定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

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  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784904701089

感想・レビュー・書評

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  • そのスジ(?)では割と有名な本らしいので、購入して読んでみた。原著は1983年である。
    先日読んだ橋川文三『ナショナリズム』(ちくま学芸文庫)と比較し考えながら読んだが、橋川がナショナリズムの起源を端的に「ルソーの思想を部分的に受け継いだフランス革命」としていたのに対し、本書の著者ベネディクト・アンダーソンは、ナショナリズム醸成の土壌はヨーロッパにおいて(特に印刷術の発明と発展を画期として)つちかわれてきたが、最初にナショナリズムが明確に誕生したのは南北アメリカだと述べている。確かにフランス革命よりアメリカ独立宣言は少し早い。
    この本の凄いところは、ヨーロッパ史に留まらず、中南米からアジア(日本もしっかり分析されている)、北欧まで、およそあらゆる領域の国々を深く探究しているところだ。
    さて、ナショナリズムという語は「国民(ネーション)主義」を指すのであって、「国家主義」と混同するのは完全に間違いであるらしい。だからこそ、ナショナリズム的な像が「想像の共同体」と呼ばれるのである。
    こんにちの観点から見れば、私たちにとってナショナリズムはどうも悪い面が気になってならないが、アンダーソンは
    「我々はまず、国民(ネーション)は愛を、それもしばしば心からの自己犠牲的な愛を呼び起こすということを思い起こしておく必要がある。」(P232)
    と、肯定的な評価を下している。橋川文三『ナショナリズム』の論からすれば、アンダーソンはナショナリズムと原始的な郷土愛である「パトリオティズム」とを混同しているのではないか? とも思えるのだが、考えてみるとなかなか厄介な問題だ。
    しかしアンダーソンの、上記の引用「自己犠牲的な愛」について言うならば、自爆テロだって聖戦への「愛」だろう、と指摘することも出来るし、一概に良い悪いを判断することはできない。
    日本では特に東日本大震災以降、異様なまでに「今さら」なナショナリズムの心情が多くの国民を包んだ。たとえば、あの「がんばろうニッポン」みたいな、よくわからないスローガンに現れたように。このナショナリズムの心情は、一方では安倍内閣とそのシンパのような<民主主義の無法な破壊者>という<悪>に結実した面もあるし、逆に、<マナーの良い、親切な、助け合う日本人の連帯>を現出させた面もあるだろう。
    要するにナショナリズムそのものは良いとも悪いとも言えない。そこには確かに「愛」があるかもしれないが、その「愛」は排他的な紐帯の形を取るならば、それはやはり<悪>である。
    それといま気になるのは、「ナショナリズム」が国民同士の共同-想像-体であるとしても、それが即「国」と結びつく日本語体系においては、やはり「国家主義」との隣接を否定できないのではないか? 現在の日本人はスポーツの国際試合を見ていても「がんばれニッポン! よくやった、すごいぞニッポン!」とすぐに「国」と結びつけてしまう。頑張ったのはその選手や、選手同士の連帯が構築した組織体としてのチームに他ならないのに、なぜかそれが、日本国民や日本国というイメージに置換されてしまうのだ。
    最近は「日本」を褒め讃えるオナニー的な本が書店の店頭をにぎわせているようだが、そういう本に飛びつくのは、全然凄くない、生きていても全然意味ないようなくだらない自己を、「日本」というくくりに結びつけることで何とか美化させたいという、しょうもない欲望から来ているのだろうか?
    ナショナリズムと国家の関係についてはもっといろいろ読み、考察してみたい。

  • 交換様式A=B

  • ベネディクトアンダーソン 「想像の共同体 」 ナショナリズムの系譜を論じた名著

    著者のメッセージは、暴力的な死の中に、ナショナリズムの病理性を見出すのでなく、共同体がどのような想像を経験してきたかを見るべきということだと思う


    ナショナリズムを、多様な政治パターンと合体可能な文化的人造物と捉え、言語的多様性、資本主義、印刷技術からナショナリズムを体系化し、同時性の時間概念から、国民が「想像の共同体」である点を論証している


    同胞愛や祖国愛についての論考は、想像の共同体の中で悲劇的結末を遂げる国民を描いていて、文学的な印象を受ける

    「国民はイメージとして心の中に想像されたものである〜同胞愛の故に、みずから死んでいった」

    「祖国への愛には、たわいのない想像力がはたらいている。恋する者の目にあたるのが、愛国者にとっての言語である〜その言語を通して過去が蘇り同胞愛が想像され未来が夢みられる」

