身体は「わたし」を映す間鏡である なぜ人は「あたりまえに動ける」のか?

  • 和器出版 (2018年11月11日発売)
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本 ・本 (236ページ) / ISBN・EAN: 9784908830143

感想・レビュー・書評

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  • 横田南嶺老師の管長日記で紹介された本。面白そうです^_^

  • 天才は、未来からの記憶に導かれるように、世に立ち表れる。しかし、立ち表れて、すぐに世に理解してもらえるかというと、なかなか難しい。理解されるまでのもどかしい時間の長さを引き受けざるを得ないのが天才の宿命と言える。本書は、まぎれもない天才の出現を感じさせる。しかも、理解されるまでの時間の長さを短縮させる試みに成功している。
    次著が楽しみだ。

  • 書いてあるワークを誰かとやってみたい感じがしました。本に書いてあることの背景の全貌がつかめないのですが、注意の濃淡や間は領域フリーで活用できそう。読みながら連想が膨らむ本です。

  • 人の身体というものは、まことに不可思議なものである。何気ない動作が実は大きな力を発揮していたり、言葉によっていろいろな動きが縛られたり解放されたりする。
    そんな身体の持つ不思議な力を、筆者は「間(ま)」というキーワードでとらえようとした。その探究心がすばらしい。

  • 帯裏
    言霊学研究者 七沢賢治
    私は思うのだが、甲野陽紀氏は身体技法を言葉のシステムとして構築した現代でも稀な人物ではないだろうか。しかも、そのシステムは、だれにも納得できる明確な体系として示されている。
    ◆氏は「身体」と「わたし」という客体と主体の関係性の中に、「間」を発見したという。それは、公案に例えれば、言霊五十音の「ま」の言霊を解いたということであろう。
    ◆まるで、闇に刻印された言葉が、そのまま光となる“魔鏡”のように、「ま」の言霊を解いたとき、いわば真言としての言葉が身体に立ち現れたのである。
    ◆それは、「わたし」が「身体」の中に「多」すなわち社会性を自覚した瞬間でもあった。
    ◆人類という普遍から俯瞰するならすなわちそれは、「人が人間というあり方を発見した瞬間」でもあったはずである。

    見返し
     一つの動かない支え、「ま」というものがあるから、動かせるところを自由自在に動かすことができる。それは私の身体技法用語でいえば、「三動一定」や「上定下動」などでも表現できますが、定があることで動が生まれる。ベースキャンプがあるから動ける、ということです。
     複雑で一筋縄ではいかないのが人生、ともいえますが、その複雑さのすき間に「〈ま〉を発見する」」ことで、巡りの止まっていた気持ちに動きが生まれ、巡りめぐって、それが自分にも周囲にも心地よさを運んでくれることになるのではないでしょうか。(第六話より)

    「ふだんあたりまえにしている身体の動きが変わることは、物事のとらえ方や考え方が変わるきっかけや手がかりにもなることだと思います。本書を参考にしていただけたら幸いです」(甲野陽紀)

  • 自分の経験や知識のみを手掛かりにした言葉はとてもわかりやすかったです。

    著者は武術の技を体現できるわけじゃない、かといって何らかのスポーツや運動に特化したことも出来ないというのは考えようによっては中途半端。

    でも身体技法研究者というのは今までにない職業という立ち位置だから出来る身体の問いかけこそがこの本の良さなんだと思います。

    今後、著者がどのような方向に進んでいくのが楽しみです。

  • あがり症の人が読むといい本。

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