インタビュー

著者 :
  • ミシマ社
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レビュー : 6
  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903908960

作品紹介・あらすじ

えんえんと、えんえんと、えんえんと、

訊(き)く。纏(まと)める。



下準備、節度などの基本から依頼の仕方、聞き方などの技術までを網羅。

その上で、「インタビューにはなにができるか」という可能性を探る。



インタビューとはなにか。

インタビューになにができるか。

インタビューをし続けていると、人は「誰」になるのか?



インタビューとはなにか。この問いを出発点に、著者は途方もない旅に出る。「道具」としての便利さ、使い方を懇切丁寧に伝えたあと、新たな問いを自らに課す。−−その道具を使い続けると、世界や社会がどのように見えてくるのか。「帰ってこられない」危険を感じつつ、「捏造や支配」が横行する現代において、インタビューだけが果たせる役割を見出していく。「植物的」とも言えるスタイルで綴られた異作ノンフィクション、ここに誕生。

感想・レビュー・書評

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  • <キーフレーズ>

    <きっかけ>
    山田ズーニーさんと木村俊介さんの対談記事を読んで。”

  • インタビューというものについて、
    深く考えたことがなかったので、
    よいきっかけにはなった。

    誰にもできそうなことだと
    軽く見られがちなその“弱さ”こそが、
    インタビュアーにとっては重要だという見解が、
    興味深いと思った。

  • ▶︎p.18 インタビュアーとは、ある種の「弱さ」のなかに可能性、「やれること」を抱えている存在。インタビューを深く丁寧にできる、といった「ものを聞く能力」は、能力としてはとても弱くて簡単にはわかってもらえない。「できたとしてもとくにえらそうになんてできず、むずかしくもなさそうな能力」として見くびられるぐらいの立場からこそ、社会のリアリティを、緻密な精度で捉えられることもある。私自身は、ほんとうはそのぐらいの「弱さ」からものごとを見なければ、すでに理解されたと思い込まれている現実に対しての異議申し立てなどできないと捉えている。「弱い」からこそ「いやおうなく見せられてしまったものごと」から、現実をどう理解するのかを考える機会をもらえるところがある。

    ▶︎p.27 どこかで聞いたような質問に対しては、話す方がよほど工夫しない限りは返答も一般的なものに留まりやすい。同じ意味の再生産をしてるだけになりがち。
    もし取材をやるなら、時間か工夫か、なんでもいいけどそこに多くを注いでいるほど、内容的には多くのものを得られる。ヒマで、そのことばかりやってるほど成長できるという意味で「ヒマな者勝ち」だと思う。

    ▶︎p.63 音楽とは、なにか重要な一節を表明するものというより、どのようにしてそこに至り、そこから去り、そして次の段階に移行していくのかのそのつど一回限りの「生成」。この、途中では止められない一回限りの「生成」として成り立っていく流れのようなものこそ、インタビューだからできることは何か、に大きく関わるものに思える。
    この「生成」の流れが生きている場所やジャンルがある。音楽なら、かつてはジャズが、最近ではラップが、特にアメリカにおける「同時代の振動」を汲み取ったりつかんだり伝えたりする上で、ヒップホップの歌でよく使われる単語でいえば「ドープ(本物の、中毒性のある)」なノンフィクションとして機能してきたところがある。世界中で今、最も読まれているノンフィクション的な言葉の一つがラップ。
    映画「グレート・ギャツビー」バズ・ラーマン監督が、原作小説が背景にした1920年代なら本来はうしろにジャズが流れていたような世界観のところを、「それがいまの時代に当時のジャズみたいに機能してる音楽は、ヒップホップだ」という意味の発言をしていたのは面白い。
    私が仕事をするうえでの「ねらい」。長い取材を中心にしてインタビューをして、声の感触も残してまとめることで、音楽でいうならアメリカのラップがこの25年ほどの間にパワフルに切り拓いてきた、「時代性と、一回限りの勢いをこめた声のリアリティ」に近い領域を、この日本だからこそ違う道具を用いてまた別の価値を持つ者として深めていきたい。

