無縁のメディア 映画も政治も風俗も (ele-king books)

制作 : 水越 真紀 
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  • Amazon.co.jp ・本 (255ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784906700738

作品紹介・あらすじ

デジタル・メディアが社会に行き渡った21世紀、すべてが「正しく」「オープン」になる社会が、息苦しいのはなぜか?SNSに招集される"ヒキコモリ"たちが未来の支配者になる!いま進行する"無縁"の状況と文化をクールに対話する。

感想・レビュー・書評

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  • ele-kingのゼロ年代本で、なぜこんなにも痛烈な物言いなのだろうかと思っていた三田格氏が、本書では粉川哲夫氏にときにボコボコに否定されていて、メディア批評の奥深さなどを思い知る。完全に余談ですが、三田氏がLA生まれ、東京都港区育ち(旧電通ビルの裏の小学校に通ってたそう)、東京藝大に進学後中退、筑紫哲也のもとで働いていたということがわかり、めちゃくちゃブルジョワな出自の方なのだなのと知り、なるほどと勝手に納得した。

    テーマや議論は決定的な中心を持たず、メールでのやりとりをベースにしているからか即興的な応答も多くスリリング。「福島原発事故日記」の収録もアシストとなり、全体を通じて2010年代前半のメディア・文化を取り巻く記録として興味深く読めた。

  • 《スキゾは、いま、日本語では「統合失調症」と訳されますが、まだ昔の「分裂症」のほうがよかった。「統合失調症」だと、“統合” が最初から前提とされてしまうわけですが、そもそもスキゾは、統合できないということに意味があるし、それをあたかも出来るかのごとく薬で治療しようとしたのが近代医学のやり方で、脱フロイト派の連中は、それはダメだと考えたわけです。ガタリとドゥルーズは、そのことを哲学のほうに引っ張り込み、“統合” しない “複数多数性” や “マルチ性” への方法を考えようとしたわけです。》(p.20)

    《〈いま、ビッグ・ブラザーは歌い、踊り、人々の注意を逸らし続けている〉とチャック・パラニュークが言ったのは、〈ビッグ・ブラザーはもう監視などしてないよ〉ということですよね。もちろん、監視カメラはいたるところにあり、メールでもチェックしようとすればいくらでもできるわけですが、そういうことがコントロールではない時代になっていると。いわば監視は、偽装の管理主体があるかのように見せるルアーにすぎないと。》(p.38-39)

    《サン・ミュージックの相澤社長(当時)に話をうかがっていた際、「宇多田ヒカルがアメリカの音楽を取り戻してくれた」というようなことを言っていて、なるほど、90年代後半というのは、戦後初めてイギリスやヨーロッパの音楽が日本のチャートの大半を占めていたのかと思ったことがあります。僕の世代は “アメリカ離れ” していたわけですね。そのことが一時期的に日本の空気を変えたことにもなったし、音楽に関していえば、その大半は中身のない「変革」を主張していて、奥村宏の『会社本位主義は崩れるか』(岩波新書)のような、現在の橋下徹による官僚や守旧派批判を後押しするようなものとも結びついて、気分的には小泉政権の呼び水になったともいえる。「セックス・ピストルズはサッチャー政権の予告編だった」という言い方と同じようなものです。ここは少し考えてしまうところです。》(p.58)

    《日本人が自我を規定する時に “殻” という言葉を使うのに対し、西欧人は “窓” を比喩に使うことが多いなと思っていたのですが、いかがでしょうか? ちなみに Revolution の語源は30年戦争の皮切りにボヘミアで聖職者を “窓” から放り投げたことが始まりだというのを読んだことがあります。》(p.80)

