろう。戦地に来たがおしゃれが忘れられず、人から隠れて鏡の前で自分のハイヒール姿を見て悦に入る女性航空隊員の話。人を殺めるために戦地に来た女性が、それを阻害しかねないおしゃれを捨てられなかった現実があった。
ここで批判承知で言うと、この作品で直接的にアレクシエーヴィチは戦争反対の意思表示をしていないと私は思う。誤解を避けるため違う言い方をすると、アレクシエーヴィチの視点は戦争自体よりも、戦争で媒介された人間性の真実に向いている。男性は人間が本来持つ両面性の一方を簡単に失い極端に偏る性向がある一方で、女性は戦地や戦闘状態でもしたたかに両面性を保持する資質に長けていることをアレクシエーヴィチは見ぬいていた。そしてそれゆえに、女性の生き方のありのままを徹底して描き出すことで、結果的にアレクシエーヴィチは“戦争反対”をあぶり出しのように表出させたのだ。
つまり、彼女は使い古されて(そして聞き飽きた)戦争反対論を意識的に避け、人間性を保持した生き方の追求という論点から人間と戦争との関係を見つめ、彼女独自の文学的創意工夫を経て、戦争反対に反対する者ですら戦争反対を納得せざるを得ない作品へと結実したのだ。
そしてアレクシエーヴィチによる戦争反対のテーゼの受容を託されたのは今を生きる私たちだ。ここでの「私たち」とは私をはじめとした日本人に限らず、ベラルーシやロシアやウクライナや世界中で生きる人類全体を指す。しかしSNSで他人への攻撃を止められない一部の日本人も含めて、残念ながら、アレクシエーヴィチの意図を読解できない人類が今も世界にあふれている。 -
「У войны не женское лицо」の翻訳(2008/07/26発行)。
第2次世界大戦の独ソ戦に従軍したソ連の女性のインタビュー集。
当時、ソ連の女性がどのような気持ちでソ連軍に従軍し、戦地で何を見、感じたのかが良く判ります。
グロテスクな内容ではありませんが、個人的には心に重くのし掛かる衝撃的な内容でした。 -
第二次世界大戦時のソ連対ドイツで戦ってきた女性達から作者が話を聞き、書籍にまとめたもの。これを読んでいて、その感情を持つ人がまだ生きていて、あるいは数世代しか経っていないのに戦争がなんでおこなわれてしまうのかと思ってしまう…
男性向けの勝ったこと戦術やそこに向かう話ではなく、それぞれの女性の日常と辛さと当たり前とギャップがある。何を信じていてその先に何があると思っていたのか…
重たくて読み進めるのがつらくなるけどそれが現実だとするならば、平和な世界のありがたさをしっかり認識していたい -
「同士少女よ武器を取れ」を読んで、本書を知った。「独ソ戦」の影響からか、読書前の想像では戦争犯罪被害者の女性の物語だと思っていたが、独ソ戦に従軍した女性兵士のインタビューであった。
弓や刀での白兵戦と違い、銃や大砲などの近代兵器の時代では女性も兵士として戦えることは理解できるが、やはり精神的には相当キツイものがある。特に子供を産み、育てる役割を与えられている女性が、人を殺したトラウマに侵されると、復員後の養育に大きな影響があるだろう。社会も安定しないだろう。
それにしても、肉親や知り合いを殺されたとはいえ、本書に登場する女性のほとんどは熱意を持って従軍を希望したことは、当時はそれを是とする風潮を感じさせる。社会の大きな流れ、洗脳の恐ろしさを感じた。
とはいえ、インタビュー記事の内容は、こんなに熱意を持って私は志願しました → 戦場でも勇敢に戦いました → しかし、戦後はトラウマになりました。というパターンが多く、読み進むうちに著者や登場人物には悪いが、飽きを感じさせた。
たぶん、嘘は言っていないとは思うが、一定のバイアスに沿って言わされている感がある。なぜ、もっと本心を言わないのか、というもどかしさが本書に対する飽きを感じさせるのだ。
悪い本ではないが、最後まで読み進もうと思わなかった。 -
戦争は男達だけが戦地に行くのではなく、女も志願してる事実を、この本で知る。内容は、戦争を知るには大切で充実してはいるが、レポート的な作風が馴染めず途中で挫折
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの作品