    ▶︎p.66 社会における様々な意味での暴力にしても、日本は、表面的な言動としては一見おとなしく見えるのでわかりにくいままになって充分に語られていない面が多々ある。見えにくいかたちで存在し続けてるがゆえにその各種の暴力が常に身近にあるという意味で、暴力の根が深いと思える。そのような場所で、静かに日常的に存在し続ける暴力的なものについてリアリティを扱うには、アメリカにおけるラップのように、アグレッシブな語り手による派手な言葉で語ったとしたら抜け落ちてしまうものも出てくる、と思える。
    「静かなコミュニケーション」とでも捉えられるものに存在感がある日本という地域において、アメリカでのラップほどのリアリティをつかみたい、と思う時に私がイメージするのが、インタビューという道具。
    書店員、料理人など、姿勢の人たちへの長いインタビュー。一見地味にも見える小さな声での語りが、日本でのラップみたいなものだと思って自著をまとめてきている。

    ▶︎p.68 対談所『バレンボイム/サイード 音楽と社会』より、指揮者バレンボイムが語る声。「音楽というのはなにかの表明ではないし、存在でもない。それは生成だ。音楽はなにか重要な一節を表明するものではない。そうではなくて、どのようにしてそこに至るのか、どのようにしてそこを去るのか、どのように次の段階へ移行するのか、そういうものなんだ」

    ▶︎p.76 何かを真似して、どこかで聞いたような同じ意味ばかりを増殖させがちな時代に生きている私たちにとっては、本質的に「大事だ」と思って相手にぶつけてみた質問で「はずれてしまう」というか、失敗がちゃんとできるという道具(=インタビュー)を支えていること自体に、ある種の実存的な「ほかにない体験」があるのかなと思う。

    ▶︎p.87 「なにもかもがやりつくされているみたいに思える、人が部品のようにあつかわれている時代において、なにかをあらたにやろうとすること」を訊くというのが、いつのまにかテーマになっていた。気がついたらいつも訊ねているし、私自身の、このような世界に入り込んだことの動機にも絡んでいる。そのような裏のテーマをいつも抱えているなら、単発で雑誌の記事のためにもらったようなインタビューの仕事に関わる時でもなんでも、ほとんどの取材が、すべてひとつの大きなテーマを考えるうえでの「自前の素材」として目の前にあらわれてくる。

    ▶︎p.98 取材するときは、受け止めるこちらの心身を元気にしておくことがかなり重要。体調をよくして風邪など引かないようにする。忙しかったとしても、あえて取材が始まる何時間か前からは、ほかのことはなにもせず、ぼーっとする余白の時間を確保しておく。それが興味深い取材につながる。

    ▶︎p.102 事前に記事の見出しや構成を決めておくべきという人もいる。しかし、すでに世に出ているものの集積から、本人に会う前に方向性や結論をある意味では決めつけてしまうのはどうなのだろう。確認のためのように、取材対象者のなかにもうあるとわかってる話を娯楽として消費するように、と取材を「限りある手段」として用いるのでは、インタビューの本来の魅力である「偶然」や「不安定さ」からくる新鮮な発見には届きにくいのでは。

    ▶︎p.114 うまくいかなかったことだとか、不満に思いながらの現実だとか、割り切れないことを扱うのが得意なのは、インタビューが「途上にいる人に対して、これまた途上にいる人としての取材者が話を聞くことによる、一回限りの感触」を価値として出しやすいからではないか。そして、インタビューのまとめにおいては、ある程度まではエゴイズムやナルシシズムを相対化できるところもある。話している本人以外の視点から抑制を利かせられて、感情を扱ってはいても、「ナルシスティックな垂れ流し」のようにはなりづらい客観性を担保されている。

    ▶︎p.123 ネットなどで人を調べると、「かならずしもその人の本質ではないスペックやステータスのみを、いつまでまとめているんだよ」と思うような情報があふれている。しかし、現実を動かしているのは、そうした容易に人を比較できうる画一的な指標ばかりでなく、しばしば、そのようなワクには入りきらないものだったりする。

