- Amazon.co.jp ・本 (376ページ)
- / ISBN・EAN: 9784909542311
作品紹介・あらすじ
ヨーロッパやアジア各国で翻訳される話題のアメリカ図書賞、PEN/ヘミングウェイ賞受賞作。現代アメリカ先住民文学の最前線にして最高傑作! 待望の日本語訳
カリフォルニア州オークランドに生きる「都市インディアン」たちの物語。オークランド初のパウワウが開催され、会場となるコロシアムには地元からも全米各地からも多くの人々が集う。Youtubeで踊りを覚えた少年オーヴィルと彼の家族。パウワウ実行委員のブルーやエドウィン。ドラムを鳴らし歌うトマス。管理員のビル。伯父の遺志を継ぐ映像作家ディーン。そして賞金50000ドルを狙うオクタヴィオたちと、トニー。それぞれの人生が交差するとき、コロシアムは銃声と静寂に包まれる。ヨーロッパやアジア各国で翻訳される話題のアメリカ図書賞、PEN/ヘミングウェイ賞受賞作。
感想・レビュー・書評
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現代アメリカの都市インディアンたちの物語。
小説としての書き方が、章によって目線となる人物が代わり繋いでいき、ラストで合流するというのもの。たまたまここ数年で、こんな感じの形式の海外文学に数冊読んだんだけど流行ってるんだろうか。神の目線で全体を語るのではなくて一人ひとりが自分の物語を進むというか、多様性文学?って感じ?
冒頭には、現在アメリカでインディアンのイメージがどんな風に伝わっているかが書かれるのだが、切られた首、蹴られた首などなんとも不穏な印象だ。
登場してくるインディアンたちも問題を抱えている。
彼らは州のインディアン・センターに登録し、生活保護を受けたり、事業のための助成金をもらったりする。
部族の土地から何世代も前に都市に移っているので、自分のルーツが何族なのか、どのくらいインディアンなのか、教わったまじないや祈りの本当の意味はなんなのか、もう自分自身でもわからなくなっている。
<わたしたちはインディアンでありネイティブアメリカンで、アメリカインディアンでありネイティブアメリカンインディアンで、ノースアメリカンインディアンであり、ネイティブで、NDNでありインディアンで、ステイタスインディアンでありノンステイタスインディアン、ファーストネーションインディアン、とてもインディアンらしいインディアンで、毎日毎日そのことについて考えるものもいるし、そんな事全く考えないものもいる、わたしたちは都市インディアンであり現住インディアンで、保留地インディアンであり、メキシコや中米や南米のインディオである。わたちたちはアラスカのネイティブインディアンで、ネイティブハワイアンで、ヨーロッパへ渡ったインディアンで、血統規定によれば八つの異なる部族後を引くインディアンで、だから連邦政府にはインディアンと認められていなインディアンである。わたしたちは部族に登録した構成員であり、登録抹消した構成員で、資格のない構成員であり、部族会議の構成員である。わたしたちは古ブラッド、ハーフブリード、四分の一、八分の一、十六分の一、三十二分の一である。P176>
名前も、部族名からアメリカ合衆国に登録するための名字を与えられたが、それらはアメリカの偉人だったり、動物や色の名前だったり、意味のないただの記号となっている(この本の著者はオクラホマ州のシャイアン族とアラパホ族に登録して、「トニー・オレンジ」と色の名字を持っている)
さらに登場人物のそれぞれが、ドラッグ、アルコール中毒、犯罪、暴力、差別、レイプ、誘拐、仕事がない、肥満といった問題を抱えていて、それらの問題が親から子供に引き継がれていくため、里子に出されたり婚外妊娠のため親がわからない子供や、妊娠中の母親のドラッグやアルコールに晒されて胎児性アルコール(ドラッグ)症候群として生まれてくる子供も多い。「行方不明になるインディアン女性がどれだけ多いか知ってるの?」などという台詞もあったり…。
物語の舞台はオークランド(カリフォルニア州)で、ここのインディアン・センターは、「オークランド・ビッグ・パウワウ」というインディアンが集まるフェスティバルを企画している。
