世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学

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  • NewsPicksパブリッシング
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  • / ISBN・EAN: 9784910063058

作品紹介・あらすじ

2020年最有望の若き哲学者、「希望」のデビュー作
一見当たり前に存在しているこの「世界」の成り立ちを、「贈与」や「言語」、「常識」の成り立ちを通して説き起こした鮮烈なデビュー作。人間の「こころ」の力動の機微をとらえる近内さんのセンスには肌の温かさと機械の精緻さがある。ウィトゲンシュタインと小松左京の本書を通しての出会いは思考世界における一つの「事件」。社会の見え方を一変させ、前向きに生きるために、この本を処方せよ!
―――茂木健一郎(脳科学者)

感想・レビュー・書評

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  • 1冊の書に学ぶ 観光業界人の本棚から | トラベルジャーナル
    https://bit.ly/3mDrkWc

    世界は贈与でできている 〜哲学研究者 近内悠太さんインタビュー | 一般財団法人 Next Wisdom Foundation ネクストウィズダムファウンデーション
    https://nextwisdom.org/article/4195/

    世界は贈与でできている NewsPicks パブリッシング
    https://publishing.newspicks.com/books/9784910063058

  • 「贈与」。その意味を考えてみると、先日読んだ「利他」と同じく、捉えにくいところがある。

    言葉の意味を捕まえる試みは、相変わらず難しいが、それぞれの解釈の混ざり合いが、正しく輪郭を形作る気がして、先日読んだ『利他とは何か』に重ね合わせながら読んだ。


    この本では、贈与を、対極にある「交換」という考え方を分解していくことで、捉え直しているところが、おもしろい。

    贈与は、何気ない日常に溢れているが、それに気づくことができず、ないものねだりをしつづける私たち。

    見えないものに気づくにはどうすればよいのか。
    そのヒントをこの本で得られた気がします。


    本書の中で、いくつも重要だと思ったことはありましたが、あとがきの、
    『文章を書いて、自分がからっぽだ、って思わなかったら嘘だよ』
    という言葉は、本を閉じた後も、心に響きつづけました。

  • 学生時代、モースの贈与論を面白く読んだ。本書はこのオーソドックスなテーマを、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム、サブカル等と絡めながら解説していく。巻末の参考文献はほとんど一般書であり、根拠として引き合いに出されるのが映画や漫画、小説というスタイルは、読みやすくはあるが、賛否あるところだと思う。

    現代の日本は、贈与がやりにくい社会である。贈与は受け手にとって呪いとなり、すぐに交換のレベルにまで引き落とされる。贈与は祈りと想像力で成り立つと著者は言う。かなり平易に噛み砕かれているが、多少なりとも文化人類学を学んだ身としては、贈与ってこんな話だっけと、少し消化不良な思いが残った。

  • 【本書の概要】
    贈与は受け取ることなく開始することはできない。誰かが贈与をしたとき、必ずそれに先立って受けた贈与が存在する。
    贈与に必要なのは差出人の存在ではなく受取人の存在である。差出人不明のプレゼントは存在するが、受取人無しではプレゼントは存在しえない。
    そして、僕らにできることは「知らず知らずのうちに、誰からから贈与を受け取っていたんだ」と気づくことである。同時に、次なる人に贈与のパスを渡すことである。
    そのような贈与によって、僕らは資本主義社会という「等価交換」のシステムのすきまを埋めることができる。健全な資本主義、手触りの温かい資本主義を生きることができる。


    【本書の詳細】
    1 「贈与」についての定義と「送る側と送られる側」の関係
    本書での「贈与」の定義:僕らが必要としているにもかかわらずお金で買うことのできないものおよびその移動

