街場の教育論

著者 :
  • ミシマ社
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本棚登録 : 1311
レビュー : 150
  • Amazon.co.jp ・本 (298ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903908106

感想・レビュー・書評

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  • 少し、元気が出ました
    特に
    教育論の落とし穴
    教育はビジネスではない
    キャンパスとメンター
    コミュニケーションの教育
    踊れ、踊り続けよ
    は、心に響きました

  • 著者の意見には賛同できない。
    「教育はビジネスと違って、簡単に改革できるものではないから、現状維持を基本に現場に任せて少しずつ変えていくしかない。」といっているが、教育界(先生方を含め)は、本当に我が国の教育を良くしようと努力しているように見えない。わたしには、ビジネス界の方が、ずっと厳しく血の滲むような努力をしていると思うけど。教育は、改革が難しいのではなくて、教員方が現状にしがみついて改革をしたくないだけではないのか。教育界も既得権益を守る官僚と同じに映る。先生方を勇気づけたいと言ってるけど、結局は「慰め合い」になるだけで、教育界に進歩は望めないと思う。いくら先生方が一生懸命やっていると言ったって、教育界自体の方向性が誤っていれば、結局はGMと同じで、倒産させるしかなくなるというのが自然な考えではないか。改革が難しいのは何処だって同じ。教育界だけが特別じゃないんだ。甘えは許されないと思う。

  • 面白い。

    流れるように頭に入ってきて、ストンとおちる。見事に。
    特に、この本は大学院での講義録を編集したものだから話し言葉そのままで、流れにまったくよどみがない。

    本当にクセになる、内田さんの本は。

    第 1講 教育論の落とし穴
    第 2講 教育はビジネスではない
    第 3講 キャンパスとメンター
    第 4講 「学位工場」とアクレディテーション
    第 5講 コミュニケーションの教育
    第 6講 葛藤させる人
    第 7講 踊れ、踊り続けよ
    第 8講 「いじめ」の構造
    第 9講 反キャリア教育論
    第10講 国語教育はどうあるべきか
    第11講 宗教教育は可能か

    「義務教育とは、子どもは学校に通う義務がある、ということではない。義務があるのは親。」というのは、試合前の計量。
    「教養教育とは、コミュニケーションの訓練。専門教育とは、内輪のパーティ。」「使える専門家というのは、自分は何ができないのかをきちんと理解している人。」あたりのジャブをくらい、「教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけない。」は右ストレート!
    ふらふらになったところで「学びの扉を開く合言葉は『先生、教えてください。』」で最初のダウン。「もっとやりがいのある仕事を、と言って退職する若者が求めるのはモジュール化された仕事。非正規雇用とは、まさにモジュール化された仕事。」で二度目のダウン。

    そして、三度目、TKOとなったのが、第8講の以下の箇所。

    子どもたちは、まず集団を形成することの楽しさを知る。
    小さな子どもたちを放っておくと、いつのまにか近づいて、
    同じ遊具を、相手の身体に触れて遊び始めるのがその例。
    彼らはこうして集団のメカニズムを理解するようになる。
    ところが、今の教育現場では、子どもたちに「集団の形成」
    の術を学ぶと同時に(あるいはそれより早く)「個性の発現」
    が課せられている。本来なら、集団を形成して、ひとつの
    共生態を作り出すことに専念すべきときに「集団を作るな。
    個別化せよ。自分の受け取るべき報酬を他人と分かち
    合うな。」というルールが子どもたちに浴びせかけられて
    いる。
    ここで、子どもたちはどうしていいか分からなくなる。

    なんとこの部分、先日読んだ『「痴呆老人」は何を見ているか』のレビューで取り上げたことと限りなく近い! 

    http://mixi.jp/view_item.pl?id=977758

    子どもたちが成熟する前にダブルスタンダードを提示してしまって、子どもたちが混乱するという図式はまったく同じもの。

    やっぱり大人がしっかりしないとダメなんだ、という認識を改めて持って、マットにはいつくばった。

  • 教育の本質とはなんなのか、教職の在り方とは。今までこれ以上すっと腑に落ちる回答を得たことはない。感動的ですらある。筆者は教職にあるひとの励みになる本を書きたかったというが、その目的は十分に果たされているだろう。異なる仕事にあっても参考になる視点がいっぱい。

