デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

  • PLANETS/第二次惑星開発委員会
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784905325093

作品紹介・あらすじ

いま最も注目の研究者にしてメディアアーティスト、落合陽一の最新作!

十分に発達した計算機群は、自然と見分けがつかない――
デジタルネイチャー、それは落合陽一が提唱する未来像でありマニフェストである。
ポストモダンもシンギュラリティも、この「新しい自然」の一要素にすぎない。否応なく刷新される人間と社会。それは幸福の、経済の、民主政治の再定義をもたらす。新たなるパラダイムはここから始まる……!

感想・レビュー・書評

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  • 本書のタイトルのデジタルネイチャーとは、ユビキタスコンピューティングやIoTといった、現在のあらゆるところにネットワークがあり、様々なものがネットワークに接続されている状況からさらに先の、あらゆるものがデータとして計数され、人工と自然の区分のなくなったような未来像を表す言葉である。

    本書に書かれるようなユートピア的な面が実現されるかはともかくとして、現在はその途上にあると感じたところもあるのだが、
    以前に1度読んでいて、また読み返そうと思ったのは、生成AIがここまで一般になった今、END to ENDという言葉が、事象が事象に変換され、始端と終端だけで中間の意識されない状態が、生成AIを使っている感覚にぴったりときたからなのだが、
    その点やっぱりその時先端を行っていたような人は、こうなることを知っていたのかなと思うくらい、以前に読んだときよりも今の状況に近いことを言っているようにも思う。

    AI忌避やAI禁止を言う人をよく見る。
    みんながAIを使わない時代にAIを使うのは、利得を得やすい。
    AIが当然となっていくなかで、使わないという選択肢は、AIにない強みに特化していくのなら、利得を得られるだろうが、
    現状が過去の遺物となりゆく中で、過去の遺物にすがるだけで、新たな強みを作っていかないのなら、
    ただ衰退していくだけだ。

  • 方向音痴の私にとって、はじめて行く場所ではGoogleマップが欠かせない。とくに地下鉄の駅から上がった後では、文字通り右も左もわからない。スマホ画面上の青い点がどちらに動くかを見て、自分が正しい方角に向かっているかどうかを判断するしかない。
    そんなとき、私は自分が現実の道路を歩いているのではなく、本当はGoogleマップの中を歩いているのではないかと錯覚することがある。つまり、感覚器を通して捉えられた世界よりも、この仮想空間の方がはるかに「信頼できる現実」なのだ。このような仮想と自然(現実)の融合を、著者は「デジタルネイチャー」と呼ぶ。
    私は昔、「ヴァーチャルは現実を超えるか」というエッセイを書いたことがある。現実以上に精緻なヴァーチャルが出現したら、価値基準においてヴァーチャルは現実より上位になるのだろうか。そのような疑義を投げたのである。しかし、ヴァーチャルと現実が融合してしまうという可能性には思い至らなかった。著者の洞察力は評価に値する。
    本書はデジタルネイチャーの系譜と、それがもたらす未来を論じた本である。これを絵に描いた餅と一蹴するのは拙速だろう。たしかに、著者は私よりも若いが、本書に書かれていることの少なくとも半分は、生きている間には現実化しない公算が高い。だが残りの半分は、われわれが議論している間に現実となってしまうだろう。だから、これらはもはや「今後どうすべきか」という話ではない。いま考えて当然の話なのである。終章で触れられるような、身の回りの技術への応用という面でも著者の活躍を期待したい。

    さて、これだけ褒めたのだから、悪口も書かせてもらおう。
    読む前から「どうせ気障ったらしい文章を書くんだろうな」とは思ったが、想像以上に想像通りでむしろ笑った。
    うんざりするほど脚注が多く、左側のページはつねに脚注があると言っていい。要するに、この本の3分の1は「いま言わなくていいこと」である。実際、ググれば済む程度のことしか書いていなくて、本当に紙の無駄だ。
    シラーの詩を原語で引用しながら訳出していないのは、「僕はこのくらいのドイツ語は読めるんですよね。みなさんは読めないでしょうけど」とでも言いたいのか。著者は出典を電子版シュピーゲルのURLしか記載しておらず、リンクが切れているので何を見て書いたのかは知るすべがない。だが、この詩はシラーがデンマーク王子に宛てた書簡が原典と言われており、こんなマイナーな詩をわれわれが知っているのは、みなとみらい駅に設置された巨大なパプリックアート「The Boundaries of the Limitless」に刻まれているからである。
    つまり、ドイツ文学者でもない著者がこの詩を知っているのも、このアートを見たからと考える方が蓋然性が高い。だったらなぜ素直にそう書けないのか。もしかするとGoogleで検索してヒットしたページを参考文献として記載したのではないか。シラーをドイツ語で紹介するなら、なぜヴェーバーやマルクスは同様にしないのだろう。私は著者にドイツ語の知識があるのかさえ疑っている。まあ、フリードリッヒ「フォン」シラーなどと書いている時点で、シラーを読んでいないのもバレバレだが。
    本書の内容を十全に理解しているという自信は私にはない。だが上の一事だけを見ても、著者の該博な知識が張りぼてのスノビズムではないかという疑念を抱かせるに十分だ。
    内容は面白い。ただし、文章力が大学生のレポート並みだ。せっかく中身のあることを書いているのだから、カッコつけるよりもまず誠実な文章を書け。それなら他の著書も読んでやらないことはない。

