贈与と共生の経済倫理学――ポランニーで読み解く金子美登の実践と「お礼制」

著者 :
  • ヘウレーカ
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レビュー : 3
  • Amazon.co.jp ・本 (400ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784909753014

作品紹介・あらすじ

有機農業の里として知られる埼玉県小川町の有機農業者、金子美登氏が始めた「お礼制」。消費者に農作物を贈与し、消費者は各々の「こころざし」に基づいてお礼をするこの仕組みは金子や地域にどのような影響を及ぼし、どんな意義があるのかを調査対象者の詳細なライフストーリーをもとに分析。さらにこの仕組みが秘めた可能性をカール・ポランニー、玉野井芳郎、イリイチ等の議論を参照しながら解明する。経済効率だけが追い求められる新自由主義社会において、信頼とは、責任とは、自由とは、共に生きるとは何かを問う意欲作。

哲学者・内山節氏はこう評する。「有機農業によって自然と和解し、価格をつけない流通を成立させることによって貨幣の呪縛から自由になる。それを実現させた一人の農民の営みを見ながら、本書は人間が自由に生きるための根源的な課題を提示している」。

感想・レビュー・書評

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  • 本著を通して得た知見、起こって来た感慨というのは、本来的な「労働」というものは、「理の追求」であり、「世界」を創造していくこと、そのものであったのではなかろうかというものであった。おそらくこれら「理の追求」「世界の創造」としての「労働」こそが、われわれの生きる世界を豊饒化させるという意味で、我々の「文化」を育てるということにつながるのではないだろうか。「文化的な生活」というのは、何も「ワインを飲むこと」ではないし、退屈をしのぐために「読書」をする、「芸術鑑賞」をすることなどでは決してない。おそらく「文化」とは、「人間」が「一生命体」として全き「生成発展」を遂げていくための「地盤」のことであり、「文化的な生活」というのは、そうした「生成発展」に向けての、自然、社会、他者との絶え間ない「交渉」「応答」のプロセスそれ自体なのではないだろうか。そしてそのプロセスの形成に際して人間に希求される唯一の行為こそが「労働」なのではないかと私は思う。こうした《格闘としての労働》こそが、「文化」を作っていく、人間が生命体たりえる基盤を形成していく。

    資本主義下での生存を死守するために、市場経済において流通するための「もの」なり「サービス」を作り出し、維持する、そうして貨幣を獲得するというのが現在の多くの「仕事」となっているのならば、そこでは「貨幣に変換できるものを作り出す」ことが、まずもっての優先事項となっており、そこに個人の知覚やこだわりが反映される余地はない、言い換えるならば「世界」が抹消されている。そこにはおそらく「生成発展」はない、そこから「文化」が育つことはないと言い切って良いのだろう。これは、『経済価値の社会学』の著者の渡植彦太郎が、「技術知(近代)」と「技能知(近代以前)」の比較において明らかにしたところと近接する議論となる。


    少し話がそれてしまったが、本著において、論じられている「経済」というのは、空想的・幻想的に貼り付けられ、比較検討される「価格」を中心に展開される市場経済からの離脱、その離脱を経て、個々人が「世界を育てる行為」へと立ちもどる、つまり「理の追求」としての「労働」にたちもどった時に現れ、形成されてきた「関係性=縁」そのものであると言ってよい。経済というのは「関係性=縁」のことなのであった。「出来上がるもの(例えば野菜)」は、「世界の創造」及び「理の追求」の過程の中で、「結果として」できあがるものであり、優先されているのはあくまでも「生への態度」である。つまり「市場」という幻想空間における「貨幣化」を前提にした「商品」を制作しているのはなく、「理の追求」として、個人の知覚やこだわりを貫いて出来上がった「もの」がまずあり、その「もの」が、誰かにとっての「世界を育てるもの」として、特定の関係性の中で、享受されるということ。そこに「貨幣」のやりとりがなさされているというだけに過ぎない。

    この記述をもう少し発展させていけば、そこでの「貨幣」とは、結局は、「理の追求」としての「労働」を継続させていくための、即ち一生命体としての「生成発展」を遂げていくための、「基盤」として、機能しているのだということが類推される。また、その貨幣を支払う側にとっても、「貨幣」を渡すことで、かなりの比重として、そうした「理の追求」としての「労働」が、成立するような「基盤」を一緒に作り上げたいという「想い」が、確かに込められているだろう。こうした「関係性」の中での「貨幣」は、おそらくは「文化」を作り上げることになるのだと思った。

