ゲンロン0 観光客の哲学

著者 :
  • 株式会社ゲンロン
4.13
  • (56)
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  • (4)
  • (5)
本棚登録 : 648
レビュー : 42
  • Amazon.co.jp ・本 (326ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784907188207

作品紹介・あらすじ

否定神学的マルチチュードから郵便的マルチチュードへ――。ナショナリズムが猛威を振るい、グローバリズムが世界を覆う時代、新しい政治思想の足がかりはどこにあるのか。ルソー、ローティ、ネグリ、ドストエフスキー、ネットワーク理論を自在に横断し、ヘーゲルのパラダイムを乗り越える。著者20年の集大成、東思想の新展開を告げる渾身の書き下ろし新著。

感想・レビュー・書評

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  • 不思議な本である。そして同時に傑作である。

    本書のテーマは重い。極めて重い。今の世界が直面する困難の構造を析出し、それを突破する主体を構想する。それが本書の目的である。ところが、その重すぎるテーマを前にして本書の叙述スタイルはなんだかとっても妙だ。文章はわかりやす過ぎるほどに明快であり、哲学書・思想書にありがちな晦渋さとは無縁。随分くだけた表現もあり、場違いなほど俗っぽい物言いに思わず吹き出してしまうこともしばしばだった(とはいえ、これは東の話術=トークにおいてはおなじみのものだが)。もともと著者・東は複雑なものをシンプルに整理して提示する達人だが、本書ではその技術がいよいよ究められつつあるように感じられる。

    全体の構成も面白い。本書は二部構成で、第1部ではまず今の世界のありようを描き、それに抵抗する主体として観光客=郵便的マルチチュードなる概念が提示される。この新しい主体のアイデンティティの在り処を探るのが第2部となる。詳細については実際に読んでもらえればいいのだが、東は上記のストーリーを描き出すために多様なモチーフを呼び出している。観光学や政治哲学を参照して記述する第3章あたりまではいいとして、第4章以降はネットワーク理論に情報社会論(サイバースペース論)にドストエフスキー論と怒涛の展開である。さらに第1章のあとに挿入される付論では東の過去の仕事であるオタク論および福島第一原発観光地化計画についても言及され、本書との接続が図られている。このような混淆性により、本書を読むことそれ自体が一種の知的観光となっている。まさに構成の妙と言えよう。

    以上のような独特の叙述スタイルは、課せられたテーマの深刻さにもかかわらず、本書をさわやかで風通しのよいものとしている。この「まじめ」と「ふまじめ」の同居こそ、本書の不思議な印象の正体だろう。

    内容については下手な要約をするより実際に読んでもらうのが一番だと思う。大変刺激的な議論である。第2・3章の近現代政治哲学の鮮やかすぎる整理は大変勉強になった。第4章で試みられる社会思想とネットワーク理論の接続は驚くべきアイデアであり、今後賛否両論を呼ぶことになるだろう。第6章は東の初期の仕事であるサイバースペース論のアップデート。第7章(最終章)のドストエフスキー論は感動的ですらある。

    ついでに言うと、本書は「東浩紀による東浩紀入門」としても読むことができる。前述した「多様なテーマ」とは、つまりは東が過去に取り組んできた仕事の集積であり、それを「観光客」というパースペクティブから再構成し、そこに新しいアイデアを加えてできたのが本書ということになるだろう。これまで東浩紀の最初の一冊は『動物化するポストモダン』か『弱いつながり』あたりだったのかもしれないが、これからは間違いなく本書となるはずだ。入門したところから一気に最前線まで連れていってくれるのだから贅沢なものである。

  • 東浩紀は『弱いつながり』以来2冊目だったので、弱い~の続編的な目線で読んだ。2017年の人文書としてはかなり読まれた1冊で、目を通してみると著者の熱量がうかがえる。わかりやすく丁寧な文体で書かれながらも、今の時代を憂い行動を起こそうというような焦りを感じる。これがゲンロンカフェなどを精力的に展開しようとする東の原動力であるかと思うと、納得がいく。言論人として、批評家としての世界とのかかわり方。こうした人と人の撹拌の意図は本書でいう「誤配」だろう。