ドラック取引をしているトニー・ローンマンはシャイアン族家系で、売人のオクタヴィオ・ゴメスから、3Dプリントで出力したプラスチック拳銃でパウワウの現金を強奪する計画に加えられる。襲撃の一味は、オクタヴィオの手下であるチャールズ、カルロス、カルヴィン。それぞれ暴力や売人で暮らしている。
シャイアン・アラパホ系のディーン・オクセンディーンは、アル中で死んだ伯父ルーカスから都市インディアンのドキュメンタリーフィルム作成を引き継ぎ、パウワウの取材へ向かう。
ジャッキー・レッドフェザーとオーパル・ヴァイオラ・ビクトリア・ベアシールドは、父親の違う姉妹だ。母のヴィッキーはシャイアン系で、男たちの暴力に晒されながらインディアンとして生きているシングルマザー。1969年から始まったインディアンのアルカトラズ島占拠を知り合流する。だがそこでジャッキーは同じ年頃でシャイアン系のハーヴィーという少年の強引な性行為により妊娠する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%BA%E5%B3%B6%E5%8D%A0%E6%8B%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6
エドウィン・ブラックは、引きこもりで肥満で便秘に苦しんでいたが、母親カレンの勧めでインディアン・センターに就職し、パウワウの担当になる。エドウィンは自分の父親を探し、シャイアン系のハーヴィーという男だとわかった。
エドヴィンの母親カレンの今の恋人はラコタ族のビル・デイヴィス。ベトナム戦争から帰り、刺傷事件を起こして服役したが、刑務所の中で読書に没頭した。レイモンド・カーヴァー、フォークナー、ケン・キージー。出所後は野球場の整備員として働いている。この野球場がパウワウの会場となる。
シャイアン系のトマス・フランクは、父親から先祖に関わる虐殺の話を聞かされたことがある。トマスはその父親と同じくアルコール中毒だ。立ち直ろうとして、パウワウにはバンドメンバーとともにドラマーとして参加する。
ブルーはインディアンの母に生後すぐに里子に出された。夫の家族の種族に伝わる祈りの儀式に参加していた。しかし夫は彼女に暴力を振るうようになった。だから身一つで家を出た。
※※※以下ラストネタバレ※※※
このように多くの登場人物の半生が語られるのだが、このなかでジャッキーとオーパル姉妹は実は世代が違う。アルカトラズで過ごしたのは彼女たちが10代の頃で、物語の舞台となるのはその42年後。その間にジャッキーは生まれた娘をすぐ里子に出し、補導歴があり、アルコールに溺れるようになった。その後に生まれた娘は自殺し、その娘には三人の息子がいる。その三人の孫たちはオーパルが育てている。一番年上の孫のオーヴィルは、You Tubeでインディアン文化や踊りを知り、パウワウに参加することにした。
ジャッキーは自分を妊娠させたハーヴィーと42年ぶりに再会しともにパウワウに向かう。そこで妹のオーパルとも久しぶりに会うはずだった。さらに、ハーヴィーとエドウィン父息子、ジャッキーとハーヴィーとブルーの両親と娘の初対面の場になるはずだった。
しかし冒頭から予告されていた通り、このパウワウではオクタヴィオ・ゴメスと手下たちによる銃撃が始まり、仲間割れも導き大乱射事件へとなだれ込む。
お話としての終わり方はかなり中途半端…というか、射たれた何人かが生死不明のままだったり、ジャッキーとハーヴィーを中心としたいくつかの再会劇はその後どうなったんだ!?ということも明かされない。
<もしあの子が切り抜けられなければ、あたしたち誰もここからやり直せない。大丈夫なものはなにもない。P351>えええー気になるーーーー。
題名の「ゼアゼア(There There)」は、オークランド出身の詩人で美術収集家のガートルード・スタインが、すっかり変わったオークランドを見て「そこにはそこがない(There is no There There)」と言ったことから。<それこそ先住民の人たちに起こったことだ。P52>という意味でもある。
