うしろめたさの人類学

著者 :
  • ミシマ社
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本棚登録 : 2013
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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784903908984

感想・レビュー・書評

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  • 日本の社会とエチオピアの社会との「ズレ」から世界の仕組みを読み解いていく。

    エチオピアではとにかく毎日感情が揺さぶられるほど物事がうまくいかないらしい。しかしその大変さは人間が生きるために必要なことなのかもしれない。
    日本はとにかく便利すぎる。何でもかんでも至れり尽くせりの社会だ。この快適さが逆に感情を揺さぶる機会を減らし、表情を失った人が多い原因なのかもしれないと、この本を読んで感じた。

  • 途上国、新興国を訪れた時に
    きれいだ汚いだとか、便利だ不便だとか、以外の
    もやもやとした感情を持ち帰ったことがある人のために
    「あのときのもやもや」を解説してくれる一冊。

    12歳。家族と一緒に行ったフィリピン。
    街を歩いていたら、路上で生活する同じくらいの歳の女の子が、私に「money, money」と言ってきた。
    おなじくらいの歳、おなじ女の子。その子と私。
    これってなんなんだろう。

    18歳。初めて自分で飛行機のチケットを買って訪れたインド。
    日本の小学生が集めてくれた鉛筆の寄付を、コルカタ郊外の農村の小学校で配った。
    鉛筆を渡した時、喜んでくれると思ったら、目の前の子はぽかーんとした表情。
    急に外国人が現れて、鉛筆を渡してきた。
    「自分は持っていない側の人間で、この外国人は持っている側の人間なのかな」
    そう思わせてしまっただろうか。
    これってなんなんだろう。

    21歳。知り合いの紹介で行き着いた、カンボジアの水上村。
    そこで暮らす人々は経済的には貧しいけれど、一緒に過ごすととても幸せそうで。
    なんだ。お金って関係ないのかな。
    外の人間が良かれと思って何かを与えることは、彼らの今ある幸せを壊してしまうのかな。
    しかし帰国2週間後。その村に住む14歳の女の子が、生活に困窮して自殺をしたと聞いた。
    これってなんなんだろう。

    エチオピアでの実体験から社会を読み解く作者の言葉に
    自分の実体験、「あのときのもやもや」が思い出された。
    丁寧に解説をしてもらえたことで、「あぁそういうことだったのか」とやっと自分の気持ちが理解できて、漠然とした罪悪感から救ってくれた1冊。

    感染症の影響で、社会のあり方が見直されている今だからこそ学ぶことがある1冊でもあると思います。
    出会えて良かったです。本当にありがとうございます。

  • エチオピアの農村での生活から、私たちが当たり前に内在化している市場、国家、社会への深い洞察がすごく面白い。

    貧困や不平等にバランスを取り戻す鍵となるのが、うしろめたさ。

    日本では、「自分が稼いだ分は自分のもの」と思って、貧困や不均衡に無感覚であることが正当化されてしまっているんだと、うしろめたく感じる。

    自分の当たり前の境界をずらして、バランスを取り戻す一歩にしたい。

  • 人間の心と体は、バランスのとれた公平さを希求している。災害被災者の苦しみを、何不自由なくくらしている自分がうしろめたく感じ、それをフェアにするために自分なりのボランティアを行ったりするコミュニケーションも、そう。人類をどんな視点で見るか、また、それをどう新たに構築していくか?格差や分断の時代にヒントになる。

  • 分断でもなく、癒着でもない。冷たい訳でもなく、面倒臭いものでもない。そんな人と人との、優しい繋がりを生み出すヒントを提示してくれている。バランスが重要だという事実はわかった。だが、じゃあそれをどうやって作る?という問題に対しては、「試すしかない」という答えになっていて、そこには諦めがあるのかもなと思った。

  • うしろめたさから目をそむけないこと

  • タイトルから想像していたものとは違ったのだけど、人との関係性や世の中の線引に関して感じていたモヤモヤを言語化してもらった感じ。構築人類学学びたい

  • 経済、感謝、関係、国家、市場、援助、公平
    この順番で、とても身近な関係性について解き明かす。対象は日本、そして比較に上げられるのが、遠い国エチオピア。エチオピアでのフィールドワークを比較対象にし、小さな経済圏の問題点を紡ぎ出す。
    平易な言葉で、わかりやすく、とても読みやすいが、内容はまさに「今」を照らし出す。
    最終に収められている、大学での話が個人的にも突き刺ささる。全く同じ事を行動原理としていたので、共感性が高い。どの世代もそうなのだろうけど、次の世代へのバトンをきちんと渡さないと、未来が無い。

  • 戦争や災害など様々な理由で苦しんでいる人がいるのに、自分は何も出来ずに平穏に生きていることに常々来るしさを感じています。
    私が感じる「苦しさ」は本文中では「うしろめたさ」と表現されます。
    「うしろめたさ」を感じるのは自分と相手とが公平ではないと感じるから。
    人は公平さを求める。
    苦しいけれど苦しさに向き合って自分の出来ることを始めていきたいと思う。

  • 著者がエチオピアの参与観察から得た「構築人類学」のレンズを通して日本社会を見ることで、現代の日本社会が抱える歪みに気付くことができる良書。平易な言葉で書かれており、とてもわかりやすかった。

    「構築人類学」は社会構築主義に立脚しながら、世の中の「ふつう」や「変な人」を作り出しているのは、私たち自身であると考える。そして、現代社会の「関係」(つながり)の断絶が、私たちの倫理性を麻痺させていると警鐘を鳴らす。これを誰もが理解できるように、著者は経済、感情、関係、国家、市場、援助、そして公平という諸概念と私たちとのつながりを一つ一つ紐解いていく。