    ▶︎p.138 ネットが普及した社会においては、「では、なにかのマネでもない、個人としていえる範囲のことってなんだろうか?」ということが、ひそかに問われているといえる。「なにかをいったつもりになる」ことから少しでも離れて、何かを見つけて伝える言葉を探すのに適した道具のひとつが、インタビューだと思う。

    ▶︎p.149 インタビューという、1対1のやりとりでやりやすいのは、その人の孤独について聞くこと。多かれ少なかれ人は様々な意味で孤立しているが、その孤独について、本当に思っていることを話すに足る機会はそんなにないもの。
    孤独についての言葉は、それをひとりで読む人の飢えた心にも突き刺さる。

    ▶︎p.151 インタビューは、訊くことにせよまとめることにせよ、何かを技術的に「うまくなった」あとで、はじめて活躍の場を与えられるような活動ではない。気楽にやりだせばいい。

    ▶︎p.175 現代ではノンフィクションがフィクション化し、フィクションがノンフィクション化している。色々な意味で、うそや「作りごと」が取材の中や記事などのまとめの中に入り込んでくる時代。「事実のなかのうそ」だとか「うそのなかのリアリティや真実味」だとかいったものは、世の中について語る声を考えるうえで、私としてはずいぶん重視するものになってきている。

    ▶︎p.208 「インタビューという道具を用いて主体的に表現し、主張をしたいこと」ではなく、「インタビューを用いるという世界を良いところも悪いところも含めてくぐり抜けてみた際に、経てきた取材現場や声をまとめる行為そのものが(こちらがいやだと思っていても)語りかけてくれること」とでもいえるものが重要。そういう、どちらかといえば避けたいぐらいではあるが現実が語りかけてくれるものを、私自身を実験体として使って呑みこむというように示したらいいや、と考えている。
    人生が、そうとは知らなかった頃から実はこちらに語りかけていてくれてた現実というのは、いくらでもある。往往にして、自分が選びとりたかった格好良いものではなく、ほんとは人にはいいたくないぐらいの無様な現実だろう。

    ▶︎p.209 取材対象者であろうが取材者であろうが、なにかを語ったり記したりしはじめる前から、積極的にこれを伝えたいな、と思っている内容は、人からあんまり文句をいわれない範囲に留まるよくある話、自分をよく見せたがるゆえの言葉に過ぎない。

    ▶︎p.239 漢字を「男手」とするのに対比して、ひらがなによるやわらかい記しかたは「女手」と呼ばれ、公的な記録ではなく、宮中の女性の私的な記述や、のちに随筆、物語などを刻む言葉の繊細なありかたにつながっていった。
    これまでよりも「女手」によるノンフィクションみたいな傾向を持つ現実についての記録もありなのでは。インタビューの本質を取材者の「弱さ」にあると捉える私としては、やわらかい、人を支配しないかたちでの事実の記録はインタビューでこそできるものかもしれないとも考えている。
    現実を読み解く時には、
    「限られた公開情報からでも個人の主体的な分析力でいかようにも料理して価値ある発信ができる」と現実を支配していくような、自力の強い「男手」的なものごとの理解をする選択肢もあるだろう。だが、インタビューを用いれば、情報そのものは少ないなかでも自前の「ほかで得られにくい主観的な体験」のようなデータを扱うこともできる。たとえば、侵蝕され支配される側から、「女手」的に現実を理解できるという方向のノンフィクションもあっていい。

    ▶︎p.243 体験を通して考えた内容を従来のワクで発表することは初期段階では難しいかもしれない。しかし、その「すでに発表するに足るとされているもの」が昔からの安全で文脈のある方法として確率されているノンフィクションを「真名(まな)(漢字/公式/権威/男手)」的なものとすれば、それこそ「かな(ひらがな/私的/少数派/女手)」的なノンフィクションとして、これまで様々な人に出会って現在の認識を築くに至るまでに聞いた声をすべて私的なインタビューとでも捉えて何かしらの報告を記し始めることだってできるだろう。
    なにから記しはじめていいかわからないならば、まずは丸腰の自分自身への質問とそれへの素直な回答から、インタビュー的な手法で目前の文章を書いていったっていい。そして、みずからの回答のなかの隙間をつくあらたな質問を、俗世間からの問いかけのようにまたみずからに浴びせてみよう。自分自身の回答を聞き直し、記し直しもする。そのなかで、そもそも何を発見したのかが明らかになるのかもしれない。そのように、インタビューの手法らしいやりかたでなにか現実にまつわる発見を書こうとする挑戦はできるわけだ。