    「忘却の中から物語が生まれる〜これらの物語は、均質で空虚な時間の中に設定される〜模範的な自殺、感動的な殉国死など暴力的な死は〜 われわれのものとして記憶/忘却されなければならない」

    著者と訳者はアジア研究者のようで、アジアの事例が多く、丸山眞男や平家物語を引用しているので、身近さを感じる


    帝政ロシアや戦時日本で見られた公定ナショナリズムについては論考が広くて深い

    公定ナショナリズム
    *国民と王朝帝国の意図的合同〜ナショナリズムがモジュールとなり、帝国が国民として装う
    *公定ナショナリズムは、主として王朝、貴族〜本来、民衆の想像の共同体から排除される権力集団
    *帝政ロシアなど多言語領土において、帰化と王朝権力の維持を組み合わせる方策
    *日本は公定ナショナリズムの発揚のため天皇を利用
    *公定ナショナリズムは、共同体が国民的に想像されるに従って、排除される脅威に直面した支配集団が予防措置として採用する
    *公定ナショナリズムは、国民と王朝の矛盾を隠蔽
    *公定ナショナリズムは、革命家が国家の掌握に成功し、彼らの夢を実現するために国家権力を行使しうる地位についたとき妥当なモデル
    *資本主義は、印刷出版の普及によって、ヨーロッパの民衆的ナショナリズムの創造を助け、公定ナショナリズムをヨーロッパ外の植民地にもたらした

  • 新聞や小説といった複製技術がナショナリズムを育てたという観点が面白かった。世界史好きなら読みやすいし面白いと思う。

  • 国民ってなんなの?
    その正体にちょっと驚き。

    正体は本の題名にある。
    じゃあ、
    この世界中の人々の頭に普遍的に(みんな自分の国がどこでどういうものなのか知ってる)しかし個別的に(日本とイギリスは国という意味では同じだけど、異なるもの)ある、
    この「国民」という概念は果たしてどうやって生まれたのか?

  • 実は表紙の写真に惹かれて〜そして写真についての説明はなかったのだけど〜手に取ってみました。軽妙な感じなのに引用が多いからかなかなかに読みにくく図書館で借りたのが二回目。それでもちゃんと読み解けたか自信はないのだけも…。ナショナリズムの起源とそれがどのように広まったのか、についての古典らしい。言われてみると大学の教科書みたいな感じもした。元々は国家(ネーション)に対する帰属意識みたいなものは人類にとっては乏しい概念であった。欧州ならラテン語であるとか中華世界では科挙だとか「グローバル」な基準があったものが印刷技術の発展などもあってだんだん地域の言葉が一般的になってくると帰属意識が芽生えてきて、という流れがおぼろげながら理解できた。思えば特に欧州などは支配層が外国人であったりするのも当たり前でラテン語みたいなグローバルだけど一般的ではない言語があっていわば垂直に分断されていたものがテクノロジーの発展で国境でむしろ水平に分断されていったのかな、という印象。構成員全員を知り得ないにも関わらず共通の意識を持っているはず、と思っているところが想像の共同体と作者が呼ぶ由縁で、そんなもののために…更には割と近年に発生したネーションへの帰属意識のために命を落としたりするケースがあるのはいかにも残念である、という理解をした。極右政党などが世界的にも台頭しつつある時代には重要な研究テーマかと思った。ちゃんと理解するために改めて精読したい。

  • 『定本 想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』
    原題:Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism
    著者:Benedict Richard O'Gorman Anderson (1936-2015)
    訳者:白石隆・白石さや
    装丁:加藤光太郎

    【原著の改訂】
    ・1st edition, 1983
    ・2nd edition, 1991
    ・Revised edition, 2006

    【版元の書誌情報】
    価格:2,100円
    ISBN:978-4-904701-08-9 C0020
    シリーズ:社会科学の冒険ll期 4
    刊行日 2007年7月31日
    サイズ 130mm ×188mm

     ナショナリズム研究の新古典。増補版に書き下し新稿「旅と交通」を加えた決定版。アンダーソンのゼミで原著執筆時共に研究議論を重ねた最適訳者による翻訳。
     なお、本書は、2008年9月23日付『毎日新聞』朝刊読書面にて「ちょうど10年ごとに同じ編集者の手を経ながら、それぞれ別の版元から出た点にも運命的な面白さを感じます(一)。」と温かい言及を頂いています。
    http://hayama-pub.net/modules/zox/index.php?main_page=product_info&products_id=1