  • 自分が出会わない言葉で私たちが生きる世界の実像の根幹を解説していく手法は作者の真骨頂と感じた。私のような凡人の頭では文字を追いかけていくのがやっとで、自分の中にない言葉が宙に浮いたようで、抽象的かつぼんやり理解できたように感じさせられてしまう。まさに異世界に触れたという感覚。何冊かの読書の合間に読むと愉しく読めそう。

  • ものすごい量の注釈が物語っているが、専門用語やカタカナ語を多用し一見分かりづらいが、落ち着いて読めば理解できる内容。経済産業とテクノロジーの進化により、人々の生活がどのように変化してきたかの沿革を落合流に解説し、その先の未来を提示する。
    現実とテクノロジーが限りなく境目なしにつながり、まさに「デジタルなネイチャー」な世界になるという。それは単なるIoTということでなく、ホログラムやトランスニューマニズムの延長になる。究極は、人間とは意識であり、それをクラウド化すればあとはロボットやバーチャルが世界を成り立たせるというあり方。
    確実にその方向に向かっているが、果たしてそれは幸せなのか。

  • 初見で理解するのはかなり難解な内容です。3回程読み直してようやく全体像を理解する事ができました。

    本書はタイトルにある通り、デジタルが自然化した先の未来を、東洋、西洋、あるいは近代と相対的して書かれています。日本人が持つ独特な感性「侘び寂び」から語られる思考の拡張性や、ポストシンギュラリティー時代の二項対立の融和(テクノロジーによって障害者という言語自体が消失する)、またイルカのエコロケーション獲得による言語から解放された人類(簡単に言うと、技術によって脳で思考した事が言葉を介さずに相手に伝達可能になる)など興味が惹かれる内容ばかりでした。

    落合さん独特の専門用語が多いため理解するのは難解ですが、無知な言葉を検索しながら読み進めるうちに、落合さんの思考の多くを獲得できたと思います。
    半年掛かっても読む価値はありますので、是非。

  • 落合陽一さんがたまにデジタルネイチャーという言葉を使っていて、その意味するところがぴんとこなかったが、この本に考え方が説明されているということで読むことにした。高度に発達したコンピューター、機械が作る景色は人間にとって本物の自然と見分けがつかない、そういったことを言っているようでした。それだけいうと、ああそれだけのことかという感想で終わってしまうのですが、この高度に発達したコンピューター、機械はディープニューラルネットワーク、AIにおける発展とも密接に関連していて非常に興味深いです。

     もともと人間の認識、脳の働き、神経細胞の働きを模したものとしてニューラルネットワークがあるわけですが、その技術が作り出す計算機自然と、人間が認識する自然に差がなくなっていくのはとても自然な流れではあります。自然だけがもつものはその解像度の高さにあるわけですが、人間が認識できる解像度には当然限界があり(音であれば何KHz、映像であれば8kなど)、またその限界は人体の認識の仕組み(音を波長でとらえる、映像は網膜でとらえる)に依存していることから一定以上の解像度について人間は捨象していると考えられるわけです。その本質は言語で論理的に対象を表すよりもただありのまま現象をとらえるという(end to endという言い方をしている)東洋思想に近い考え方との親和性が高いという説明は非常に興味深いものです。多くのディープラーニングのプロセスは処理が多重であるため、言語で表しきれるものではありませんが、ただ認識した結果、処理した結果、物性としてとらえることが正解というわけです。

     ここからはこのデジタルネイチャーの本において語られていたことではなく、大学時代に読んだ哲学書の内容に関連することですが、西田幾多郎のような哲学者が言っていたようなことも、主体と客体をわける西洋哲学からの脱却のようなことを語っており、ただ対象をそのままにとらえることの意味、あるいはそのあり方を見つめなおす必要性を訴えていたわけです。ディープニューラルネットワークの台頭でその有効性が証明されるということは本当に面白い話です。西田幾多郎はその生きた時代から推察するに、ディープニューラルネットワークのような存在を知っていたわけではないと思われますが、彼の事象をとらえる洞察、客観的に物事を記述するという西洋哲学の危うさ、そういったところに早くから気づき、そして本質的なところでは当たっていたということなのだと思います。

    ディープニューラルネットワークで導き出される認識の結果、事象、答えというものはそれを認識する側の解像度(の限界)との関連でその価値も決まるということなのだと思います。