    ▶︎p.261 かつて流行したといわれる「実存は本質に先立つ」というテーゼは、いまやその考えの枠組みすら忘れ去られたかに思われている。それだけでなく、もしかしたら多くの人々はこの言葉とは逆に、まずは道具や役割として何かのシステムの中で機能しなければいけないありかた(本質)でのみ暮らしているみたいに思うのかもしれない。そもそもなんの価値を生み出すかなんてことよりずっと前にあるはずの、ほかならぬその人としてありうる暮らし方(実存)は、もはや、余裕のある人にのみ訪れるものに、ここ日本ではなっているようにも見える。
    私自身......、より便利な道具として使われなさいとでもいう潮流のなかで奴隷化をせざるをえない面もあった。
    しかし、同時にインタビューを重ねるなかで、そのような構造を持つ出来事が、自分の関わる分野で飲み起きているわけでもないと知った。
    空しさを感じからっぽだなと思っていた隙間にこそ開拓地のようなものを見つけられた。道具や機能(本質)としてだけでなく、実存としての取材者を捉えられるようにもなった。すると、これまでのインタビューの蓄積をかなり自由に再解釈してる自分にも気づくようになった。
    本質(機能、役割、道具)から実存(体験)へ。

    ▶︎p.264 インタビュー=「inter(なにかとなにかのあいだ)」に「view(ある視点)」を見つけること。

    ▶︎p.268 出版社「夏葉社」経営する島田潤一郎さんインタビューより『Voice 2014年11月号』
    「ぼくは企画を練って新しく発信するという態度では出版業をやっていませんから。日常的に考えつづけた結果や反発がじわりじわりと本になっていく。......
    おもしろい仕事をしようというよりは仕事がおもしろくなるようにと心がけています。......
    いまはどんどん文章も短くなっているけれど、長い本を読みつづけて、しかもそこから効率よく何かを得るというよりは、読みつづけている長いあいだじゅうずっと考え事ができるというか。......内容としての本の価値としてはそういうところが大きいように思うんです。長大な書籍を、作者に伴走するようにして読みつづけ、書いた人の考えに近寄ったり離れたりしながら自分の考えを深めていけるという媒体でもある気がしますから。少なくとも、ぼくは何もなかったらあんなに長い時間かけてものを考えられないんです。本があるから考えを進められているところがあるように思います」

    ▶︎p.276
    「男手」のノンフィクション=支配、動物的に自由に動きまわっての獲得、多数派、組織を担う側の言葉、といった要素。客観的とされ、あるテーマにまつわる包括的な研究、誰がなんど繰り返しても同じ結果が出る実験のように強固に永続する完成品、勝者の残す歴史書、ポジティブデータのような言葉。
    「女手」のノンフィクション=奴隷としての視点で現実を把握させられざるをえなかったこと、動けはしないが根を張りそこから枝を伸ばして育っていく植物的な受容と成長、少数派、個人という立場でものを見る活動、など。「植物的」なノンフィクション。弱い、ひらがなっぽくて口語的なカウンターとしてのノンフィクション。発言権なんてないとされている人の目に映った世の中の観察。

    ▶︎p.280 現実というものになんの不満をも持っていないとするならば、その人はなにかを書きはじめたりする必要がないだろう。現実に耐えられないからこそ、いま良しとされている現実とはちがうものを組み立てることになる。
    時代のリアリティをどのあたりに感じるのか、に興味を持つ人が、世に流通している「現実に関する言説」を、どれもこれもうそばっかりだな、と書き換えや置き換えの必要を感じて現実についてまとめはじめる。そしてその「現実の捉えかたにまつわるなんらかのバージョンアップや世代交代をせまるある種の世代間闘争のような言葉」は、ものすごく孤独に、個人的にはじまるかもしれない。なぜなら、同世代や、少ししたの世代の多数派こそが前の世代や現システムの追随者、信奉者であって、そこにこそ邪魔をされるみたいなところがあるからだ。