    モノは、自分自身で買えばただの「商品」である。しかし、誰かから送られた瞬間に、この世界にたった1つしかない特別な存在へと変貌する。贈与とは、モノを「モノではないもの」に変換させる創造的行為だ。
    だから僕らは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができない。
    特別な存在へと変貌するのは「送る側」も同様である。
    贈与はときに断られることがある。それは、その相手がこちらと何らかの関係性、つまり「つながり」を持つことを拒否したからだ。だから、プレゼントを受け取ってくれたとき、貰うよりも大きな喜びが生まれることがある。

    贈与はそれに先立つ贈与があり、贈与を生まない贈与は無力である。
    親→子の関係として「無償の愛」という言葉があるが、そのような概念は存在しない。祖父母に育てられた親が子を産み、子が孫を作り育てていく。親はときに「孫を産んで欲しい」と言うが、それは親が祖父母から与えられた贈与が、次の贈与に変換されたときに初めて負い目が相殺されるからだ。
    まとめると、贈与は受け取ることなく開始することはできないのだ。


    2 交換の論理
    「割に合うかどうか」という観点のみにもとづいて物事の成否を判断する思考法を、「交換の論理」と呼ぶ。
    交換の論理は、「差し出すもの」とその「見返り」が等価であるようなやりとりを志向し、貸し借り無しのフラットな関係を求める。それゆえ、交換の論理を生きる人間は、他人を「手段」として扱う。だから信頼関係が生まれてこない。
    交換的な人間関係しか構築してこなかった人は、周囲に贈与的な人がおらず、自分自身が贈与主体でない場合に簡単に孤立してしまう。

    交換の論理を採用している社会、つまり贈与を失った社会では、他者とのつながりの喪失=死 だ。
    僕らがつながりを必要とするのは、交換するものがなくなってしまい「助けて」と口にするときである。贈与を失った社会では誰かに向かって「助けて」と乞うことが原理的にできなくなる。

    贈与を失った社会とは何か?それは「完全な資本主義社会」だ。
    資本主義社会というシステムは、すべてのものを商品に変え、すべての行いをサービスに変える。そのシステムの中では自身に「交換できるもの」がなくなったとき破綻する。


    3 贈与が呪いになるとき
    贈与には人と人を結びつける力があるがゆえに、その力はときとして私を、そして他者を縛りつける力へと転化する。善意や行為を押し付けられると、関係性の呪いにかかる。
    (ex.)毎年届いてしまい、いやいやながら返信する年賀状

    僕らはときとして、贈与を差し出す(ふりをする)ことで、その相手の思考と行動をコントロールしようとしてしまう。そして実際、相手は贈与の力によってコントロールされ、そのコミュニケーションの場に縛り付けられてしまう。贈与の呪いは、相手がそれに気づかないうちに、相手の生命力を少しずつ確実に奪っていく。

    贈与は、それが贈与だと知られてはいけない。
    「これは贈与だ、お前はこれを受け取れ」と明示的に語られる贈与は呪いへと転じ、その受取人の自由を奪う。手渡される瞬間に、それが贈与であることが明らかにされてしまうと、それはただちに返礼の義務を生み出してしまい、見返りを求めない贈与から「交換」へと変貌する。そして、交換するものを持たない場合は負い目に押しつぶされてしまう。
    (ex.)親は子に育児をする。それに対して子から親へは贈与を返すアテがない。ここから「親の言うことを聞かないと」という罪悪感が子に生まれる。


    4 贈与の時間性
    世の中には、差出人不明の贈与が存在する。そのため、贈与関係には受取人が必要だが差出人は不要である。贈与は差出人の意図によって規定されるのではなく、受取人が現れさえすれば、あらゆるものが贈与になる。

    サンタクロースの例(「これは私からの贈与だ!」と明示しない贈与の筆頭例)を考えてみてほしい。差出人は、「親である私からのプレゼントだと、いつか気づいてくれればいいな」という思いがある。これは未来完了の話である。
    一方、受取人が贈与の正体に気づくときは、「あのとき僕に渡されていたプレゼントは親からの贈り物だったのか」と過去完了的に気づく。
    「今―未来」「今―過去」が交錯するのが贈与の本来の姿である。
    それに対して、「交換」は無時間的、つまり、現在時制の話である。

