- Amazon.co.jp ・本 (62ページ)
- / ISBN・EAN: 9784907105075
作品紹介・あらすじ
1927年にバタイユが書き起こした小テクスト『太陽肛門』は冒頭で、あらゆる事物は他の事物のパロディであると謳う。
火山は地球の肛門であり、太陽の光輪は太陽自身の肛門である。ベルクソンの影響があり、笑いによる脱自を意識したバタイユは、卑猥で反道徳的な言葉を用いながら愚直に多様な事物を結合し、豊かな世界の創造を目指す。
『眼球譚』とともにバタイユを代表する異端の作品。1931年発行。
感想・レビュー・書評
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筆者は頭が可笑しいが統合失調症のようなエロスから世界を理解し、太陽の光を男根としたり、事物をパロディー化しながら、世界を考察する著者の試みはかなり面白いと思う。
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本を読む気力を取り戻したくて、60ページしかない(本編に至っては20ページのみ)この本を読もうと思った。まだ半分程度しか理解できてないので、評価は3にしておく。
20ページと言っても、文字は大きく、ページの下の方に酒井さんの訳注があるので、実質10ページほどの小作品だろう。論文よりも詩に近く、その輪郭は曖昧だ。
バタイユが生きたフランスは近代化の真っ只中で、「役に立つ」ことに価値が置かれていた。一方で、幼い頃からバタイユの傍には、全盲で下半身不自由の、「役に立たない」父親が居続けた。当時こそそんな父親に嫌悪感を持っていたが、後に近代化の暗部を見て、「役に立たない」ことの意義を知るようになった、という流れは面白い。バタイユの著作に頻繁に登場する排泄物のイメージは、「役に立たない」もののメタファーだが、下半身不自由で垂れ流しだった父親から直接的に得たイメージでもある。
酒井さん解説の「広い視点に立てば、私たちここの存在は外部のものの通過点にすぎない。この通過点を通るの、外のものは別のものに成り変わる。早い話「暖かいウンチ」になる。このように別様に変化するのは、私たちが生きているからにほかならない。この「別のもの」は生命の証なのだ。外の世界と私たちの内部の生命の合作なのである」という一説が好きだ。私が惹かれるバタイユや、ニーチェ、ドゥルーズ、リンギスなどに共通するのは、「生命」もしくは「変身」「交接」について語っている点だと分かった。
バタイユは「AはBである(A=B)」のAとBが異種の場合、AがBのパロディということになり、AはBを愛し、合体したいという図になると解釈した。パロディとは、既存のものを笑いながら更新していく表現形式であるので、ここでは、パロディであるAが、笑い飛ばしたBをまた愛そうとする矛盾が生まれている。パロディのAによってBは既存のイメージから解放され、そのパロディを追い越す。そして、また新しいパロディを生み出していく。パロディに笑われ続けながらも、そのパロディを愛してやまない、そんなBの理不尽さに、Aは惚れ込む。それゆえ、Aは以前笑い飛ばしたBをまた愛する。
本作は、ベルクソンの『笑い』や、ニーチェのパロディ論に影響を受けているそうなので、一読したいと思う。 -
酒井さんの解説ありき。
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「『太陽肛門』の根底には西洋の文化史、哲学史が踏まえられている。作者の個人史からくる、抑えようのない主題も仄見える。私に言わせれば、泣けてくるような愚直さが行間から溢れ出ている。いい歳をした大人になってもまだこんなことを語る、痛ましいほどの正直さ」(p.27、訳者解題より)
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あのバンド名の由来はこれだったのかと勇んで読んではみたものの、スパパーンとは理解できなかったのでした。20ページ足らずの本文に解題はその倍、それがなかったら太刀打ちできなかった。ちょっと寝かしてまた読もう。円環とピストンのイメージは伝わった。見返しにSピストルズの写真。
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