    P15 教育制度を改革するというのは、「故障している自動車に乗ったまま、故障を修理する」というアクロバシーを意味します。

    P25 教育とビジネスでは扱っている「時間」が違う(中略)ビジネスは無時間モデルですが、教育はそうではありません。

    P40 それは教育の本質が「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるのとは違う人たち」との回路を穿つことにあるからです。(中略)「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること。それが教育というものの一番重要な機能なのです。

    P45 課業として支払われた労働価値に対して、商品が「単位」というかたちで交付される。単位を揃えたら学位記が発行される。(中略)これは教育ではありません「お買い物」です。「学ぶ」というのは「お買い物をする」こととは違います。外形的には似て見えるところもありますが、本質的には全く別物です。

    P48 同じ空間内に、自分と同じような年齢で近接した知的関心を持った数百人数千人が同時に存在するという条件があるおかげで、どうしていいかわからない時に、どうしていいかの目鼻がつくのです。(中略)「どうしていいかわからない時に、どうすべきかの目鼻をつける」(中略)こういうことは私たちの日常においてはしばしば起こることです。(中略)「どうしていいかわからないとき」に適切にふるまうことができるかどうか、それがその人の本源的な力が一番はっきり現れる瞬間です。

    P60 人間は自分が好きで好きで仕方なくて、永遠に今の自分のままでいたくて、そんな「大好きな自分」を外形的にさらに飾りたててくれるはずのもの、自分の「ものさし」でその価値が考量できるものをひたすら希求している(中略)「そういう人」は「学び」とはついに無縁だろうということは申し上げておかなければなりません。

    P86 音楽については、過去と未来に時間意識の翼を大きく広げられれば広げられるほど大きな快楽が約束されている。だから、音楽は時間意識の涵養のために極めて重要な科目とされるのだと私は思います。

    P87 武術の本質はこの二点に集約されるといってよいのです。自分の身体をどこまで精密に意識化できて、どこまで細かくコントロールできるか。それが第一。第二が他者とのコミュニケーション。非―自己と一体化することによってパフォーマンスを爆発的に向上される。これが武術の原理です。「敵と戦って倒す」ということは武術の目的ではないのです。武術の原則は「敵をつくらない」ということです。

    P92 他の専門家とコラボレートできること。それが専門家の定義です。(中略)自分が何の分野の専門家であるかを、ほかの分野の専門家たちに理解させることのできない専門家には、誰からもお呼びがかかりません。これが「専門家」という存在の背理性です。

    P96 大事なのは、マップが初めから存在するわけではないということです。(中略)自分をマップする地図は自分で作らなくてはならない。(中略)自分が動かないと地図は作れない。地図に基づいて動くのではないのです。(中略)自分自身を含む風景を一望俯瞰する力。それを私は「マッピング」と呼んでいます。(中略)自力でポジションを言い当てるしかない。それが人間にとって一番たいせつな基礎的な知性の訓練だと私は思います。

    P113 先生の言うことは論理的には「おかしい」のだけれど、実感としてはきわめて切実である。それでいいのです。教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけない。いうことが矛盾しているのだが、どちらの言い分も半分本音で、半分建前である、というような矛盾の仕方をしている教師が教育者としてはいちばんよい感化をもたらす。きれいに理屈が通っている、すっきりしている先生じゃダメなんです。それでは子供は育たない。成熟は葛藤を通じて果たされるからです。(中略)子供たちが長い時間をかけて学ぶべきなのは「すっきりした社会の、すっきりした成り立ち」ではなく(そのようなものは存在しません)「ねじくれた社会の、ねじくれた成り立ち」についての懐の深い、タフな洞察だからです。

    P120 わからないことがあれば、わかっていそうな人に訊く。それだけです。自分が何を知らないのか、何ができないのかを適切に言語化する。その答えを知ってそうな人、その答えにたどりつける道筋を教えてくれそうな人を探り当てる。そして、その人が「答えを教えてもいいような気にさせる」こと。それだけです。