    僕らは受取人としてのポジションから贈与関係を開始する。
    だとすれば、どうすれば贈与の受け取りを開始することができるのか?
    それに必要なのは、想像力だ。
    私がこれから行う贈与も他者へは届かないかもしれない。でも、いつか気づいてくれるといいな――。
    かつて受取人だった自身の経験から、そのように悟った主体だけが、贈与が他者に届くことを待ち、祈ることができる。

    贈与は差出人に倫理を要求し、受取人に知性を要求する。
    贈与に気づくことのできた主体だけが、再び未来へ向かって贈与を差し出すことができる。

    僕らにできることは、届いていた贈与に気づくことができる人間へと変化することである。


    5 ウィトゲンシュタインの言語ゲーム
    とある言語について本当に理解しているか?を確かめようとするときは、心の外、頭の外にある行為、振る舞いの成否を確かめようとする。つまり、僕らの言語的コミュニケーションは言葉と心の中だけで完結するものではなく、僕らの生活全体と合わさって機能している。

    他者のことを理解できないのは、その心の内側が分からないからではなく、その他者が営んでいる言語ゲームに一緒に参加できていないからだ。


    6 「常識を疑え」を疑え
    「常識を疑え」という言葉は、常識を捨て去れということではない。
    常識を捨て去るのは「逸脱的思考」であるが、より大切なのは「求心的思考」である。

    思考の枠組みがある程度強固な「常識」があるからこそ、それから逸脱した「アノマリー(変則的で、うまく説明がつかないもの)」に気づくことができる。
    求心的思考とは、常識の枠組みの方を疑うのではなく、それを地として発生するアノマリーを説明しようとする思考のことだ。

    アノマリーの検出には、合理性という基盤、常識的知識という足場が必要となる。
    求心的思考は、過去から送られたアノマリーに気づき、贈与を受け取るための能力だ。


    7 アンサングヒーロー
    世界は丘の上に置かれた不安定なボールである。この世界は、何か一つの歯車が狂うだけで破綻に向かって転げ落ちてしまう。そして、破綻してから、「それを防いでいた人あるいは防ぎ続けている人がいたのだ」と知る。
    その存在を事前に把握できるのは、求心的思考によって想像できる人だけである。

    昨日と変わらない日常が続くということはこれ以上ないぐらいの不合理である。均衡を保ったまま静止し続ける世界、本来アノマリーなのだ。
    そう感じることのできた主体だけが、その幸運を発生させた名もない「アンサングヒーロー」がいると知り、アンサングヒーローからの贈与を受ける。アンサングヒーローの贈与は気づかれないうちに自身に渡され、自身は再びアンサングヒーローとしての使命を果たしていくのだ。


    8 贈与のメッセンジャー
    贈与は市場経済と矛盾しない。贈与は市場経済の「すきま」に存在する。

    常識に支えられた言語ゲームの整合性を前提として初めてアノマリーが立ち現れるのと同様に、市場経済というシステムと交換の論理という下地があるからこそ、そこに贈与というアノマリーが見えてくる。
    資本主義というシステムが、贈与をアノマリーたらしめるのだ。

    贈与の受取人は、その存在自体が、差出人に「使命」を逆向きに贈与する。
    「受け取ってくれてありがとう」「頼ってくれてありがとう」。これは、差出人の側が何かを与えられたと感じたからこそ発することのできる言葉だ。贈与はそれが贈与であるならば、宛先から逆向きに、差出人自身にも与えられるのだ。

    自身が受け取った贈与の不当性をきちんと感じ、なおかつそれを届けるべき宛先をきちんと持つことができれば、その人は宛先から逆向きに、多くのものを受け取ることができる。