    《僕が一番、恐ろしく感じたのは、90年代に “自分” という人称表現が急速に広まったことです。僕はセックス・ピストルズがコックニー訛りで歌っていたことに興味があって、イギリスの労働階級が使っている言葉の特徴を調べてみたことがあるのですが、そのなかに人称によって自他の区別をつけないということが書かれていました。それがどういうことなのか、実はさっぱりわからなかったのですが、TVでダウンタウンが “僕” でも “君” でも “あんた” でもなく、“自分” という人称を使い始めたときに、それが第1人称にも第2人称にもなりうるということがわかって、このことだったのかとやっと理解できたことがあります。いまはもう、どっちを向いても “自分は〜” という調子で80年代まであった自他の区別が消え去ってしまったような気さえしています。英語は同じ意味ではないと、前に粉川さんは書いておられましたが、“I” と “You” をはっきりさせたくない感覚に、“自分” という言い方がフィットしてしまったことは間違いありません。この言葉の浸透率はほんとうにスゴいものがありました。》(p.93)

    《しかし、問題は、じゃあ、なぜあいかわらず上からの規制が多く、“遊び” の部分がしなやかでないかです。それは、国家の “欲望” がそういう方向を目指しているからです。国家が別のことを望んでいて出来ないというのであれば、その指導者や管理担当者がダメというような判定も可能だし、ならば、その責任者に変わってもらえばいいのですが、もし国家の “欲望” のなかに、脱国家の “欲望” が全く含まれておらず、国民をがんじがらめにするマゾヒスティックな “欲望” だけで国家が動いているとしたら、ダメもくそもないのですね。》(p.111-112)

    《「責任を取りたくない」と “マゾヒスティック” にはどこかで関連があるんでしょうか。映画化は悲惨な仕上がりでしたけど、ゼロ年代にぶっちぎりだった少年マンガに『デス・ノート』というのがあります。自分からは誰でも攻撃できる恐怖政治を敷きながら、その主体が自分だと特定されないために一時的な記憶喪失にもなるというようなもので、要するにネットで好きなだけ他人の誹謗中傷はするけれど、それが自分の書き込みだとは同定されたくない人たちの心理を巧みにトレースしたものです。ネットの普及が呼び覚ました万能感もあるでしょうし、恐怖政治への願望が簡単に見て取れます。その支配下におかれた社会はそれを受け入れているわけではありませんが、マンガが長く続いたということは、そのような状態を楽しんでいたともいえるのでマゾヒスティックといえなくもない。》(p.117)

    《80年代は豊かさを意識するというより、金がないとは言えない時代だったという記憶の方が強く残っています。(…)人とは違ったやり方で議論する方法を見つけだすべきだと思い、渋谷の街に座り込んだりもしてみましたが、ロクに話もしていないのに追い立てられて、「ものを買う機能しかないのか、この街は!」とひとりで怒っていました。2000年前後に入って、コギャルたちがセンター街に座り込み始め、ジベタリアンと文句を言われながらもやめなかった時は、「やった!」と思いました。どうして彼女たちにそこまでさせたのかは分かりませんけど、満員電車のなかでも床に座り込んでいた子がけっこういましたから、一種の闘争状態であったことは確かです。センター街というのは、合法ドラッグが路上で売られていたこともあるし、一時期、カーナビー・ストリートやヘイト・アシュベリーと近いものになっていたんだと思います。1〜2年も経たないうちに渋谷商店会のパトロールに立つことを強制されて、結局、いまは誰も腰を下ろそうとはしませんけど、彼女たちが一瞬でも解放区を経験した意味は大きいのではないかと。》(p.132-133)

    《映画を見ていて思うのは、西欧世界の精神分析や治療は、日本には向かないだろうなということです。どのみち西欧から輸入した技術を使うとしても、相当アレンジしないと使えないはずです。アメリカでは、特に病気ではくても、ちょっとした “体調不良” を感じるとセラピストのところに行く人が多いですが、その場合、セラピストの役割は聞き役であり、患者の言語的表現を導く役割なんですね。だから患者が、自分の心の悩みをちゃんと文章に表現できるようになれば、一応の解決とみる。猛烈、言語信仰が強い。これは、日本の場合難しいのではないでしょうか? 日常、いちいち言葉にする習慣が弱いから、治療だからといって急に言語表現をしてみると言われても出来ないのです。》(p.170)