    ▶︎p.289 「いえることといえないことのあいだ」「フィクションとノンフィクションのあいだ(現実について語っていくうちに、もはやそれは現実というよりかはもう語り手の内面世界の描写、写生のおうにもなるから)」

    ▶︎p.291 取材をやればやるほどわかるのは、時代にかかわらず、うそ、虚飾、暴力、にせもの、そして失敗こそが「ほんとうの世界」というものの内実で、誰からも文句をいわれないデータだけで現実を語ろうとすると、大半のものごとが省略されてしまうということ。

    ▶︎p.294 聞いた声をどう文章という別のかたちに移植するか、にしても剥製のように殺して保存するのではなく、読み直すたびに聞く声が召喚されるみたいな生きたものにしようとすれば、そのうちに文章という平板なものに奥行きやその人の過ごしてきた時間、重さ、深さなども盛り込もうとしてゆくことになる。

    ▶︎p.315 2016年夏頃、あるバーテンダーへの取材で聞いた言葉。「良いものは誰にでも好かれるのではなく、嗜好を極めるほど本来は評価も分散するはず。トップシェアとは、好みに対しとくに考えず、ただ買いものに失敗したくないとだけ思う層がわかりやすいブランドを買った結果なのかもしれません」

  • 読むというより、こちらがインタビュアーになり、著者の語りを通して内面を受け止めているような感覚。

  • 人に直に会って話を訊きその内容を文章でまとめるために必要なことが作者の多くの実体験に基づいてまとめられた本。
    前半はインタビューのメソッド、
    後半はインタビューの意味。後半がおもしろかった。
    結局、こちらの根本思想は伝わる(バレる)ってこと。話を訊くときもそれをまとめて伝えるときも。だから正直に丁寧に長い時間軸(同じ事実も経年で解釈は変わる)でやっていくしかない(〆切や求められる結果との折り合いのつけかたはあるにせよ)。自販機でモノを買うように自分が欲しい結論を相手から奪っていたら、わざとらしさや嘘臭さや自分スゴイから逃れられなくなるから。
    本当の中の嘘だけでなく嘘の中の本当や本当の中の本当に気づけるようになるのは大変。でも大事なのは、それを評価することではなく、さらにその先、話の後ろや間にあるおもいをわかって伝えられること。インタビューって深い。

  • インタビューを専門に行う木村俊介さんによる、『インタビュー』を読んだ。インタビューという営為に内在する意味を、自らのこれまでの経験を思索しながらたどっていく。『仕事論』や『物語論』を引きつつ、相対化ではなく絶対化に結論を導いていく。

    いまの世の中において、広告や虚飾の度合いが少ない言葉に出会えるだけで、それこそが貴重な体験のうちのひとつと捉えられもすると私は思う。p146

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著者プロフィール

木村俊介 (きむら しゅんすけ)
1977年、東京都生まれ。インタビュアー。著書に『インタビュー』『善き書店員』(ミシマ社)、『漫画編集者』(フィルムアート社)、
『料理狂』(幻冬舎文庫)、『漫画の仕事』(幻冬舎コミックス)、『仕事の話』(文藝春秋)、『変人 埴谷雄高の肖像』(文春文庫)、
『物語論』(講談社現代新書)、『「調べる」論』(NHK出版新書)、『仕事の小さな幸福』(日本経済新聞出版社)、
聞き書きに『調理場という戦場』(斉須政雄/幻冬舎文庫)、『デザインの仕事』(寄藤文平/講談社)、『芸術起業論』(村上隆/幻冬舎)、
単行本構成に『西尾維新対談集 本題』(講談社)、『海馬』(池谷裕二・糸井重里/新潮文庫)、『ピーコ伝』(ピーコ/文春文庫PLUS)、
『イチロー262のメッセージ』シリーズ(ぴあ)などがある。

「2018年 『衣・食・住・音 音楽仕事を続けて生きるには』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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