    贈与は与え合うのではなく、受け取り合うものなのだ。

    不当に受け取ってしまった。だから、このパスを次に繋げなければならない――。
    僕らの目的は、あくまでもパスをつなぐ使命を果たすことだ。そして、そこからしか贈与は生まれない。
    そのような贈与によって、僕らはこの世界の「すきま」を埋めていく。健全な資本主義、手触りの温かい資本主義を生きることができる。

  • タイトル見た時は正直「なんじゃそりゃ」と思ったが、読んでよかった。

    【こんな人におすすめ】
    ・Twitterなどで見かける浅ましい人々(精神的な乞食)を内心軽蔑しつつも、自らの中にも浅ましさを感じて憂鬱になることがある人
    ・子どもには子どもの人生があると分かりつつも、ついつい干渉してしまう人

    【全体的な感想】
    ・贈与論という分野があることを初めて知った。論理の飛躍もしばしば感じられたが、贈与という枠組みで世界を捉え直す試みは興味深いと感じた。
    ・最も重要な人間関係であるはずの家族関係が、交換の論理に支配されていることに気づいた。
    ・後半少しダレたが、ラストの第9章が白眉でエモさがカンストしている。
    ・受取者も必要である旨述べられているが、私は倫理観ある贈与者でありたい。

    【印象的だった点】
    ・無償の愛の正体は、反対給付の義務(不当に愛されてしまった)に衝き動かされた、「返礼の相手が異なる贈与」

    ・親が孫の顔を見たがるのは、「自分の子供が守るべき対象を得たことで、親自身が親から受けた一方的な恩(=気負い)から解放される」から

    ・子は親の苦労を知ってしまうと窒息する。一方的な贈与の負い目に耐えられない。
    ・親子関係に交換の論理が入り込むとさらに厄介。交換の論理は即時性を求める。

    ・贈与は、それが贈与だと知られてはいけない。
    明示的な贈与は呪いへ転じ、返礼の義務を生み出し、交換へと変貌してしまう。鶴の恩返し。

    ・サンタクロースの機能の本質は「時間」
    ・贈与は差出人に倫理(届いてくれるといいな、と言う節度・祈り)を要求し、受取人に知性を要求する。
    ・過去の中に埋もれた贈与に気づき、受け取ることのできた主体だけが、再び未来へ向かって贈与を差し出すことができる。
    ・差出人の祈りなき贈与は交換となり、受取人の想像力なき贈与は気付かれることなくこの世界から零れ落ちていく

    ・(ビジネス観点)お客さんサイドの「健全な負債感」の集積こそが、財務諸表にのることのない「看板」の価値になる

    ・僕らは、ただ存在するだけで他者に贈与することができる。受け取っていると言うことを自覚していなくても、その存在自体がそこを宛先とする差出人の存在を、強力に、全面的に肯定する。

    ・教養とは誤配に気づくこと。手に入れた知識や知見が贈与であることに気づき、その知見から世界を眺めたとき、いかに世界が贈与に満ちているかを悟った人を、教養ある人と呼ぶ。

  • 資本主義は等価交換の原則によって発展してきました。価値を生み出し、金銭を交換する。あるいは合理性を追求する論理を身につけることによって。しかし、人間社会にはそのような論理から逸脱する行動もある、それが贈与です。
    贈与を行うとき、心のどこかで「返礼を期待してしまっている」自分がいるという経験はあるでしょう。ボランティアをするとき、「認められたいと思ってしまう」こともあるでしょう。それは偽善である、という感覚をなんとなく持っていますが、ではどういう行為がよいのか?という言葉を持っている人は少ないのではないでしょうか?
    近内氏は贈与は「気づかれてはならない」ものだとし、例えば時間的に遅れてやってくる贈与(親→子)がそれだとしています。そして、贈与は受け取る側がいないと成立しないものであり、それぞれのなすべきことは誰かにきっと届くと「祈る」こと、そして、「想像力」によって受け取ること、その連鎖をつなぐこと。近内氏によれば、受け取る側から贈与はスタートする(このあたりはオブジェクト指向の哲学とも通じるかも)ので、歴史を勉強することが大事なことだ、と処方箋を与えています。
    これから贈与は大事なキーワードになってくると思うので、この文脈を1つの指標にしていろいろなものを読むとまた違った捉え方ができるのでは?と思いました。

