ローカリズム宣言―「成長」から「定常」へ

著者 :
  • デコ
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感想 : 25
  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784906905164

作品紹介・あらすじ

守るべきは「お金」よりも「山河」。あなたは、これからこの国で、どう生きるか?

感想・レビュー・書評

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  • 本書は、"Turns(ターンズ)"という雑誌に内田樹が書いていた記事を集め、加筆したものだ。
    Turnsという雑誌は読んだことがなく、書店でも見かけた記憶がない。どのようなものなのだろうかと思い、ネットで調べると、「Turns(ターンズ)は、日本の地域をテーマに、雑誌媒体、ウェブマガジン、リアルな場を通して、さまざまな情報を提供し、地域や移住に関心のある人や暮らしと地域をつないでいく架け橋となっていきます。」という説明があった。
    分かりにくい説明だが、地方に移住を考えている人、既に移住して(あるいは地方に定住して)いる人たち向けの雑誌のようだ。最近の雑誌のテーマを取り上げてみると、「ワーケーション最前線」「ローカル食文化がまちを変える」「リノベーションまちづくりが地域をもっと元気にする!」「地方でしかできない、あたらしい学び」「地方複業の時代」「いまこそ、地方へ」「地域経済を生み出す人たち」といった内容である。最新号は通算53号、隔月刊のようなので、けっこう長く発行されている雑誌だ。地方移住をする人たちがいること、あるいは、地方の都市が、移住者を集めようと努力していること等は知っていたが、その人たち向けの雑誌が成立するほどとは思ってもみなかったので、少し驚いた。と同時に、実際に雑誌を読みたくなった。

    内田樹は、本書で、地方移住をする若者が増えてきたことを、資本主義経済の行き詰まりと関連して論じている。都会のサラリーマン生活はリスクの高い生き方であり、そういう生き方を選択せずに、むしろ地方で定常的な成熟した生活・生き方を選ぶ若者が(多数派とは言えないが)増えつつあるのでは、と分析している。要するに、時代が変わりつつあることが、このような変化の背景にある、と言っている。
    私は、地方から東京の大学に進学し、東京の企業に入り、そこで退職まで務めた。いわゆる、高度成長モデル、昭和モデルの生き方をしてきた。こういった生き方を選択し続ける(都会でサラリーマン生活を送り続ける)ことの前提として、経済が(あるいは、少なくとも、私が勤めている業界あるいは務めている企業が)成長し続けること(そのように期待すること)があった。ところが、今や、そのようなこと(勤めている企業や業界ばかりではなく、日本経済そのものが成長する)を前提に出来ない。ばかりではなく、そもそも存続し続けること自体が期待できるかどうか分からない時代となり、リスクが高まってきているということである。
    私自身も、このような時代に大学を卒業するとすれば、同じ選択肢を選ぶかどうかは、分からない。

  • 都会から田舎に移住した若者として、感覚的に感じていたことや自分の中でぼんやりと考えていたことが、資本主義の流れを中心に具体的に言語化されていて、読んでいて自分の移住の決断や、ローカルに働くことの意味を感じることができた。とても役立った。手元に1冊置いておきたい。

  • 読みやすい。
    市場経済か、経済成長主義から、人間性を取り戻して、定常経済へ。
    私も人間らしく生きたい、生きよう、と思える、新年に相応しい本でした。


    第一章では、人間性をなくしていく人間たちの様を認識し、砂漠で生きてるんだな、不毛だ、喜びがない、と感じて悲しくなっていく。

    『経済成長が止まった社会でなお無理に経済成長を続けようとしている人たちは、それが中世への対抗であると言うことに気づかないほど狂っているのです。』p33

  • 自分が志向してて、友人が実践している生活「田舎で暮らし、自然を保護しながら自然資本に生かされる里山生活」の現代における歴史的・経済的意義を明快に示してくれた書。