    【メモ】
    ・nationalism研究における近代主義の三大古典の一角。
    ・訳文はそれほどこなれていないが、格調高さの薫る叢書ウニベルシタッス風。
    ・なお(書名はともかく)、本書で展開されたアンダーソン説は「想像された共同体」と言及されることも多い。


    【抜き書き】
    ※[ ] ルビ 
    ※〔 〕 訳者による補足

    □ 32頁
     “無名戦士の墓と碑、これほど近代文化としてのナショナリズムを見事に表象するものはない。これらの記念碑は、故意にからっぽであるか、あるいはそこにだれが眠っているのかだれも知らない。そしてまさにその故に、これらの碑には、公共的、儀礼的敬意が払われる。これはかつてまったく例のないことであった。それがどれほど近代的なことかは、どこかのでしゃばりが無名戦士の名前を「発見」したとか、記念碑に本物の骨をいれようと言いはったとして、一般の人々がどんな反応をするか、ちょっと想像してみればわかるだろう。奇妙な、近代的冒涜! しかし、これらの墓には、だれと特定しうる死骸や不死の魂こそないとはいえ、やはり鬼気せまる国民的想像力が満ちている(これこそ、かくも多くの国民が、その不在の住民の国民的帰属[ナショナリティ]を明示する必要をまったく感じることのない理由である。〔そこには〕ドイツ人、アメリカ人、アルゼンチン人……以外、だれがねむっていよう)。
     こうした記念碑の文化的意義は、たとえば、無名マルクス主義者の墓とか自由主義戦没者の墓とかをあえて想像してみれば、さらに明らかになろう。いいしれぬ滑稽さを感ぜずにはおられまい。それは、マルクス主義も自由主義も、死と不死にあまり関わらないからである。一方、ナショナリズムの想像力が死と不死に関わるとすれば、このことは、それが、宗教的想像力と強い親和性をもっていることを示している。”


    【目次】
    目次 [003-005]
    献辞 [006]
    感謝のことば [007]
    題辞 [008]
    増補版への序文(一九九一年二月 ベネディクト・アンダーソン) [009-016]

    I 序 017
      概念と定義/原注/訳注 

    II 文化的根源 031
      宗教共同体/王国/時間の了解/原注/訳注 

    III 国民意識の起源 075
      原注

    IV クレオールの先駆者たち 091
      原注/訳注 

    V 古い言語、新しいモデル 119
      原注/訳注 

    VI 公定ナショナリズムと帝国主義 143
      原注/訳注 

    VII 最後の波 187
      原注/訳注 

    VIII 愛国心と人種主義 231
      原注/訳注 

    IX 歴史の天使 259
      原注/訳注 

    X 人口調査、地図、博物館 273
      人口調査/地図/博物館/原注/訳注 

    XI 記憶と忘却 311
      新空間と旧空間/新時代と旧時代/兄弟殺しの安心/国民の伝記/原注/訳注 

    旅と交通――『想像の共同体』の地伝[ジオ・バイオグラフィ]について 343
      原注/訳注/謝辞(白石隆) 

    初版 訳者あとがき(一九八七年二月 冬のニューヨーク州イサカにて 白石隆・白石さや) [381-384]
    増補版 訳者あとがき(一九九七年三月 大津にて 白石隆・白石さや) [385-386]
    参照文献 [i-x]

  • 近代のナショナリズムを分析したいわゆる古典。ナショナリズムを勉強したい人が読まねばならない本のひとつには必ず入る。

  • 今年度前期の「人文地理学」講義で教科書として使用する予定なので,久し振りに読み直した。ちなみに,私が十数年前に読んだのは1987年にリブロポートから翻訳が出たもの。原著は1983年で,1987年の日本語訳は本書の世界で初めての翻訳だったらしい。そして,1991年に新たな章が書き加えられた改訂版が出版され,2007年の日本語訳はそれを含むもの。まずは目次をみてみよう。

    1 序
    2 文化的起源
    3 国民意識の起源
    4 クレオールの先駆者たち
    5 古い言語,新しいモデル
    6 公定ナショナリズムと帝国主義
    7 最後の波
    8 愛国心と人種主義
    9 歴史の天使
    10 人口調査,地図,博物館
    11 記憶と忘却
    旅と交通――『想像の共同体』の地伝について