  • ワタシの中では「贈与論」と言えば、内田樹。大変失礼ながら、本書もその焼き直しかと思っていたのだけれど、さにあらず。それどころか内田の贈与論を超えていた。
    加えて、昨今ますます目にするようになった資本主義批判かと思いきや、市場経済こそが贈与を贈与たらしめていると説く。目からうろこ。

  • 借りたもの。
    人間のコミュニケーションに、お金を介した等価“交換”とは異なる、“贈与”の関係が存在すること、その重要性を紐解いてゆく。
    “贈与”という言葉から、物々交換的な話の歴史の話かと思いきや、読み進めてゆくと哲学的な部分にまでくい込んでゆく。

    それは“無償の愛”というイメージしやすいものから、“呪い”ともいえるもの……毒親問題を含む親子関係といった世代間に伝播するもの、“教養”という言葉に置き換えられるが、その仕組みを逸話や心理状態に言及しながら、論理的に説明してゆく……
    お金との等価交換以上のもの――額面通りの一瞬の自称ではなく――贈与の未来性とも言える「痕跡(アノマリー、常識に照らし合わせたときにうまく説明のつかないもの)」があることを指摘。

    “無償の愛”の負の面を指摘する件が興味深かった。
    与えるだけで受け取らないという事は、他人からの贈与を拒否するという否定、拒絶ともいえるという!

    “無償の愛”に言及した、ジョン・ガーズマほか著『女神的リーダーシップ 世界を変えるのは、女性と「女性のように考える」男性である』( https://booklog.jp/item/1/4833420678 )にも通じる、信頼につながる贈与の在り方が、新しいリーダーシップを思い出す。

    クロード・レヴィ=ストロース『火あぶりにされたサンタクロース』( https://booklog.jp/item/1/4044002207 )とも通じる。…あれは生者と死者との間での関係を言及した、民俗学的視点だが。

    ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』( https://booklog.jp/item/1/4047261270 ほか )の主人公・ルシウスから、「シェアせずにはいられない」人間の贈与論を説くのが面白かった。

    flier紹介。( https://booklog.jp/item/1/4910063056 )

  • お金とあらゆるものの交換で成り立っているのが資本主義。贈与とは見返りを求めないもの。
    想像力がないと自分が贈与を受け取っているということに気づけない。だいたい贈与とは既に受け取ってしまっているもの。

    いろんな事情を例に出して著者の考える贈与論に当てはめていた印象。わかったようなわからんような。
    でも、贈与を受け取ってしまったら返さなきゃいけなくなり身動きが取れなくなる(恩を返す義務が生じてしまう気がする)というのはなるほどと思った。

  • 今目の前に当たり前にあるものが、誰かの贈与であり
    気付かないまま毎日、何となく同じように生きている。
    子どもの頃に誰しも夢見たサンタクロースという存在が
    クリスマスの日にこっそり枕元にプレゼントをくれるのがたまらなく嬉しいのは
    ギブアンドテイクやWin-Winなんてない世界だから。
    今の当たり前って、実は当たり前では全くなくて
    先人の苦労だったり発明だっりいろんなものを後世に残してくれた訳だけど
    それは全て、過去からの贈与であるということ
    忘れてはいけないなと思う。

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著者プロフィール

1985年神奈川県生まれ。教育者。哲学研究者。
慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。リベラルアーツを主軸にした総合型学習塾「知窓学舎」講師。教養と哲学を教育の現場から立ち上げ、学問分野を越境する「知のマッシュアップ」を実践している。本書がデビュー著作となる。

「2020年 『世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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