  • 確信の周辺を楕円軌道でグルグルまわって偶にスッと確信を突く......っていう意味で共著なんだけど三田格節炸裂だなぁと思った。不勉強なので粉川哲夫の著作を読んだ事がないのだけれど、もしかしてその"三田節"は粉川さんの影響なのかも、とちょっと思った。

    その三田節もあるけれど往復書簡という形でまとめらたこの本はアドリブの押収というセッション形で作られているのもあってサマリーにまとめられない。

    なので、以下は気になった箇所をメモ書き。
    ・粉川「いま、権力は"オンデマンド"方式で機能している。わかりやすくするために、古典的な"権力"というモノがあると仮定すると、この"権力"は、人々のデマンド(要求・需要)をとりつけて、正当性(レジティマシー)を作り、"権力"を行使する。(P.31)
    ・三田「『宇多田ヒカルがアメリカの音楽を取り戻してくれた』というサンミュージック社長の発言を聞いて90年代後半というのは、戦後初めてイギリスやヨーロッパの音楽が日本のチャートの大半を占めていたのかと思った。」(P.58)
    ・三田「日本人のように3人以上の人間が横に広がっている光景を外国で見たことがない。男女の差も見受けられないし、これは要するに会話から外れたくないということなのではないか。」(P.64)
    ・粉川「外見からは"自己主張"たっぷりな身振りも、モデルがあってそれを模倣している感じ。結局、日本人に刷り込まれた表現方法があって、それは身体文化が根本的に変らない限り、変りようがないのではないか。」
    ・三田「日本という国が<国民をがんじがらめにするマゾヒスティックな"欲望"だけで動いている>というのは北朝鮮に対する近親憎悪のような報道からも感じ取れます。(P.116)* マゾは国民であって、施政側にはがんじがらめにしようというサディズムがあるのでは?
    ・三田「日本はどんな理由であれ、一度外国に行った人間が躁素直には戻れない国なのかなーと思う。」(P.148)
    ・三田「(スクウォッターの現場等に触れると)日本ではDJは芸能の範疇だけれど、海外では政治に行為に近いという感覚のズレを認識せずに入られない。グランストンベリーのような大規模イベントがサーカス文化の背景をもっているということもショービズ、芸能とのは少し距離を持っていることに気づかされる」(P.154)
    ・粉川「サーカスというのはカーニヴァルと関係があり、祝祭的伝統を制度化したようなところがある。日本の芸能は解放は解放でも、どこか怨念を晴らすというところがある」(P.156)
    ・粉川「日本というのは、集団性を勝手に捏造してそれに従わせる傾向がある」(P.184)
    ・三田「『エレキング』のような洋楽中心の雑誌でも若い編集者やライターは外国に行きたくないと言います。日本が一番だという宣伝が行き届いてしまったのか、グローバル化の反動化。驚いたのはJポップで満足している若者に、その元ネタは○○だよと教えたら感謝されるどころか逆に嫌われたという話が続出していること。日本だけで完結したいという欲望が歴史の拒否になっているということなのか......。」← それは"上から目線"的に教えるという態度への拒否もあるかな、と。それと"自分(たち)の気持ちよい状態を壊さないでくれ"という欲求。

  • 粉川先生の批評は刺激的でいい。必ず「本」の「映画」の「パフォーマンス」や「アート」、「批評」の 外部 を意識させてくれる。

  • メール対談?ということで
    あっちこっちに話題が飛ぶので
    全体像はつかみにくく読むのに時間がかかるけど、
    友達と話しているような感覚で読むとおもしろい。

    今の日本の人の感覚が海外の人の感覚と対比されていたり、
    過去からどう変化しているか、
    客観的に見れるので面白かった。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784906700738

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