    1991年の改訂版で新しく追加されたのは10章以降。特に,地理学者にとっては10章で地図の話が出てくるので,言及されることが多かった。なお,本書以降にポストコロニアル研究などで「クレオール」という語が一般的になったため,4章のタイトルが「旧帝国,新国民」から改められている。
    リブロポート版を読んだ時,私にとって一番印象的なのは「出版資本主義」に関する議論であった。この議論は日本の明治期における近代化の話でもよくされるようになったが,国民という政治集団は,新しい国民国家という政治主体によって上から押し付けられるようなもの(義務教育や徴兵制)だけではなく,個人個人が好んで参加していくものだという議論。個人は新聞や雑誌,そしてそれらに掲載される小説を読みたいがために標準語を習得し,そこに描かれるフィクショナルな人物たちに自分を投影することで,見ず知らずだが同じ国土に住む人たちに共鳴し,共感し,同情し,それが共同意識につながるという考えだ。しかし,改めて読んでみると,出版資本主義の議論はそれほど印象的ではない。というのも,この議論はフェーヴルとマルタンの『書物の出現』にかなり依拠しているのだが,私はその後,翻訳されている『書物の出現』を読んだ。このことで,本書の斬新さはあまり感じられなくなった。
    また,私にとって過去の読書はこの印象が強かったために,本書の重要な主張をあまりきちんと理解していなかったようだ。本書は,これまでナショナリズムの起源をヨーロッパとする定説を覆すことで注目されたのだ。著者によれば,ナショナリズムというのは植民地が独立する際の原動力として登場するものだという。著者の専門はインドネシアだが,かつてのオランダ植民地支配から脱するために,本来地域的なまとまりを持たない島々の間で共同意識が生まれることで独立運動が起こるという。しかも,それは支配のために入植者たちが現地の住民に押し付けたオランダ語やヨーロッパ文明の浸透としての出版資本主義。こうした手段を使って,独立運動が起こるという皮肉というか,時代の運命というか,そんなことが見事に描かれている。
    と,分かったように書いてみたが,実はここが本書の難しさでもあり,それがゆえに今以上に知識が浅かった私が一度目に本書を読んだ時にはきちんと理解せずに,知識としても蓄積されなかったのである。これは,今後講義を行う上でも自分のなかで補足しなくてはならないことだ。つまり,植民地の歴史と独立の歴史を知ること。どの時代に,どこの国がどの地域を植民地化し,それがどのようにしていつ独立するのか。植民地化の歴史はラテンアメリカに始まって,アフリカに終わるともいえるが,その分かりやすい2つの大陸に比べ,実は植民地化に日本も加担した,アジアの歴史というのは意外に理解していないことを自覚させてくれた。
    さて,それはそれとして,意外にも1991年に書き足された章はあまり目新しいものではなかった。でも,そのなかでも一番面白かったのは,あとがきともいえる「旅と交通」であった。これはいわゆる旅と交通の話ではなく,出版資本主義の議論をその一商品でもある本書自体について分析したものである。1983年に出版された本書は1987年に日本で初めて翻訳されたが,それはリブロポートという今はなき西武系の出版社だった。日本の場合にはいかにも思想を反映した出版社というのは少なく,多くの出版社の政治的思想は分かりにくい(まあ,政党すらも思想的にはっきりしない国だから仕方がない)。リブロポートの場合にはある意味,本書を知的流行として捉えていた感がある。実際に「社会科学の冒険」というシリーズの一冊として出版されている。それから始まった世界中での本書の翻訳は,時代によって地理的分布が異なり,またそれを手がける出版社,国によっては正規にではなく海賊版として,出版されたという。日本では,本書が発禁処分になるなんてことはありえないが,国によっては当然事情が違う。まさに,植民地後のこのグローバル世界において,本書の受け止められ方,また利用のされ方も違うという。その辺りの考察を原著者自身が行うということはすごいことだ。あらためて,アンダーソンのすごさを思い知らされる。
    さて,日本では改訂版も聞いたこともない小さな出版社から出されたわけだが,これがまたけっこうひどい。リブロポート版にはなかったウムラウトの文字化けがあったり(28ページ),文献の日本語訳情報があったりなかったり。まあ,ちょっとこの辺は笑うしかない感じだが,きちんと読むべき人は原著に当たれ,ということで,原著もAmazonで購入した次第。

ベネディクト・アンダーソンの作品

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