    本書のテーマは「観光客」。国民ではなく、旅人でもなく、観光客。国民国家と帝国という今までの社会論では二項対立的に語られていた概念が、政治と経済、コミュニタリアニズムとグローバリズム、社会と個人というそれぞれの文脈に分化されながらも、溶け合ってしまっているのが現代である。そのような時代においては、ヘーゲルが言うような個人→家庭→社会→国家という単線的な発展の図式は意味をなさなくなっている。だからこそ国家に閉じられた存在としての「国民」ではなく、どこにも根をもたない「旅人」でもなく、国家の住民でありながらも、自由に異国を訪れる「韓国客」としてのふるまいに可能性を見つけている。観光客は、同じものを見ても住民が見つめるようにその景色を見つめることはない。観光客のまなざしは「偶然」に照らされたまなざしである。文化や言語の伝統的な文脈を通じてその景色を見るのではなく、偶然に「誤配された存在として」その景色に出会い、目撃するのである。そのような既存の世界を再解釈するまなざしに、次の時代の可能性があるのではないかと著者は訴える。

    とても面白く読んだ。


    18.1.19

  • 何これ最悪。何が言いたいのかさっぱり分からない。

  • 貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
    http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784907188207

  • 2018/07/14 購入

  • よくわからんかったけどおもしろく読み進められた。

  • 内容は難しいのだけれど、「そうか!」と視界が開ける瞬間が多々ある。著者はたくさんの文献にあたってそれらをきちんと把握し、その延長線上にこれまでの著者自身の思索との結晶として、この哲学を出現させている。とはいえ、延長線上でありながら、その行き詰まりゆえにオルタナティブなものになっています。持続的イノベーションとして行き着いた哲学ではなく、オルタナティブであり、従来の価値観、ヒエラルキーを壊す、破壊的イノべーションになりうる萌芽としての哲学でしょうか。誤配がおこる、観光客をイメージした生き方が、ナショナリズムやグローバリズムに板挟みになった世界で、自分を分裂させず、保ち、そして連帯を生む生き方になるのではないかというのが、一番の筋だったでしょうか。そのために説き明かしてくれた世界の二層構造、国家と市民社会、政治と経済、思考と欲望。著者は、それを独特の言い方で、「人間と動物」とも表現しています。ここらあたりは、クリアな視点で世界を見つめるのにおもしろい視座でした。また、途中で、ネットワーク理論にも触れています。これは食物連鎖や人間関係を数学的に解明した複雑系の理論なのですが、それを援用することで、これまでの社会思想では見てきていない視界があることを指摘し、ゆえに、これまでの社会思想の欠落部分を捉えなおし、改変できる、可能性の大地を照らしているのを著者は目にとめて、思考に取り入れています。僕の印象だと、著者の哲学は、偶然だとか二層の重なりだとか、量子論の考え方からヒントを得たり類推したりして編んでいるところが、とくに発想面ではけっこうあるのではないかなあという感じがします。著者の小説、『クオンタム・ファミリーズ』だって、名前からしてもう量子論ですし。

  • 【農学部図書館リクエスト購入図書】☆信州大学附属図書館の所蔵はこちらです☆
    http://www-lib.shinshu-u.ac.jp/cgi-bin/opc/opaclinki.cgi?ncid=BB23460816

  • 大衆社会の実現と動物的消費者の出現を「人間ではないもの」の到来と位置付け否定しようとした20世紀哲学。大衆であり労働者であり消費者たる観光客は、公共的役割を担わず歴史にも政治にも関わらず、国境を無視して惑星上を飛び回る、人文思想のまさに敵。

    ことばの定義、文脈における用途からしっかり理解していかないと読めない難しさがありますが、何十年もかけて考え続けた結果でありプロセスなのですから、面白くて当然なのです。

  • "Author mentioned that we were separated in globalism - Libertarian - and nationalism - Communitarianism, and we lost concrete ties in our world. However the miss-delivery which is indicated in this book as "Tourist Philosophy" will be able to re-connect the separated world."