あとがきで、最後の乱射事件はそれまでインディアンたちに向けられた暴力や差別やを象徴している…ということなので、このぶった切り終わり方も、都市インディアンの問題はずっと続くということを表しているのか…。
襲撃者のオクタヴィオ・ゴメスたちにも物語はある。そしてオクタヴィオを育てた祖母が語る。
<これはみんなそういう風にできているんだ。あんたに分かるようにできちゃいない。完全にはわかんないんだ。そうやって物事はなるようになるんだよ。あたしらにはわからない。だからあたしらは進み続ける。P235>詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
過去の白人入植者に迫害を受け虐殺されたネイティブアメリカンたちの歴史的背景を理解しつつも、そういった歴史との関係が世代とともに薄れて、自分のアイデンティティがどのくらいインディアンなのか、迷いながら生きる現代の都市インディアンたちの物語です。
貧困、恵まれない家庭環境、アルコール中毒や肥満などの健康問題、社会的に弱い立場の人たちが抱える問題が浮き彫りになっています。
異なる文化が出会った時、そこで暴力的な「融合」が強いられると、元々の文化から新しい時代へのトランジションがうまくいかず、のちの世代まで大きな禍根と問題を残すのかと思いました。 -
第四部はまるでスローモーションだった。冒頭とラストが呼応して激しく響き渡る。圧倒的迫力。
”インディアン””ネイティブ・アメリカン”と言えばつい狩猟やテントや保護区や独自のダンスなどのいかにもなイメージを抱いてしまいがちだけれど、なるほど現代の経済や文化の中で”都市インディアン”として生活しているわけだよね。イメージの”インディアン”はどこにもあってどこにもない。
それは”インディアン”に限らず、どこの国でもどの民族でも、日本でも日本の中のどこかの地方でも同じだよね。
そういえば作中に出てきたけれど、しばらく棚で眠らせていたルイーズ・アードリックも読み返してみようかな。 -
登場人物が多くて、誰が誰やら……となったところで役に立つ人物相関図!ありがてぇ〜
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読了。
「都市インディアン」という言葉も、シャイアン族も、「胎児性アルコールシンドローム」も、MF Doomも、パウワウも、3Dプリントで銃を複製できてしまうことも初めて知った。
日本に生まれ、両親とも日本人で、日本人としての「ふつう」に慣れ親しんで暮らしてきた。自分たちがどこから来たかなんて、そんなの疑う余地も必要性も感じない。
「人は歴史に囚われ、歴史は人に囚われている。」(ジェームズ・ボールドウィン)
生まれる前のこと、もっともっと昔の祖先の物語なんて、正直どうだっていい。誰かの大昔の物語を背負わされるなんて、まっぴらだし、子どもたちにもそんなことさせたくない。
「今」ここにいる。それだけじゃだめなの?
そう思うのは、自分が置かれているこの現状に何ら不満がなくて、恵まれているからこそなのかもしれない。傲慢かもしれないと気づいた。
ゼア・ゼアの登場人物たちのように、出自が不明確だったり、依存症や肥満や困窮で喘いでいたら、どうして自分がこんな目に遭わなくちゃいけないのか、過去に原因や拠り所を求めたくなるのかもしれない。
本編と相関図を行ったり来たりしなくてはいけないし、誰かに感情移入することも難しくて決して読みやすい訳ではないのに、読む手が止まらなかった。 -
まだ途中だが、気になったので。一人称と三人称がごっちゃになっていて非常にわかりにくい。翻訳あるいは校閲ミスだろうか。原文がどうなっているのか不明だが、あえてごちゃまぜにしているとも思えない。
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カリフォルニア州オークランドに生きる「都市インディアン」たちの物語。
存在しなかったことにされたインディアン。
自分たちの歴史を知識では知っているが、世代を経て体験としては薄れていく。
アイデンティティとはなにか、考えさせられる。