    経済/感情/関係:
    本書の前半は、「経済−感情−関係」の行為の連鎖がこの社会を構築していることに言及している。これを理解するためには、マルセル・モースの贈与論に立脚した「経済=交換」と「感情=贈与」の2つのモードが鍵となる。

    私たちが暮らす日本社会は、その大部分が「経済=交換」のモードに支配されている。お店で商品を買う時、金銭との交換によって一回限りで精算されるやり取りとしてこれが成されるが、これ自体には感情的なつながりは期待されていない。
    一方で、この時に購入した商品と全く同じモノのやり取りだったとしても、リボンや包装、費した時間の長さなどによっては、これは贈り物にも変わり得る。そして、贈り手の思いが宿った贈与は、受け手にも何らかの感情を生み出す。脱感情化された「交換」と感情を際立たせる「贈与」。私たちは、その都度、交換/贈与のモードを選択しながら生活している。

    「感情=贈与」の関係性は面倒くさい。勿論、そこから歓びが生まれることもあるが、厄介な思いに振り回されることもある。一方で「経済=交換」の関係性には、こうした煩わしさは無い。都市化やネット化はこれと表裏一体だが、過度に「経済=交換」のモードに支配された社会では、人と人との感情的なつながりを希薄にしていく。感情的なつながりの喪失は、自己と他者との境界線を際立たせ、「わたしたち」のつながりの可能性を狭めてしまう。それは、社会に対する無力感や無関心と言ってもいいかもしれない。

    国家/市場/援助:
    更に理解を進めるために、本書の後半は国家、市場、援助といったマクロなテーマとのつながりへと論が進んでいく。

    普段、私たちは「国家」と自分との関係性を意識することはなかなか無いかもしれないが、著者は国家の支配や権力は、私たち自身の内面化/身体化の度合いと深く関わっていていると指摘する。例えば、子どもが生まれたとき、その事実はその時点によって既に成立していることに疑いの余地は無いが、役所に出生届を届けた時点で晴れて国家制度上の国民となり、様々な行政サービスを受ける権利が得られるようになる。転入届や婚姻届なども同様だ。私たちのアイデンティティは、国家の制度によってつくられているとも言える。そして、「わたし」の存在が国家と不可分なのだとすれば、その「わたし」が変われば国家も変われるかもしれないと著者は言う。

    社会主義は意思決定権が為政者側にあり、その責任や不満の矛先は彼らへと向かう。一方で、市場経済においては自己責任が原則となる。これは同時に、政府への責任追及のリスクが分散されていることにもなっている。社会主義では自らの行為が社会に及ぼす可能性は開かれていないが、市場経済/民主主義は、一つひとつの行為が世界/社会をつくりだすことを可能にしている。世界は、初めから形をもってできあがっているのではないのだ。

    公平:
    それでは、より良い世界/社会とは、どのような姿形をしているのか。著者は、以下のように述べている。

    「努力や能力が報われる一方で、努力や能力が足りなくても穏やかな生活が送れる。一部の人だけが特権的な生活を独占することなく、一部の人だけが不当な境遇を強いられることもない。誰もが好きなこと、やりたいことができる。でも、みんなが少しずつ嫌なこと、負担になることも分けあっている。
    つまり、ひとことで言えば、「公平=フェア」な場なのだと思う。」

    しかし、実際には世界/社会は公平ではない。世界には偏りがあり、不公平だ。
    これに対する処方箋は、①見て見ぬフリをしたり、何かの論理的な整合性をつけてなかったことにするか、②物や財の偏りを実際に無くせるように行為し、バランスを取り戻すかのいずれかだと言う。そして、この手がかりは「公平さへの欲求」と、自分たちが不当に豊かだという不公平さへの「うしろめたさ」にあるのだと著者は主張する。

    「それは国や行政の仕事だから」と他人事にしたり、責任を放棄することは容易い。だが、国や行政は功利的(そして利権的)であるのだとすれば、必ず抜け落ちてしまう領域ができる。最大多数の最大幸福を実現するためには、社会的マイノリティは後まわしにされがちだ。社会主義が完璧にはなりえないように、国や行政に責任を委譲したからと言って、ひとりでに良い世界/社会になる訳ではない。であるならば、市場や非市場、つまり私たちの普段の生活でこれをどのように実現させるかを考え、行動しないといけない。

    私たちにできるのは、当たり前だとされていることの境界線をずらし、その陰に光を当てることだ。それが自分自身の現実との向き合い方を変えるし、たとえそれが微力でも、誰かの世界の見方をずらし、それによって少しずつ世界が変わっていく。
    そのためには、一人ひとりが誰に何を贈るために働いているのかを見つめ直すことが肝要だと著者は言う。私たち一人ひとりの日々の営みが、市場や国家と結びついて格差や不均衡を生み出しているかもしれないと、自覚的でありたい。

    見たくないものから目を背けてはいけない。誰かに全てを委ねるのではなく、少しでも「つながり」を取り戻すことから始めたい。「うしろめたさ」がバランスを取り戻すきっかけとなる。倫理性は「うしろめたさ」を介して感染していく。

著者プロフィール

松村 圭一郎(まつむら・けいいちろう):1975年熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。専門は文化人類学。所有と分配、海外出稼ぎ、市場と国家の関係などについて研究。著書に『くらしのアナキズム』『小さき者たちの』『うしろめたさの人類学』(第72 回毎日出版文化賞特別賞、いずれもミシマ社)、『旋回する人類学』(講談社)、『これからの大学』(春秋社)、『ブックガイドシリーズ 基本の30冊 文化人類学』(人文書院)、『はみだしの人類学』(NHK出版)など。共編著に『文化人類学との人類学』(黒鳥社)がある。


「2023年 『所有と分配の人類学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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