    内山節さんは「半商品」ということをしきりにおっしゃっているけれど、これからの「経済」には、もっと「個人的な感覚」が介入してよいと思う。というのか、本来は「市場(しじょう)」が発展してくる前までの「経済」はもっと対面的で、個人的なものだったのだと思う。双方が「これでOK」といえばそれで成立するという世界だったのだと類推する。おそらく「市場」における「価格」というものは、本来は全くそこに客観的がない「捏造された客観性」を基に設定されていて、我々はそうした「捏造された客観性」にあまりに飼いならされているのではないだろうか。そうした「捏造された客観性」、つまり「一般解」としての「消費行為」や「貨幣と商品の交換」から離脱する部分がもっとあっても良いと思う。

    ★「生命」をわかちあう関係としてのやりとり、それこそが「もろとも」ということなのだろう。彼の「生命」の「労働」がなくなれば、自分の「生命」もなくなるという、そういう次元の関係性。いわゆる「無為の共同体」ともいえるのかなと思う。


    ★農業で生計をたてることを目的かすると、本来の脳のもっている「全体性」「あそび」が消失する。彼はそれを放棄して、あくまでも「農的労働」としてのそれによりて「生」をうちたてていった。
    →このあたりは渡植さんの議論の近い。その人の「時間」によってつくられている「もの」であることを優先させている。

    ★ここでの市場原理とは異なる原理での御礼制での如きは言い換えれば、「市場」や「工業」の放棄だと思う。農を工業として市場原理的にやっていくことの放棄。捨て身の姿勢。

    ★貨幣は、本来は、「その人の生命発展」を応援するための手段だったんだと思うし、結果として、それで担保される労働者の「生命」によって、自分の「生命」が担保されるという「もろとも」が成立していた

    ★経済とは理に生きようとするものが、その生存の継続に際し不可避的に出会う関係性のことであろう。その関係性の維持はそのまま、両者の「生命」をより高次に生成させていくための「場」となる。

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    〇以下引用

    その他者の「顔」「声」に対して私たちの側には本来的に応じる自由も、または応じない自由さえも洗濯することが許されているにもかかわらず、その「顔」は私たちに「命令」をし、その声の主はそこに存在するだけで「べし」と要求してくる


    私達が他者との関係性において担う責任は、私たちの側の自由を損なうものではない。つまり私たちの自由を制限するものでもない、それどころか、私の自由を責任へと呼び戻し、私の自由を生み出すものとなるという。

    このレヴィナスが概念化した「顔」、つまり絶対的な他者の存在とその関係における責任のありかお参照して理解することができるだろう

    国からの殺処分の指示にもかかわらず、牛を飼い続けた彼には「殺さないでくれ」と訴える牛たちの「顔」がそして、「声」が生かすことを命じたように感じたのかもしれない


    設けることを人生最大の目的そて、倫理的、社会的、人間的な営為を軽んじる生きざまを良しとする考え方こそが市場原理主義である。

    「御礼制」に切り替えたことで精神的に安定し、百姓として人間的に解放されたみたい

    自ら作った農産物に値付けするという主体的な農民としての行為を放棄してしまったかのようにも見える「お礼制」であるが、切り替えたのちになぜ、百姓として人間的に解放されたと感じたのか


    牛という動物に対峙するときに、自らはどのような人間であるべきなのかを牛によって問われていると感じていた。その牛たちを世話する仕事、その牛の乳を現金化するという酪農は、牛とのかかわりのうえに成り立つなりわいであると同時に、人間としていかにあるべきかを牛によって日々問われているような仕事


    形態としては商取引であっても、旦那の遊び心にみられるように、心性が贈与に近いものがある一方、贈与であっても限りなく交換に近いものもある。

    尾崎は、金子からの野菜は、初期においては子どもたちだけのための量しかなかったために、他の物は、近所の別の店などから調達し、普通に購入していた。その意味では、金子の農場から届いたものだけですべてが賄われているわけではない。

    最初は、子どもに安全な食べ物を食べさせたい、それだけは他人任せにしたくないという母としての必死な想いから飛び込んだ関係であったが、この関係は、単に安全な食べ物が手に入るということだけではなく、シングルマザーとして生きていく、自らの生活を根底のところで、精神的にも支えていくつきあいになっていたことがわかる

    値段交渉は金子の「再生産可能な価格」という説明を聞いて、それをそのまま受け入れて「言い値で買った」という中山の言葉が示すように、単なる商取引とは違う意味合いを付して「言い値で買った」という