  • デジタルネイチャーが主となる社会。今まで見てきた社会は、遠く霞む。AIが出てきたことでAIに支配され、コントロールされて過ごす人と、そこから出たVC的な要素を持った人とで生き方が二分される。この発想は正しい。よく見るのは、アレクサに音楽をかけてもらう人だ、またはAPPsのお勧め音楽を流す人もそうだろう。時にはそれは新しい、デジタルソースからの気づきがあると言えるが、そこに依存しているということはすなわち支配、コントロールに甘んじている。悪いとは言わないが、それって自分の生きたい生き方か?それとも気が付いていない?そんな問いかけを1冊にわたってしているように感じた。
    ビジネスについては、タイムマネジメントからストレスマネジメントへ。ストレスフリーであることが最も大事なのであって、時間が何時から何時まで働く、という感性はもはや無意味とバッサリ。日本企業は残業時間で過労死ラインを図り、なんとしても時間外労働、という謎の概念と枠をはめている。ストレスがかからないのは、どういう状態か、ストレスフリーな心持ち、それを自分としてはいつも澄んだ水のような気持ちで、と表現しているが、そういう状態にどう持っていくかが大事だろう。そして最も大事なモチベーションは、アート的という。ある種の衝動が人々の行動を規定、動かしていく。おそらく、何か別のことに主たる目的を置くことで、いわゆるこなすということと、衝動に突き動かされてやるということは、全く違うコンテクストの中でモチベーションを誘導していくんだろうと思う。難しい言葉、極めてユーザーフレンドリーではない言葉をあえて用いているが、大したことは言っていないなという印象。普通に読んで、なるほどね、というふうに感じることができるので、とっかかりだけ壁を感じただけだったようだ。
    あらゆるものがユビキタス、総合に通信し繋がる社会、これを提唱したのはマーク・ワイザー。ホログラムによる関係性と物質的な実態の関係性によって一体化した認識、これが東洋の思想である悟りと同じコンテクストと捉えているのは非常に面白いし、なるほどデジタルとは西洋の生み出した世界観だよな、でも実は東洋でも同様の思想がもっと前からあって当たり前に受け入れているんだなと気が付かされる。新しい視点は、非常に示唆に富む。スマホの写真を見てこんなことあったっけ?と思ったら、すでにそれは現実体験をクラウドが超えているということ、記憶よりも記録が優っていることを指す。また、文字の最後に!やハートをつけるだけでなく、絵文字を生み出した日本はこうした文章への感情のリンクを必要としていたと考えられる。全体最適化された社会が形成され、もはやクラウドで確保された情報を脳が記憶し続ける意味はない。こうした状況下で、実質と物質の区分けがなくなって、それを超越するデジタルネイチャーが我々の身体と繋がる全ての現象として現実として認識される。つまり、バーチャルも、リアルも、リアリティを持って感じられるということであれば同じ概念の上に立つということ。溶け合うと筆者が表現しているがこれがどこまでいっても、現実のようには思えないのだが、NYで開かれるゴッホの世界を表現したエキシビジョンに行ってみる。そこで感じるのは虚構か、現実か。。。

  • 『超AI時代の生存戦略』を読んで興味を持ったので借りてきた。こっちは難しめ。こちらもわかりみは多かったが、抽象的すぎる。(2018/9/4)

  • 魔法の世紀から3年経った2018年に執筆された、続編というかアップデート版というか。すでに2020年なので未来館等の仕事を経て落合氏の中では更にアップデートが進んでいるんだろうなと思うとゲンナリする。まじですごい。
    この2冊は基本難しいのだが、なぜか途中で諦めようという気にならず、辛い気持ちになる事なく文字を追い終わり、半分くらいはわかった気になれる。
    とりあえず自分が勉強不足であることを痛感させられるので、意識は高くなる。もう少しディープラーニングとか和風の美意識について知ってから再読したい。

  • 「侘びと寂び」とあるのでもっと人文系の内容を想像したが、AIを含むITの現在到達点を基に近未来のITと人間の関わりや人間社会の近未来像を冷徹に推測した部分が大半となっている。

    「侘びと寂び」は冒頭部分と巻末部分にだけ著されているが、著者の辿ってきた道筋がわかるようで興味深い。

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著者プロフィール

メディアアーティスト。1987年生まれ。JST CREST xDiversityプロジェクト研究代表。
東京大学大学院学際情報学府博士課程修了(学際情報学府初の早期修了)、博士(学際情報学)。
筑波大学デジタルネイチャー開発研究センターセンター長、准教授、京都市立芸術大学客員教授、大阪芸術大学客員教授、デジタルハリウッド大学特任教授、金沢美術工芸大学客員教授。
2020年度、2021年度文化庁文化交流使、2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)テーマ事業プロデューサーなどを務める。
2017~2019年まで筑波大学学長補佐、2018年より内閣府知的財産戦略ビジョン専門調査会委員、内閣府「ムーンショット型研究開発制度」ビジョナリー会議委員,デジタル改革関連法案WG構成員などを歴任。

「2023年 『xDiversityという可能性の挑戦』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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