    P143 学びの場というのは本質的に三項関係なのです。師と、弟子と、そして、その場にいない師の師。その三者がいないと学びは成立しません。

    P176 「私には責任がないから寝ている。責任のあるものだけでなんとかしろ」ということが言えるのは、実は危機感がないからです。(中略)他責的な人間というのは、実は無根拠に楽観的な人間でもあるのです。自分がいなくても何とかなると思っている。でも「自分がいなくても何とかなる」というのは、危機の評価が低いということと同時に、自分が貢献できることについても、きわめて低い評価をしているということです。

    P178 (「危機」は「ソリューション」では解決しない)実際に現場で石を拾っている人たちには「そんな簡単な話じゃないんだよ」ということが実感としてわかっていたからです。これは中枢的に統御して、工程表や人員割当てを決めて操作できるような話じゃない。とりあえずひとりひとりがまず足元の石を拾い上げるしかないほどの規模の災厄なのだということが直感的にわかっていた。その先生の「ソリューション」にみんなが興味を示さなかったのは、その先生が自分では石を拾わずに、もっぱら「効率的に人に石を拾わせるプラン」に時間を使っていたからです。(中略)仕事というのはできることなら、行き当たりばったりではなく、入念に計画し、重要度の高い処に優先的にリソースを投じるべきものなのでしょう。もちろん。でも、それは「日常的な仕事」の場合です。危機があるスケールを超えると、そういう中枢的なコントロールが効かなくなる。コントロールしようとしてもいいけれど、コントロールすことそのものんために、貴重なリソースを投じなければならない。(中略)危機的というのはこの場合のように、中枢的・一元的にコントロールし最適化を選択することが出来ないような状況のことです。

    P188 自分がした仕事には「誰添えrのやった仕事」という「タグ」がしっかり貼りついていて、それがもたらす利益を誰とも分かち合わずにすむ仕事。それがどうやら当節の若い人たちの言う「やりがいのある仕事」らしい。でも、そのような「クリエイティブで、パーソナルな仕事」というのは、実際にはほとんど存在しません。99%のビジネスは集団作業だからです。

    P200 それゆえ、マーケットはこの消費行動の最大の抑制要因である「家族内合意形成」というプロセスをこの世からなくす方法を考えました。(中略)そうやって、官民挙げての「自分らしく生きる」キャンペーンが以後20年にわたって展開することになります。

    P221 ミスはジョブの外側にある。だから誰か最初に気付いた人がそれを「あ、オレがやっときます」と言って処理すれば、それで終わる。そのわずかに余計な仕事を忌避するか受け入れるかが、しばしば共同体の存亡を決定する。でもその人のその貢献は誰も知りません。そのような誰にも評価されないし、本人も評価を求めない「ジョブ外」の余計な仕事を誰かがいつの間にか片づけているかどうかが、実は組織にとっては死活的に重要なのです。

    P248 「まず内面がある」という前提を採用したことによって、日本の子供たちの言語が底なしに貧しくなってきているという事実を重く見なければなりません。

    P249 でも、私たちの中に、自分の経験を語れる言葉をあらかじめ装着済みで生まれてきた人間なんか一人もいません。

    P253 「決して割れないグラス」と「まだ割れていないグラス」は、今ここではどちらも「割れていないグラス」という点では同格のはずです。にもかかわらず、私たちは「まだ割れていないグラス、割れる可能性のあるグラス」のほうに心惹かれるものを感じる。それは、そのグラスが手から滑り落ちて、砕け散った時の喪失感を「前倒し」で受け取っているからです。不思議なものですけれど、この「前倒しの喪失感」がそのグラスを使っているときの快楽を増している。

    P267 「わかった」と言うのは、日常生活で私たちが熟知している通り、コミュニケーションを打ち切る時の言葉です。「だから、黙れ」「だから消えろ」というのが「よくわかった」という宣言の遂行的な意味です。服喪というのは使者に向かって「あなたは私にどうしてほしいのですか?」と終わりなく問い続ける構えのことです。「死者がどうしてほしいかを私は知っている」という人間はこの死者への問いをすでに放棄しています。