    単なる自らの生損戦略として有機米を取り入れて、金子を利用したといったような関係ではなく、自らの商いの中においても、自己の存在意義、生きがいというものになっていった

    むしろ「お礼制」に見られるような非市場的領域を生活の中に確保し、位置付けておかないと、人は恐怖と競争の中で苦しみ、貨幣経済に支配され、そのメカニズムに巻き込まれ、生の隅々までが単一のシステムによって覆いつくされてしまいかねない。その結果、自らの生存のためには、否が応でも、自らの意志に関係なく、他者に対して、非倫理的にふるまわざるを得なくなるように追い込まれていく

    「市場」はこうした関係性の切り離しが行われる場所であり、強い地縁・血縁の中に生きた時代の人々にとっては、開放感を味わえる場所となる。

    伝統的な共同体の密度の濃い関係性の中に深く根差した人間関係、社会経済関係にいた人々にとって、市の存在は常に人々が互いの人生や暮らしのすべてを把握でき、そして干渉し合うような共同体のしがらみから、一時的に解放してくれる「自由」を意味したであろうことは、容易に理解できる

    こうした交換か贈与か、市場か非市場かという議論は、その両方の極のバランスをとることの必要性を教えてくれるだろう


    このように見て来ると、私たちが生きる現実の世界には、贈与か、交換か、市場的世界か、非市場的世界かは、決して二者択一ではなく、その両方が重なり合いながら営まれており、そしてその両方が必要不可欠であることがわかるだろう
    →「匿名」と「個別」ということかな。

    贈与(非市場)が交換(市場)に対する対抗概念と単純に言えない。贈与行為を反復し、継続していけば、それは次第に固定化され、また人々の姿勢や意識の上でも厳密な計算に近い等価交換に近いものになっていったりする。


    贈与と交換の両者の間には、商取引がどれほど贈与に近づいても、またその逆であってもそこには譲れぬ一線が
    ある

    たとえそこに貨幣が介在しているとしても、非市場的な価値や要素を保持しながら関係性が営まれているといえる

    昭和の初めに生きた人々の労働観では、まごつきや遊び仕事を主労働よりも低いものとみることがない。家事労働も一段低いものとみなされているのは、こうした労働観の変化にもよるだろう。「発展」や「成長」を合言葉に、経済合理性を規範とする社会においては「遊び仕事」といった場合には不真面目な仕事ぶるを示し「まごつく」とはまごまごすることであり要領を得ないことを表現しているように、どこかマイナーなイメージがある。


    驚くほど自由で柔軟な境地が実現するのである。そういう意味での自由の極致ともいえる、人間の精神がほんとうにのびのびと自然の中で遊んでいる世界

    労働が、遊びと分けられ、レジャーとして切り分けられていく過程は、労働の質そのものの変化、フォーディズムに象徴されるような近代的工場労働がもたらした労働の在り方と関係している

    フォーディズムに象徴されるような近代的工場労働がもたらした労働の在り方は工場のラインで、機械の一部のように働く労働を続けると、別途レジャーを用意し、工場的労働とのバランスを取らなくてはならない。

    ★★有機農業はそこでの仕事と遊びがいっしょであるということだと思います。自分の生活のために豊かに自給する遊び、趣味が人様のためにもなる。
    →これも渡植さんの議論、「使用価値」の話に絡んでくる。


    農作業は、たぶんに、自然との掛け合いの楽しさやおかしみを含んだ営みであるが、農を市場原理にしたがって経営することにする瞬間に、農はその自然との関係性の中に内在する遊びの要素を失い、自然を貨幣価値で換算するようになる。

    (御礼制にすることで)農的労働の意味を回復した。さらに自らの生存を支えている自然に対する責任を担う自由を得た→解放

    市場原理とは異なる原理で結ばれた

    農産物の一般市場価格には相場があり、その価格は資本主義社会において労働者がその農産物を日々の糧として消費し、自らの労働を再生産できる価格に設定されている。


    大豆が市場で出回るためには、現行のシステムにおいては国の補助金などによる調整がされて350円となっている。

    市場によって合理性を与えられた価格ではなく、双方の習慣化された価格や、文化的な交通の中で双方の同意できる価格のこと。それは結局、消費者が支払う農家を支えるのにふさわしい代価にならざるをえない

    価格とは決して商品の属性ではなく、商品生産者間の間に取り結ばれた関係である


    値段のことも気にしないで、のびのびと打ち込めるようになるという開放感

    消費者が一般のスーパーや八百屋での市場価格と比較し、自分たちが受け取った野菜が「安すぎる、高すぎる」という相対的評価、指標を課してきてことに金子は苦しさを覚えてゐた