    ・後半のドフトエフスキー論を足がかりにした、「家族の哲学」が一番興味深い。グローバリゼーションによって、「体はつながっているが、頭は別々」に分断されてしまった世界をつなぎ変える=脱構築する可能性として、「家族」が挙げられる。
    ドフトエフスキーの小説における主人公像の変遷(失望したコミュニスト→アナーキスト→リバタリアン→??だったかな)という変遷を参照しつつ、世界をもっかい脱構築するにはどうすべきなのか?を素描する。

    ・ルソーは人間が嫌いだった。人間は他社とつながりたくなどないと思っていた。でも人間は社会を作る、それはなぜかっていうと「憐み」「憐憫」があるからなのだ、という。生まれたての子供が道端に捨てられていたら、それを見捨てることができない、という人間のプリミティブな感情こそが社会を作り上げているのだと言う。

    ・「不気味なもの」とは何だったのか?

    ・『おやすみプンプン』にも似たモチーフがある。プンプンとペガサス。個人主義(≒リバタリアン)と、博愛主義(≒コミュニタリアン)。リバタリアンも、コミュニタリアンも、比喩として死ぬ(というか殺される)。そして、リバタリアンは、血縁でも地縁でもない、まったくの他人との、疑似的な家族関係によって救われる。
    これはきっと、自分の中の神様、あるいは最も信じるものをなくしても、それに似た何かに再接続することで絶望から救われる物語。
    ドフトエフスキー。飼っていた犬は死んだ。その犬はこの世界に一匹しかおらず、他に代わりのないものだ。でも別の犬が、その唯一性を満たすことはなくても、代替することはできる。田中愛子は死んだけど、田中愛子/「自分」って神様がいなくなっても、疑似的な家族に救われてしまう(逆に言うと死ぬことはできない)。
    それを「汚れてしまった」などと嘆くのはばかげている。死ぬ前は単に幼稚だっただけだ。人間は人間が嫌い、でも生きるために神さまを作り上げて、そのために生きるのだと思う。でも神は死んだ。だから多様な現実を引き受け、前に進む(父になる)しかない。それが大人になるってことだわねえ。世界に活かされてた側から、世界を作る側になるんだよ。人間はくだらないし何かの間違い。でもそれに嫌気がさしてあきらめるんなら死ぬしかない。死にたくないなら、「神は死んだ」ことを引き受けて生きるしかない。

    ・クリエイティブ都市論との接続。
    ネットワーク理論によれば、Dotは多い方が多様なネットワークを形成しやすく、したがって人的集積が豊富な都市圏ほど、この「マルチチュード」は成り立つのではないか。
    国家ではなく都市という単位で見れば、縮む日本は都市圏に集中せざるを得ず、都市としては、東京や大阪・名古屋という集積圏は今後も成長を続けるだろう。そしてその時、競争相手は国家ではなく同じ都市圏。
    こういう接続が容易にでき、グローバリスト/ナショナリストではなく、グローバリズムを前提とした都市型の生き方(グローバルエリートとか安っぽい話ではなく、国家ではなく都市が競争単位となったとき、リバタリアンもコミュニタリアンも、双方とも統一され、再接続され、世界はまた、領域国家から都市国家に変貌してくような、そんな気がする

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プロフィール

1971年生まれ。作家、批評家。ゲンロン代表取締役。『存在論的、郵便的』でサントリー学芸賞、『クォンタム・ファミリーズ』で三島賞を受賞。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2.0』他。

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