    ローカリズム宣言とは、成長モデルに基づく資本主義経済・グローバリゼーションから脱却し、定常モデルの経済に移行し生きていくことの高らかな宣言である。
    定常モデルに生きるということは、フローではなくストックを維持し、活用することで生きる糧を得ることであり、各人が個性を発揮して共同体を維持し、自然や伝統、文化、社会を保全するというサステナビリティを実現することである。
    現在の地方移住という動きは、この、成長モデルから、定常モデルへの脱却の運動である。

    筆者は、成長モデルと定常モデルを対比する中で、次の様な事柄を論じていく。
    ・資本主義、株式会社という等価交換に基づく制度は万能ではなく限界がある(効率化による雇用の喪失や環境保全のコストの外部化による環境の悪化など)。一方、顔の見える・持続的継続的なやり取りをベースにした小商いが経済モデルになるということ。
    ・共同体とは、没個性の人間の集まりではなく、寧ろ多様な個性の発揮により危機に強い形で維持されるということ。
    ・現代において、地方移住し定常モデルで生きるということは、直感に従って冒険することであり、『やりたいことはやる、やりたくないことはやらない、以上』という生き方であること。
    ・サステナビリティを発揮するには、成長に対する嫌気、資源の有限性に対する危機感だけでは成立しない。これらに加えて、初与の条件として贈与を受けた自然資本や社会、文化を次世代に反対給付するという使命感があって成立すること。

    定常モデルへ踏み出す上で気になる、食べていけるか?コミュニティに入れるかが、懸念点になっていることも、本書を読んで改めて気づかされた。自分はすっかり成長モデルで頭ががちがちになっていて、人間関係ですらも、等価交換的な価値観になっているからだ。また、自炊すらせず、消費することに慣れ過ぎているからだ。
    だが、自分の求める「自然に生かされ自然を守り生きること」、「人と人のつながるということ」を目指した「自然と人の共存」、「人と人の共存」をみずから体現するのは、正に定常モデルに生きることに他ならず、地方移住したい自身の理由を気づかせてくれた。

    このことは、東日本大震災の時のボランティア経験を通じて都市生活は持続的ではない、脆いと感じた自分の直感にも合致していて、ここまで分かりやすく、腹に落ちる説明に出会えたことは僥倖である。

    自分は、スーパーシステムとして自然を破壊する成長モデルに抗うことと、自ら定常モデルにて生きることの両方を実現したいと思う。
    前者については、2019年現在、仕事を通じてうまく対応ができなかった。今後どんな形で、関わっていくかを模索したい。
    後者については、人として必要なものを提供するという命題において、自分のできることを見つけ出したいと思う。

  • 『ローカリズム宣言』

    相変わらず内田老師の本には唸らされる。定常経済、脱市場経済、ローカリズム。近代の失敗に対して、そして資本主義社会の失敗に対してのアンチテーゼとして多くの人に読まれるべき本である。