    まず精神的に安定しました。とにかく、いいものを作って自分の家族だけじゃなく10軒の消費者に届ければいいわけですから。

    農産物の価格については、現在の労働市場の貨幣価値と比較してしまうと、その労働力とは不均衡であるという感覚がつきまとう。その作業に費やされた労働力や神経を貨幣換算することの空しさというニュアンスが込められている。その裏には日々の細かな労働がイメージされるのに、一般市場の物価などに照合され貨幣換算してしまうと、気分的に「嫌になる」

    あくまでも農作業は楽しい仕事であり、工業化社会の価値観のように、1日の労働時間がどうのとか、生産に費やす時間がどうのとか、がたまらなくつまらないものに見える

    たとえ金子自身が市場価格を意識していなかったといても、消費者は市場の価格システムと基準とし、それとの比較で金子の農産物を値踏みしていた、そのことが苦痛の元、縛りとなっていた

    相対的価値と絶対的価値。
    自分が大切にしていて値段がつけられないものにもともとそなわっているおのと、あるものを他のものとひっかうすることで導き出すもの



    自らの命の延長でもある農産物を常時、市場価格と比較しながら農作業を営むことの苦痛からの解放

    自らの自発的な想いと意志により、農作業を営む。そしてそれを正当に、まっとうに評価してもらえる人に贈与する。その時に自分の労働や自分の成果物に「価格」を自らも他者からもつけることはない。貨幣換算された市場の価値システムによる価値づけから束縛を受けない。

    生産者と消費者がそれぞれに自らの意志で相手に働きかけていった

    農民と消費者の関係性はどこか敵対的で不信がつきまとう

    信頼とは一種の冒険であり、リスクをおかす行為でもあるからだ。

    消費者を信頼して自らの存在を農産物という媒体にのせて差し出した時に得た自由、そしてその消費者が自分に応答してくれたことへの感謝であったであった

    長期スパンですくなくとも農業は一年を通じてみてほしいという金子の脳的時間間隔を消費者は理解しなかった

    相手に貸しを作ったり、借りを作ったりすることで継続する関係性の在り方。交換は一回限りの行為の中に、計算された同等性と契約を基盤に成立する

    お互いの学び合いがないとだめですね。互いの世界を奥の奥まで見過ぎてもダメ

    相手の家族を知り、互いに理解を深めていくことでより細やかな対応が可能になっていく。そこでの長年の反復運動はさらに信頼を深めることにつながる

    相手の世界を見通せる関係性の中にあり、なおかつ関係性を通して、相手を知っていく、理解していく互いの学習プロセス

    市場原理を否定する、離脱するというよりも、地域の中にある資源や資本、地域の中で循環させる、つまり比較時狭い範囲に埋め戻すことのでもある

    人々は出会う瞬間に注目してみると、興味深いことに、それぞれの生存を賭けた必死の状況にあった時であることが見えて来る

    自分の弱点、弱さ、欠け、不利な状況や条件といったものを、意識しながらそれをどう克服するのかという点に、それぞれがエネルギーを注いでいる、そこに知恵が生み出される。その社会関係の中に、各人の生計、暮らし、生業を成立させる経済が織り込まれている

    各人が互いに調整可能なペースで自分たちの体力に見合った別の小さな縄跳びを作り出している

    もろともとは、言い換えれば別個のものが「つながりあい」「重なり合う」状態を示しており、異なるものが融解し一つの物質のようになっている状態を表している。
    決してまじりあう事のないもの同士が、その交じり合わない状態のまま、しかし必要とされる者同士が「いかに共存するのか」ということを意味している

  • →word
    「等身大」

  • 面白かった!!
    贈与論がもろともなお礼制として日本にも根付いているとは。
    理論が実例に基づきしっかりと血肉になっていた。
    小説でいうなら表面名前だけのキャラではなく、しっかり人物を掘り下げて血肉がついている感じ。
    もっとちゃんと読み込みたい、読み込まないとと思うくらい素晴らしいと思った。これはいい本だよと誰かに教えたい気分。
    もっとこの方の論文を拝読したいのだが……。

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著者プロフィール

1975年12月7日横浜生まれ。2001年3月津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業、2011年3月立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科博士前期課程修了(異文化コミュニケーション学修士)、2017年9月東京大学大学院新領域創成科学研究科博士後期課程修了(環境学博士)。

「2019年 『贈与と共生の経済倫理学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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