  • 教育学を、ちょっと変わった視点から語る良書。
    理系の人間にはない語り口でとっても魅かれるし、頭の中の知識の見え方がぐっと変わってくる。

  •  内田先生本も8冊目くらいになり、だいぶ慣れてきた。教育はビジネスではない、や、国語教育での音楽との関連性からの論考は特に面白かった。再読してじっくりと考えたくなるような本であり、読んでよかった。

  • ・教育は惰性の強い制度である:差し出したものとは別のたちのものが、別の時間に、別のところで戻ってくるシステム
    ・学びは商品購入ではない
    ・使える専門家とは、自分が何ができないのかを理解、説明できる人。そのためには、自分ができない仕事を学ぶ必要がある。
    ・子どもの成熟は、葛藤を経由して生まれる。葛藤とは、大人たちの言うことが首尾一貫していないことを経験して、しかし実はそれが同一であることが検出できるレベルを探りあてることである。
    2月4日
    町並みまちづくり物語
    まちづくりには、住民・行政の両輪が必要。

  • ウチダ先生の「街場シリーズ」は、大学時代に東北大生協のキャリアサポートプラザに内定者研修の材料探しに訪問した際に門馬さんに『街場の文体論』紹介してもらった縁で出会ったので、個人的にとても思い入れが深い。この「教育論」は、先生の考える「学び」に関して、非常にわかりやすく、かつ本質的に描かれているシリーズ随一の名著である。学びは、自分の描いたロードマップよりも遠くに、高くに、連れて行ってもらうこと。自学自習と、他者からの学びと、どちらも欠かせない。

  • 面白いけれど、とても難しい話だった。
    学校教育と政府の政策の関係性をスパッと否定しているところにはとても共感を覚えた。政府は理想ばかり叩き付けて、現場のことをわかってない、と思う先生は多いと思うけれど、教育とは古来なんだったのか、ということを明瞭に答えつつ、政府主体の早期の教育改革について物を申す感じですかっとした。

    現場で働いていると、なかなか生徒の能力をのばすことが出来ずに悩んだり、生徒の気持ちに背くことをしていると感じて傷ついたり、葛藤する場面は多い。
    同僚の教育方法のほうが優れているように感じることもあるし、生徒に対して申し訳なく思う事すらある。
    この本は、そうした悩める先生たちにとって、元気が出る本というのは本当だと思う。
    一見違うことを言っているように見える大人たちの言動によって、子どもを葛藤させる、それによって成熟させることが必要というようなことも書かれていたけれど、様々な人が好き勝手なことを言ってもいいんだと勇気がもらえる。
    人間は葛藤して成熟していく、というのが、今の自分自身が悩み苦しんでいることが無意味ではないと言ってくれているようで、とても勇気づけられた。

  • ・義務教育は児童労働の禁止とセットで生まれた理念。子どもは義務教育を受ける権利があり、親は義務教育を受けさせる義務がある。
    ・「学び」とは自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられてゲームに巻き込まれることで進行する。自分を越えた視座から自分を見下ろし、新たな言語を習得すること。→学びとは予想してその通りのものを習得できることではない
    ・孔子の六芸(人間が学ぶべき六芸)…礼・楽・射・御・書・数
     礼…死者の弔い。「存在しない者」とも人間はコミュニケーションができる。
     楽…音楽。今ここには存在していないものとの関係の維持。時間意識の涵養。
     射…武術。弓道は敵がいない→己の心と体のコントロール。
     御…馬道。馬とのコミュニケーションにより、自分の力の何倍もの力を発揮できる。
     書・数…読み書きそろばん

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著者プロフィール

うちだ・たつる 1950年東京生まれ。武道家(合気道7段)。道場兼能舞台兼私塾「凱風館」館長。神戸女学院大学名誉教授。翻訳家。専門はフランス現代思想史。東京大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。ブログ『内田樹の研究室』。



「2019年 『そのうちなんとかなるだろう』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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