    まず、昨今の日本政治に関して、快刀乱麻を断つような発言が励行され、スッキリと物事が決まっていく風潮に異議が唱えられている。そして、その理由に日本人のほとんどが、社会人=株式会社で働く人という状況になり、株式会社マインドが社会全体において支配的なものになっていることを挙げている。国家や国政が一つの株式会社であるならば、トップダウンの即断即決は励行されるべきであり、ねじれ国会などもってのほかであろう。しかし、民主主義というものはそもそもにおいて、株式会社マインド、資本主義のサイクルを想定していない。二院制とは、極力あらゆることに熟議を促し、物事を決まりにくくする仕組みである。民主主義は意思決定のスピードを落とすためにある。このような制度設計に違和感があるかもしれないが、主な目的はリスクヘッジである。意思決定のスピードが早いことは良いリーダーであれば良い結果をもたらすが、悪いリーダーが就くことによりたちまち最悪の帰結をもたらす。アドルフ・ヒトラーが民主政治の中から排出されたことを私たちは忘れてはならない。会社であれば、良いのかもしれない。会社が潰れても、またやり直せばよい。しかし、国家という極めて長期スパンでやり直しの効かないものを運営する上で、一度の失敗は文字通り命取りになる。特に日本は、戦前にそのような帰結を辿ってきた。本書では、民主主義はより農業共同体を参照すべきとある。自然や文化などの社会的共通資本を運用する上で、性急な判断は禁物であり、株式会社マインドは決して導入されるべきではない。自然や文化など、重要なものには価格をつけるべきではないと本書や、宇沢弘文の著書では書いてあるが、なるほど価格をつけることというものは、他者(人間に限らない)を客観的(といっても一部の文化圏にのみ通用する考えかもしれないが)な視座の範疇に無理やり組み込むことである。それは、本当の意味で相手をリスペクトすることにはならない。値決めがされてしまうと、減価償却もできるし、償却期間を考える。もちろん、その償却期間や耐用期間が、現実に使用されている期間よりも長く設定されれば、これまで以上に使い方はよくなるかもしれないが、不可逆的な自然や文化と言うものに対して、それらを適用することは一種の冒涜ともいえるだろう。大人は、値決めや意味付けをしなくとも、巨視的かつ長期スパンの想像力を持ち、先祖や長い歴史の中で受け継がれてきたレガシーを将来に引き継ぐことを自らの使命とすることが腹落ちするのであろう。
    こうして書いているうちに、昨今の人的資本経営と言う言葉に感じていた嫌な感じを言語化できそうな気がした。人的資本経営は、労働力をP/L上の費用とみるのではなく、価値を生み出す資本としてみなす考え方を言う。価値を生み出す資本にはより投資が必要であり、より人材への投資を加速させよという提言の基礎をなすフレームワークとなっている。日本は長らく賃金が上がっていない経済社会であることを踏まえれば、人材の国外流出を食い止めるための呼び水となる発想には間違いない。そうした意味で、重要性は理解できる。しかし、これはカンフル剤であって長期に通用する考え方ではない。値決めや意味付けをしないと守れないのは子供の発想である。人的資本経営は、行き過ぎれば価値を生む人間というものを安易に規定してしまうのではないかという懸念がある。例えば、人の耐用年数や償却期間と言う考え方が出てきた場合、目の前にいる生身の人間を尊重するという感覚はそのまま保持することができるのであろうか。さらには、健康を害している、または先天的に障害を持つ人間は、価値を生みにくいと断定されてしまった場合、会社はその人間を雇い続けることについて、人的資本経営という発想がスタンダードとなった株式市場への説明責任を果たせるのだろうか。そうしたことを考えると、人的資本経営と言う発想はカンフル剤であり、本当の意味で長続きする発想ではない。本当に大切なものは、値決めや価値判断をすべきではない。これはESGという発想にも言えるだろう。しかし、私を含め、子供が多い今の社会にはESGはマイナスをイーブンに戻すうえでは必要な発想であるだろう。だからこそ、少なくともの暫定解として社会的には推し進めながら、次なる一手を考えるべきだろう。
    なお、農村をベースとした民主主義と申し上げたが、農村には閉鎖的なイメージがまとわりつくことは私も同意する。しかしながら、本当の意味で共同体的に生きる場合、同種の人間の集まりはサステナブルではない。皆が他方に尖っており、それぞれの一芸を磨いている方が、組織として成熟しており、継続性がある。そうした意味で、今まで一度も現実になったことのない過去かもしれないが、そんな理想的な農村を発想の基盤としている。

    我田引水、ずいぶんと話しが逸れたが、ローカリズム宣言の言わんとしていることは、もっと生身の人間を基軸に社会を構想しようというものである。制度のために生きているわけではなく、人間のために制度がある。この順番を間違えていてはならない。本書で紹介される廃県置藩と言う発想も、生身の人間が故郷と感じられるサイズに行政もサイズダウンすべきであるという提言である。さらに、少子化、高齢化が進むこの社会の中で、少なくとも生身の人間である自分たちが心地よく生きようとするためには、小規模の相互扶助共同体、拡大家族的な小集団を増やしていくべきであるのだろう。その集団内の交換には貨幣は必要ない。GDPには一切表されないが、私たちは幸せに生きることができる。これが脱市場主義である。生身の人間であるからには、脆弱である。精神的にも身体的にも人は弱い。その弱さをベースに構想されたコミュニティこそ現代に本質的に必要なコミュニティであり、唯一継続性のあるものであろう。この部分を読んで、保険業に順次する私自身本当に耳が痛い。保険業と言うものも、正直言えばコミュニティがあればある程度必要がないものなのだろうと思っている。保険的にも、グループキャプティブや自家保有などという形で、保険にとどまらないリスクヘッジの提案をしているわけであるが、個人の領域でもこれは適用できると思う。もちろん、細かい部分や人間の一生涯での収支を考えれば、保険商品よりは分が悪いだろう。しかし、私自身、保険商品が必要なく、あらゆる人々がコミュニティによってセイフティネットが用意された社会というものを見てみたい。


    最後に、東アジア共同体構想と言うことにも触れている。ある種の近代的な資本主義への超克として、かつてアジア主義がさかんに叫ばれていた。日中連帯を基礎とした反帝国主義、そして米英や欧州をしのぐ新秩序の構想である。この発想は、大東亜共栄圏という軍部のイデオロギーとして利用されてしまったが、その内実はまだアクチュアリティを持つのではないか。私は仏教校出身で、東洋思想にも少々触れたことがあるが、なんとなく腹落ちする。この部分はもう少し私自身のライフワークとして深堀していきたい。

  • これからの時代を生きる人達や、為政者、行政に携わる人達に、読んでもらいたい一冊。
    なぜグローバルでなくローカルなのか。新たな思考の一面を得られると思う。

  • 課題用。やっぱり内田先生の書いてることは「ふむふむ」って思う。

  • p.274 資本主義市場経済での企業活動が「大量生産・大量流通・大量消費・大量廃棄」という「成長と人口増」を自明の前提としたモデルである以上、つまり、「人口減」という局面をまったく想定していない以上、人口減があるレベルを超えた時点で、システムそのものが大きく崩れることは避けがたい。
    ☆定常状態といえども、常にエネルギー流入を必要とする。定常成長モデルとは言えないだろうか。

  • 普段は小説ばかり読んでいるので、たまには違うものをと思い手に取って見た一冊。いわゆる都会から田舎暮らしを始めようぜ!という本とは異なります。

    元々、流行り廃れよりも自分の気に入ったものを長く使いたい・常に成長を求めるような上昇志向の高い人たちを前にすると疲れてしまう自分には内田さんの提唱する「定常」という考え方は合っていると感じました。

    ・好きだと思った点
    自分たちの集団を構成しているのは、今ここにいる人たちだけではなく死者やこれから生まれて来る後世の人たちも含まれているという考え方

    いわゆる常に成長やランク付けを求め、グローバルに出た自分を誇り、日本に残る人々を嘲笑う人へお皮肉的な目線

  • 非常に有益な本だと感じました。
    以下、自分が特に関心を抱いた場所をピックアップしました。
    1. 「人間の身体が消費の限界」という示唆も誰もが分かっているはずなのに忘れてしまっている(あるいは考えないふりをしている)、それを超えるための金融であり、これまで手に入れたものを全てなかったものにするための兵器であることは自明ですね。全ては資本主義を延命させるための過ぎないということですね。

    2. また「藩を自治体の基礎にするというアイディア」も示唆に富んだ面白いものだと思いました。結局のところヨーロッパのカトリック諸国の行政単位となるコミューンとは違って、日本の廃藩置県ではかなり形式的に行政区が分割されてしまったということなんでしょうね。なので150年たった今も都道府県が地域住民のアイデンティティになり得ていないと。

    あと一応世間的には若者と呼ばれる年齢として(笑)、 「若者の直感」という魅力的なキーワードが頻繁に出てきたのは良かったです。
    大事なところが多過ぎてメモにノートを何ページも使っちゃいました。

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著者プロフィール

1950年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科 卒。東京都立大学大学院博士課程中退。神戸女学 院大学名誉教授。専門はフランス現代思想、映画 論、武道論。主著に『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)、『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)、 『日本辺境論』(新潮新書)など。近著に『レヴィナスの時間論』(新教出版社)、『複雑化の教育論』(東洋館出版社)など多数。

「2022年 『下り坂のニッポンの幸福論』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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